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 それは言い訳だと知っている。

掠奪と受託の違いを述べよ

「おお、おかえり。意外と早かったな」
 一ヶ月くらいはあいつ等が放してやらないんじゃないかと思ってた。暢気に片手を上げて噴水の縁に座ったまま笑うリンドウの顔は穏やかだ。想像したよりも良い顔色に密かに安堵の息をついたセンカに気付いたか否か、笑みを深めた彼の傍らから飛び出した喜色満面のレンギョウが元気な吼え声と共に走り寄って来る。飛びついて来た小さな毛玉はシオの癖がうつりでもしたのだろう。衝突する勢いで胸に当たった温もりを受け止めたセンカは擦り寄るふわふわの頭を撫で、眩しげに麹塵を細める男の前へ歩み寄った。
 この姿を見るのは数日ぶりになる。記憶にある通りの、少し傷んだ漆黒の髪と切れ長の麹塵。通った鼻筋の、雄々しく、美しい人。変わらない低い声が耳朶を撫で、鼓膜から身体の奥底まで響き渡る。彼の部屋で見た幻と違うのは、服がぼろぼろな事と、変容した右腕。あとはやや髪が伸びたくらいだろうか。
「…?どうした?」
 小さな包みを抱えたまま、膝が触れるまであと数歩の距離に佇んだセンカに眉を顰めた男は、訝しんでいるというよりも心配げな表情を浮かべていて、その口から紡がれた案ずる声にすら安堵を覚えた不謹慎な自分を、僅かに白藍を伏せた彼は密かに呪った。脚に纏わりついたレンギョウが小さく啼いて見上げている。
 これから報告する事を彼はどういう気持ちで受け止めるのだろう。己が死んだとされている事に打ちひしがれるだろうか?或いは、仕方の無い事だと諦めるだろうか。出来れば、言いたくはない。黙っているのも一つの手であろうが、しかし、仲間を気に掛けるリンドウの事。現状を報告せずにいる方が、彼の心は波を立てるのだろう。――――結局は、選択肢など示されてはいないのだ。センカがそれを望む事など万が一にもありえない。
 此処に来るまでに決めた覚悟をもう一度、胸の内で決め直した彼はゆるりと首を振って麹塵を見据えた。
「……いえ、何でもありません。少し、食糧を持ってきました。あと、報告があります」
 悲観するも諦念するも、決めるのは自分ではない。己は物であるから、余計な事を考える事は許されない。割り切れ。考えるな。「これ」は人ではない。
 小包をそっと差出す白い手が震えたのは、何故であったのか。白雪より青褪めた月に近い顔の色を見比べたリンドウは薄く開いた唇に目を細めただけで、ただ、ありがとな、と手を伸ばした。


