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 まだ残っている。あの熱が。
 だというのに、それを齎した貴方が此処にいないのは――――何故でしょう?

熱を遺したあの指先

 銀色の細い身体が背を向け、吹き荒ぶ砂塵の向こうに消えるまで、ふてぶてしい程の余裕の笑みを崩さなかった己を褒めてやりたい。鋭敏化した聴覚をもってすら捉えられなくなった小さな足音を確認したリンドウは疼き出した右腕を抱え、その場に膝をついた。
「ぐ、が…ぁ…っ!ぅぐ…」
 雄叫びを上げようものなら、温室の気配を気にしながら出て行ったセンカはすぐさま飛んで帰ってきてしまうだろう。堪える為に食い縛った歯がぎりりと音を立て、脳髄を僅かに揺らす。どうにか呻き程度に抑え、黒霞を纏う腕をきつく掴んで爪を立てつつ彼は遠くに消えた愛しい気配を探った。――――大丈夫だ。もう聞こえない距離まで離れてくれたらしい。
 詰めた息を吐き出せないまま、再び盛り上がる波の如く沸き起こる苦しみに頬を伝い、大地に弾けるのは汗の玉。心配げに尻尾を垂らして近づいてきた幼子を見た男は荒い息をつきながら、それでも微笑を浮かべた。
「…わかってるな?あいつに、言うんじゃないぞ…」
 弧を描く唇を必死に保とうとするリンドウの顔を眺め、力無く鳴き声を上げて項垂れるレンギョウの眼前で、立ち上る霞を沈めた手が痙攣している。
 侵喰が殊更、進行を早めたのはセンカが出て行った日からだ。愛しい気配が遠退いた途端、身を襲った異変に立つ事すら出来なかった。強い吐き気と体内を這いずり、作り変えていく何かの感覚。途方も無い痛み。苦しみ。奪われる呼吸に遠退こうとする意識。記憶。恐れていたと共に覚悟もしていた事態。理解した本能が、ついに来たかと、閉ざされた未来を覚悟するより先に残された自我が「雨宮リンドウ」が消え失せる事へ心を痛める銀の白雪の姿を思い出した。この身が少しアラガミに近くなったと知った瞬間にも、潮が引くように顔を青褪めさせた彼だ。きっと、症状が進行したと知れば酷く悲しむに違いない。己を責め、けれど、個人的な感傷を抱く事すらおこがましいと感情を殺すだろう。――――愛しい人が他でもない自分の事で息を詰め、自ら首を絞めながら手にした刃を己が胸に突き立てる。それだけは、避けなくては。そう、思った。否、思った時には決めていたのだろう。気付けば、霞む意識を繋ぎ止め、掠れた視界で懸命に吼えるレンギョウに脅迫染みた語調で口止めをしていた。
 幼子はその言いつけをしっかりと守っている。しかし、それは罪だとも、この賢い仔は知っている。それが、信頼する人を裏切る行為である事も。
「……こんな事までお前に押し付けるのは心苦しいんだが…付き合ってくれ、な?」
「がうぅ…」
 迷い、何度も虚空と地面を視線で行き来しながら賢明に口を噤んでくれる幼子まで巻き込んで、いい歳をした大人が何をやっているのか。姉が見たなら呆れ果てて鉄拳の一つでも飛んでくるかもしれない。他者は勿論、自分にも厳しいあの人はセンカを守る事に躍起になっていたから、一発かました後に、ふんぞり返って、腑抜け面が嫁を娶るなど百年早い、くらいは言ってくれそうだ。まあ、まったくもってその通りであるのだけれど。
 諦めたくは無い。生き残ると言い切りたい。だが、現実がそう甘くは無い事も、自分は痛い程よく知っている。
 見上げた空は抜けるような青で、流れる雲が淡く溶けかける様は恰も彼の人の白藍を思わせた。
「あー…終わってるなぁ…」
 別れた傍から会いたいなんて。口の中で転がり、消えた呟きにレンギョウの尻尾がぱたりと撓る。思い出すのは抱き締めた柔らかな身体の感触と恐る恐る触れてきた細い指先の温度。
 いっそこの想いごと全て忘れられたなら、すぐにでも獣に変じて生を終えるだろうに、胸に息衝く熱情は捨てるにはあまりに強く、愛しすぎる。自分が真に死を迎えるとすれば、あの美しい銀色の、儚い燐光の一欠片すら忘れてしまった時なのだろう。寧ろ、そうでなければ己が死を受け入れる事は無いとすら思う。それは確信だ。彼の事さえ記憶から消え、牙を剥く時、漸く未練がましく生に縋って生き延びていた自分は天へは旅立たずに、黒い霞となり、オラクル細胞に還る。そして、その日はそう遠くない内に訪れるのだ。