 包みの中身を見たリンドウの反応といえば、おお懐かしい、だの、保存が利くって良いよな、だの、何処となく年寄染みたもので、正面に立ったままその光景を眺めたセンカの目は思わず半目になったものだ。もう少し早く持って来てやれば良かったかもしれない。そんな思いも過る。
 次はもっと早く持って来ようと妙に生活感のある事を心に決めながら、けれど、仕事を怠る訳にはいかない。朗々と紡ぐ言葉の内容は包みの中身の話ではなく、此処最近の極東支部の動きだ。自分達の現在の扱い。それに至る経緯。第一部隊に課せられている任務。シオの状況。仲間の様子。ターミナルから得られた情報と人伝に得た情報とを簡潔且つ詳細に纏めて語る。
 直立不動で報告を続ける銀色を余所にレンギョウと二人で包みを覗き込むのに余念が無い男は聞いていないようでありながら、実際はそう見えるだけなのだろう。抜け目のない人である事を、昼夜問わず追いかけられていたセンカはよく知っている。こちらが少しでも気を抜けばすぐさま彼の腕の中。身体はおろか、冷たいばかりの筈の心まで捕らえて放さない。己の熱で相手の全てを溶かし、交わろうとする人。雨宮リンドウとはそういう危険な男である。
 一通り説明し終わったと同時、顔を上げたリンドウの唇がいつものように弧を描いて見せて、センカは居心地の悪さに目を伏せた。
「ま、予想通りってとこか。捜索も四日間探してくれりゃあ上等だな」
 シックザールにしてみれば一日も待たずに打ち切りたかった事だろう。何せ、帰って来て欲しくはない人間だ。生きていようがいまいが構わないどころか、自分が死ぬように差し向けたのだから寧ろ、生きていて貰っては困るというもの。四日間も続いた捜索の理由は、まあ、精々、きちんと死んだか確認したかったとか、そんな所だ。その確認も手駒のセンカが戻ってくれば出来る事。戻りの遅いセンカの代わりに捜索隊に探させていたのだろう。自分の死体を。見つかれば胸を撫で下ろして万々歳。見つからなくとも、確実に帰ってくるセンカの報告を待てばいい。――――奴の誤算はその報告を持ってくる筈のセンカが対象を助け、共に逃亡してしまった事だ。
「…俺の事は、ばれてないんだな?」
「はい。僕は週明けにも上等兵階級に戻された後、曹長階級への昇格が決定していますが、先輩は依然、二階級特進のままです」
「そりゃいい」
 誤算が増えている事に奴は気づいているだろうか?大方、手駒が嘘をつく筈が無いと踏んで信じ込んでいるのだろう。それは他の幹部連中にしても同じ事だ。
 死んだ事にされているのだから二階級特進のままなのは当たり前だが、恐らく、センカは何処にも、誰にも真実を語っていないに違いない。上官であるツバキにも、友人であるコウタにも、養父であるサカキにすら。警戒心の強い彼らしい選択ではある。水を溜める器には穴は少ない方が良い。彼と、シオだけが黙っていれば良いのだから、己の言動にだけ気をつけていれば秘密は守られる。元より、嘘とは縁が無いように見えるセンカが、まさか、生きている雨宮リンドウを隠しているとは誰も思わないだろう。良い様だ。意地糞悪くもそう脳裏で毒づく。あの余裕顔に一撃食らわせたようで、胸が空いた。
 こちらが落ち着いた頃にのこのこ帰った時に間違いなく浴びせられるだろう仲間の鉄拳だけを覚悟しておけば良いか。暢気に胸中でのたまったリンドウはレンギョウがいよいよ鼻先を突っ込みそうになっている包みの口を閉めた。銀色は、まだ、立ち止まった場所に佇んだまま。
「あとはどうやって計画を阻止するか、だが…俺はこの状態じゃあ動けないしな…」
「その件についてはシオが支部長の手に渡らない限りは現状維持のままでしょう。その間に講じる策を練っておくべきかと」
 特異点であるシオがサカキの手にある限り、アラガミの捕食連鎖の集大成たるノヴァは誕生せず、終末捕喰は起こらない。よしんば、ノヴァ本体が目覚めたとしても、特異点がなければあくまで「ただの巨大なアラガミ」である。シックザールの計画はノヴァが真なる意味で誕生し、終末捕喰が起こらねば始まらないのだ。何としても現状が打破される前に対策を講じなければならない。
 第一部隊にとってその鍵を握るのが、恐らく、リンドウが残したという置手紙なのだろう。帰還してから、サクヤとアリサが密かに動いているのには気づいていたが、彼女達の行動はそれに基づくものなのかもしれない。
「で?他には?」
「…え…?」
 脳裏で巡らせた思考に区切りを付けたセンカは、耳に滑り込んできた問いに暫し、白藍を瞬いた。天井から差し込む淡い光を吸い込む漆黒の髪が、微風に揺れている。
「あるだろ?他に報告する事が。…俺だって死んでも尚、いつまでもお前の上司でいられるとは思ってないさ」
 それは、つまり――――知っている、と。胸が、ぎしり、音を立てて軋んだ。
 確かに死んだ人間をいつまでも隊長に据えて置く訳にはいかない。例え、生きていると信じていたとしても、実務上、死者を指揮官には出来ないのだ。それを、その立場にいた彼は、よく理解している。理解した上で、後任の予測もしている。いつまでも「お前の」上司でいられるとは思っていないと言った、限定した言い回し。それが彼の予測であり、センカが言葉を濁す真実の部分だ。
 流石、第一部隊の隊長を担う男。事を透かして見る洞察力には、喉を詰まらせるしかない。センカの立場、戦力を踏まえ、且つ、シックザールの思惑も考慮に入れて導き出した答えだろうが、正確さは目を見張る程。こうも率直に、彼の方から話を振ってくるとは思わなかった。
 さわり。ざわめく木々の涼やかな音と噴水の飛沫が光る。
 微笑は、語らせようとする話の内容に勘付いていて尚、穏やかに見えた。それは、彼の覚悟であったのか、それとも、顔を伏せてしまった銀色の為であったのか。
 ゆっくりと、肩を縮めた白雪の花弁が開く。
「………今朝、辞令が…下りました…」
「ああ」
 震える、唇を、噛み締めて。
「本日付で、僕が…第一部隊の隊長に、就任するようにと…」
「だろうな」
 お前、強いからなあ。此処まで来ても、穏やかさを崩さないリンドウに、ついに握り締めた白雪の爪が己の掌を破る。戦慄く白い手を伝い、ぽたり、落ちる艶かしい程の赤色。か細い声が喉を上り、詰まり、幾度かの躊躇いの後に小さな謝罪が大気を震わせる。申し訳ありません、と、吐息に掠れた声とも言えぬ声が沈黙を導いた。
 酷い話だ。醜い行いだ。彼を嘲るような真似をしても許しを請おうとする己の姿に反吐が出る。いっそ、身の程知らずと罵ってくれれば良いものを、ゆったりと微笑んだままの彼は声を決して声を荒げたりなどしないのだろう。苛立つ素振りさえ見せない彼の瞳はいつものようにただ愛しさを湛えてこちらを見据えている。注がれる暖かな眼差し。差し込む陽光の如く柔らかな。それは優しさの名を借りた刃だ。悲鳴を上げ、逃げたくなる脚を縫い止め、真綿よりも柔らかく、緩やかに、安らぎの中で死を齎すそれは冷えたこの身を確実に焦がし、溶かしていく。
 閉じた視界に広がる闇が冷たい。冷える指先。凍る思考。温度の無い自分がこうして「冷えた」と認識し始めたのはいつからだっただろうか。気がつけばこの異常な状態は平素からのものになっていて、その度に己と同じものである筈の神機に触れて温度を確かめた。自分は神機と同じだ。己の一部を用いて作り出した神機は確かに己自身であり、それ以外でなど有り得ない。それなのに、どこで、どう認識を間違ってしまったのだろう。確かめる為に触れた神機はいつからか自分とは違う温度を持っていた。
 同じ気配の、違う温度を持つもの。同じ鼓動の、違うもの。――――これは、「何」だ。自問に対して、冷静な意識が答えを返すのに時間はかからなかった。しかし、それを認めれば全てが意味を変えてしまう。自分がアナグラにいる理由も、サカキが庇護してくれる理由も、シックザールに従う理由も、己の存在すら。
 自分が物だという事実を、いつ、誰が、どうやって壊してしまったのか。今まで信じていた己に対する己の認識は、いつから「まるで人間のように」なってしまったのだろう。
「センカ」
 嗚呼、声が聞こえる。抗いきれない、声が。殊更、緩やかな仕草で上げた顔の、重く開いた目蓋が白い光に沈む漆黒を見る。
 噴水が撒く光の飛沫と揺れる緑を背景に軽く両手を広げ、弧を描く唇で耳朶を食むようにもう一度、名を呼んで。