 渡る風が身に滑る汗を冷やし、体温を奪って過ぎて行く。同時に自覚する、記憶の砂が零れ去る感覚。
 今にも零れそうな雨粒を堪えて擦り寄ってくる小さな獣に、やはり笑みを浮かべたリンドウは左手の人差し指を一本立てて、注ぐ柔らかな陽光の中、そっと己の唇に当てて見せた。
「今のも、秘密だ」
 それはいつかに子犬と白雪が見せたものと同じ光景。


 まさか、このような場所で会うとは微塵も思わない。
「センカ、か?」
「…教官…?何故、此処に…?」
 アナグラに帰る際、外界の名残を丹念に払い除けておいたのは幸いだった。遭遇する確率で言えば、シックザールとサカキの次に低いだろうツバキに会うとは夢にも思わなければ、予測がつく筈も無い。これが第一部隊辺りであればいなす思考も働いただろうに、彼の面影を映す彼女に会うとは、昨今の自分はなんと運が無いのだろう。そもそも、彼女は幹部でも教官という立場であり、神機使いの生活するベテラン区画の住人ではない。
 秘密の抜け穴よろしく通り抜けた旧地下鉄跡からアナグラに足を踏み入れ、新たに宛がわれたベテラン区画の部屋に戻ろうと密かに区画移動用のエレベーターに乗り込んだセンカは、目的の階層に辿り着いた箱が口を開けた瞬間、白色灯に翻る闇を認めて密かに身を固めた。
 ツバキの波打つ黒髪が整えられた細い指先で払われ、僅かに見開いた麹塵がとりあえず箱から廊下へ降り立った銀色の燐光を見つめて、微笑む。
「お前の復帰時期が確定したから、その通達に来た。呼び出しても良かったんだが、まあ、何だ…少し、気になってな。お前がどういう顔をしているか見に来たんだ」
 呼び出したのでは、お前も構えて並ぶだろう?艶やかな紅を引いた唇に困ったような笑みを浮かべるツバキは言葉の合間の、埋め切れない間を繋ぐようにファイルを持ち直した。挟んだペンが落ちそうにずれ、さり気なくそれを直す指先で、彼女はこつりと一つ爪を奏でる。
 麹塵が眺めるのは蛍光灯の光を滑らせる銀髪をふわりと揺らすセンカの姿。ぼんやり佇む細い身体は突然の遭遇にやや緊張しているように見えた。小鳥が緩やかに羽ばたくようにはためく長い睫毛に守られた白藍が揺れているように見えるのは気にかかるものの、今朝、辞令を下した折に見たような苛烈な不安定さ――それは激しくありながら、とても不安定だった――は何処にも見当たらない。
 階層を過ぎていくエレベーターの機械音だけが空間を渡る中、首を傾げた銀の髪から零れた燐光にツバキは安堵の息を吐いた。
「……大丈夫そうだな」
「あの…?」
「お前の顔だ。今朝の顔と、大分、違う」
 あの時の顔といえば、ツバキの中では一、二を争う羅刹の面だったと断言出来るが、全てが恐ろしかったかと言えばそれは否だ。先に「苛烈な不安定さ」と表現したのがその答えにあたる。
 張り詰め、冷えた気配の奥底にひっそりと沈む悲しみ。怒りよりも先に立つ戸惑いと誰かの影を追う思い。隊長を命じられた意味を正しく理解した時の崩れ落ちるような揺らぎ。昇格への喜びではなく、明らかな嫌悪。感情の色に乏しい白藍が宿したそれは彼が見せた初めての抵抗だったように思う。命令には絶対服従、下されたものには眉一つ動かさず従って来たに近い位置を保って来た彼だ。ああして異議を唱える事にどれだけの勇気を持って望んだのか。礼儀と感情の波の間で葛藤しながら、声を沈め、決して荒げるまいと己に冷静を強いていた姿が思い出される。常の無表情を超えた、能面よりも平坦な表情は表現する術を失ってしまったが故だったのだろう。一時は恐ろしさを抱いた記憶も辿り直せば、寂しいもの。もしも、彼がこれ程不器用ではなく、コウタやサクヤくらいに表現の術を持っていたなら、氷の羅刹は燃え盛る炎の羅刹へと変じられていたかもしれない。それを思えば、彼の表現下手は酷く悲しいものに思えた。
 センカ個人との付き合いは長くないが、ツバキとて伊達に教官の職を頂いてはいない。当初、紙面上が全てだった烏羽センカという存在は、今や、人としてツバキの記憶の棚に収められていた。無論、その棚には弟の想い人であるとか、実は器量良しの良妻になりそうだとか、果ては、是非とも雨宮姓を名乗って欲しいだとか、そんなどうでもいい情報もあったりするのだが、情報の大半を占めているのは彼の性格についてだ。