「おいで」

 大気に溶けた声音の、何て穏やかな事。
 華奢な温もりを迎える為に伸べられた腕と変わらぬ微笑を見比べる白藍が躊躇いと戸惑いを露わに睫毛をはためかせる。
「……先輩…?」
「いいから来い。ほら」
 低く、甘い毒を含んだ声音で誘われ、それでも抗える者など何処にも存在しないに違いない。
 溜息を生む美しい面に、微風に揺れる漆黒の絹糸。長い前髪から覗く深緑の色。その奥に焼け付く熱情を灯し、熱を孕む声音を響かせる男は、その熱過ぎる温度こそが、何より罪の刃を鋭く磨がせる事を知らないのだ。
 愛していると言われても返せるものなど何一つ無い。シックザールの管理下にあるこの身すら己のものではなく、何も持たないただの物である自分に強いて出来る事といえば、研究者達が夢中になった行為を捧げる事だけだ。だが、それは彼の望む事ではないのだろうと、漠然とだが、理解している。事実、彼は身体を絡ませては来るものの、一度も無理に唇に触れた事は無く、性交渉を強要した事も無い。先日、繁殖実験の話が露呈した時には秀麗な顔に嫌悪感さえ浮かべた程だ。――――潔癖、なのでは無いと思う。時折、見せる猛獣のような目で欲を耐える仕草から、人並みに性欲はあるようであるし、そうでなければ、艶めいた双眸で誘ってくる事など無いだろう。しかし、そんな折にリンドウが紡ぐ言葉は常に半分以上が冗談で構成されている事も知っていた。本気ではない。ただ、言ってみただけ。そんな感じだ。こちらの肩が少しでも飛び跳ねる時には、すぐさま、暗い情欲を拭い去り、冗談だと笑って見せた。その後には必ず、熱を帯びた身体を離して距離を取りながら消し切れない性への欲求を湛えた双眸で見つめて来ていたから、やはり潔癖なのでは無いと思う。
 実際、彼の女性遍歴は中々に凄まじい物だとサクヤとツバキから聞いていた。地獄の釜の蓋が開く事数多。好色といって差し支えない遍歴はお世辞にも褒められたものではない。しかし、なればこそ、センカは正体が知れたこの期に及んでも注ぐ眼差しを澱ませる事無く慎重に慎重を重ねて、醜くおぞましいだけのこの身に触れて来ようとする雨宮リンドウという男が、本気で化け物でしか有り得ない自分を欲しているのであると僅かながら、信じる事が出来た。それに応えられるかは別問題にしろ、センカが今までに接した性欲を持つ生き物の誰よりも、リンドウは真摯に、労わりと愛しみを以って接してきている。決して焦らず、急かす事も無く、少しずつ距離を詰めながら。彼は、他の生き物のように無体を働こうとする事は決してない。
 今も、そうだ。こうして目の前で両腕を広げ、そのまま待っている。少し動けば詰まる距離を詰めず、強引に抱き寄せる事もないまま、只管にセンカが自ら他者の温もりに触れる事を望んでいる。
 それは恰も退路だけは与えてくれない、甘美な檻のようだ。甘い罠とは、こういうものの事を言うのだろう。
 抗えない引力に引かれ、一歩、二歩、進む足。気持ちばかりの些細な抵抗が靴の下で砂利を奏でるものの、それも瑣末な事。男の脚の間に立った白藍が見下ろす麹塵の暖かさが溶け掛けた胸の凍えをついに溶かし切り、切なく顔を歪めた白雪の細い指先が端整な男の顔に掛かる鴉の濡羽をそっと除けるのに合わせて、蝶を捕らえた優しい檻が閉じた。
 黒く変容した右腕が痩身を膝に座らせれば、空いた左手が銀色の髪に伸ばされ、白い頬を厚い胸へと引き寄せる。絹糸のような煌く銀糸を荒れた指で梳きながら、リンドウは抱き込んだ愛しい人に頬を寄せた。澄ました耳に聞こえる、切なくも清廉な音色。
「…っ、申し訳、ありません…部屋も、貴方の部屋を…」
 木の葉の噂にも消える声で囀り、震える小さな美しい銀色が、震えたままであればいいのに。そう思う自分は薄情な男だろうか。少なくとも、不安に震えていてくれれば、こうして抱き締めていられる。彼の中を全て、自分で覆い尽くせる。浅ましい欲は嗜虐心を煽り、けれど、自分が欲しているのはこんな気休めの温い愛情では無いのだ。感情に揺れ始めたばかりの彼には酷かもしれない。それでも、自分は、もっと熱く、激しい、絡み付く愛が欲しい。性行為に頼るものではない、もっと、センカの全てになれるような。
 今のこれはただ彼の不安に付け込んでいるだけだ。だが、それでも、愚かな男の愚かな部分が身体の奥で不謹慎な歓喜に震えている。
 この愚かさに、彼が幻滅しなければ良い。思いながら、謝罪を繰り返すセンカの声を聞いていたリンドウの口がゆっくりと開く。
「…それは何で謝ってるんだ?お前がアラガミだから、俺の後を継ぐのは相応しくない、俺の部屋を使うのは間違ってると?」
「僕は…っ」
「自分が物だから、なんて馬鹿げた事をまだ抜かすつもりなら痣の一つは覚悟しろ」
 柔らかさとは打って変わった硬い声色に刹那、ひゅ、と鳴った白い喉が凍った。
 俯いたまま動かず、肩を縮めたセンカの旋毛に落とさなかった拳の代わりに口付けを落として、膝の上の身体を抱え直した逞しい腕が抱き締める手に力を込める。
 さらり、傷を負った肌を走る包帯に滑る雪の光。
「よーく聞け。何度でも言うぞ?お前は物じゃない。お前は俺が愛して愛してどうしようもない位、愛して止まない鳥羽センカという『ヒト』だ。アラガミだろうが、何だろうが関係無い。俺の…俺達の仲間だ。忘れるな。妙な所で割り切ろうとするな」
 そもそも、痛みを訴える心を持つ時点でセンカは物では有り得ない。生まれた当初こそ、感情らしい感情も無かったかもしれないが、今では、起伏が乏しいながら、痛みも悲しみも喜びもする立派な「人」である。その「人」が、己を「物」と位置付ける事自体がリンドウにとっては許し難い事だ。それは、ひいてはセンカを信じる者達を愚弄する事にもなる。
 自分達は何も考えず、感じる事の無い「物」を信じたのではなく、惑いながら傍にあってくれる「人」を信じたのだ。
「何より、俺がお前を『人』だと肯定してるんだ。そして、俺が肯定した『人』のお前は『人』の俺を肯定してくれているんだろう?」
 人間ではないかもしれない。だが、「人」だ。自分達はそう認識している。意思があり、感情がある、「人」という生き物。
「…ですが、それと、生きている貴方の居場所を僕が奪う事は違います…」
 握り締めていた手を開き、血の滲んだ掌を見つめて揺らいだ白藍が燐光を散らしてかぶりを振った。
 人である事を肯定する事と、居場所を奪う事は全く違う事だ。彼の戻る場所を自分が奪う事などあってはならない。彼が戻って来れるよう、居場所を取っておかなくてはならないというのに。
 言外に告げて唇を噛んだ銀色に、しかし、それを眺める男は少しばつが悪いような表情を浮かべて頭を掻いた。
「あー…それなんだが…俺としては少し安心してんだよ」
「……え…」
 驚愕の吐息を零しても尚、一向に顔を上げようとしないセンカの首筋を少しばかり見飽きて来たリンドウが伏せた顔を覗き込むように背を丸め、穏やかな口調に似合う微笑を浮かべてみせる。視界を占める、雄々しく、美しい、獣の微笑。
 乾き始めた血でかさついた手をするりと撫でて包む大きな手の熱が、冷えた白魚をじわりと暖めた。
「お前が隊長に就くって事は少なくとも支部長はお前を直に始末する気は無いって事だ。お前に第一部隊を見張らせようとしてるんだろうしな。且つ、お前の実力なら仲間を無駄死にさせる事もなさそうだ。サクヤ達は勿論だが、あのソーマもお前には懐いてるみたいだし…問題無いだろう。部屋については事務的に避けられない事だからどうしようもないが…俺の後に見ず知らずの奴が入って滅茶苦茶になった所で帰っても具合が悪いだけだからな…寧ろ、お前が入ってくれて助かるくらいだ」
 包んだ指の背を丁寧に一本一本辿る、無骨な指先。移る熱が指先から身体を侵食する。
 緩慢な動作で上げた視線に絡む麹塵のそれが伝えるのは、揺ぎ無い覚悟と信頼だった。

「だから、俺が戻るまで、全部預かっててくれ」

 その華奢な肩には重い荷物かもしれない。それでも、預かっていて欲しい。自分が帰れる日が来るまで。仲間の命を。生活する場所を。あるべき地位を。心を。あの場所にあったものを、全て。
「お前が預かって、待っていてくれるなら、俺は絶対に帰れる」
 死を覚悟した己の建前をかなぐり捨てたあの時も、同じ事を思った。――――必ず帰るから、待っていてくれ。声にならず、鮮血に溺れた言葉は彼には伝わらなかったかもしれないが、自分はその想いを忘れてはいない。今でも同じ事を思い続けている。必死に足掻く様がどれ程不恰好だろうと、その先にセンカがいるなら、会えるなら、触れられるなら、きっと、黄泉路を引き返せる。三途の川も泳いで戻って来られる。絶対に。
 射抜く緑の矢を暫し受け止め、探り、嘘を見つけられなかった白藍が少しの逡巡の後、ゆらゆら水面の如く揺れる瞳で胸の内を示しながら小鳥の声音で囀った。
「…それは、奪う事とは、違うのですか?」
 どちらにしろ、貴方の居場所に陣取っている事に変わりは無いのではないですか?不安を映した声色は酷く切なく響き、揺れる湖面が意趣返しのように麹塵を捕らえる。
 抑え切れない恋情のまま、再び強くセンカを抱き締めたリンドウは己の胸に押し付けた白雪の肌の熱を感じて目を閉じた。
「違うさ。意味が、全く…な」

 だってそうだろう?お前が守っていてくれるなら、少なくとも俺はそこに俺の心を置いていける。



久々の温室夫婦。嫁が後ろ向きすぎて旦那が一生懸命です。
内容については文中でほとんど補完している感じがしなくもないのであまり語る事はないんですが、あえて言うなら此処数回分の新型のもやもやをリンドウさんがあれこれ理由をつけて納得させてあげた形です。根本的な解決には、勿論、なっていないというオチ。こういう所は大人の汚い所ですね。口八丁手八丁というか。
でも、ちゃんと本音な部分もありますよ。部屋を使う人云々はきっと本音です。まあ、誰だって一時期とはいえ、見ず知らずの人が使ってた部屋を返して貰ったってあまり気分はいい訳ではないですし、そういう意味では比較的よく知っている新型が使ってくれる分には安心できるのではないかと思います。
意味ありげな言い回しについては、ほら、これ、一応、原作沿いですから(何)

あと、「おいで」はどうしてもヤりたかった。

2012/06/18