 時系列順に挙げれば、始めの語は稚拙にも、無感動の一言。時を止めているのではないかとすら思う感情の起伏の無さにはさしもの自分も驚いた。先のエントランスでの事件で顔を殴り飛ばされても揺らがなかったものだから、あの時は流石に不感症か障害までをも疑った程である。良好な関係を築きつつあったコウタは、センカはただ言わないだけで怒りもすれば喜びもする、と友人の酷い言われ具合に半ば膨れ面で文句を垂れたものの、実際に接触する機会のそう多くない自分は密かに疑いだけを抱いたのを覚えている。
 当時の自分の認識を例えるならば、水よりも捉え難く、霧よりも形があり、決して、氷の如く凍えてはいない…かもしれない。そんな曖昧なものであったと思う。しかし、レンギョウが加わり、リンドウが想いをぶつけるようになってからはそんなコウタの話も現実味を帯びて記憶の棚に加わった。
 毎日毎日、よくやるものだと呆れる鬼ごと。咲き掛けの銀華に、馬鹿な弟が無理に手を伸ばす様を見ていられなくて、何度、雷を落としたか。益々、目を離せなくなった日常の中で、追いかけて来る獣から必死に逃げ回る銀色の表情は無表情ながら感情の色を淡く浮かべていて、初めてエントランスで少し慌てた様子の彼がサクヤやアリサ、コウタ達第一部隊の所へ助けを求めて走って行った時は思わず胸中で拍手をしたものだ。――――こんな表情が出来るのだと。自分と会う時には絶対に紙面上以外の側面を見せてはくれなかったセンカも、生死の糸を引き合う現実から外れた場では、こうして恥らって見せたり、戸惑って見せたり、嬉しそうにしてみたり、慌てて見せたりするのだと、その時、初めて知った。同時にその後を追おうとした無粋なけだものからこの白雪を守らねばと漲る拳を握ったのは言うまでも無い。
 彼は、ただ感情表現が苦手なだけの、人間だ。決して紙に書かれた情報から組み立てられた人形ではない。だからこそ、ツバキはセンカが気にかかっていた。
「…気張るな、とは言わんが、無理はするなよ?その、なんだ…隊長を任された時のリンドウといったら矢鱈、テンパった顔をしていたからな…。気に病む事があればすぐに言え。相談ぐらいには乗ってやれるだろう。もう少し周囲に頼る事を覚えても罰は当たらん」
 たった一人だけの帰還は周囲が思うより彼を追い詰めているかもしれない。そう思うのは自分が隊長であったからだろうか。或いは、己がその立場であればそう思ったと、感情を押し付けているだけかもしれない。だが、隊長を任ぜられた瞬間の彼の表情はあまりに不安定な内面を吐露していて、その安定を欠く一端を担う男の姉である身としては放っては置けなかった。
 追われている最中も戸惑いはすれど、本気で嫌悪していたようには見えなかった彼が少しでも必死に愛を叫んだ弟を好いていてくれたのなら、己が隊長となる躊躇いも、苦悩も、悲しみも、己だけが生きている後悔も、その胸にあるだろう。
 泣けと言えないのは陳腐な士官意識を捨てきれない自分の愚かさ故。浮かべた笑みは己への嘲笑にも思えた。
 艶やかな唇に笑みを乗せるツバキの前で、銀の小鳥が再度、小首を傾げたのは吐息が軽くなった頃だ。
「…顔…」
「ん?」
 瞳を細めて意趣を返す彼女に刹那、別れて来たばかりの彼を見て、二度、忙しなく白藍が瞬く。
「僕は、今、どのような顔をしていますか?」
 徐に転がった鈴の音に見開いたのは麹塵。笑みを消し、半ば呆然と蛍光灯下の月を眺める彼女はぱらりと頬に零れてきた黒髪を払う事も忘れたようだった。
 今でこそ、余裕の笑みで任務をこなし、部下に命令を下すリンドウも、緊張に身体を軋ませる日々を送った時期があったらしい。想像もつかない話だが、センカはそれに思い当たる節があった。――――彼が廃教会へ迎えに来た時の事だ。謹慎明け早々に起こした騒動を聞きつけ、それでも、怒らずに迎えに来てくれた彼は懸命に話をしようと奮闘してくれた。あの時、纏っていた奇妙な違和感。あれがきっと彼の緊張だったのだろう。思えば、初めて二人きりで任務に出た時も同じような空気を纏っていた気がする。極最近では繁殖実験の話をした時だったか。否。あれは緊張というより、驚愕を捻じ伏せたものだったように思う。
 思い出す程、綺麗で、優し過ぎる人。その男と同じ血を引く彼女の目に、己は、今、どのような顔をして映っているというのか。
 ぽかん、と半開いた厚い唇がゆっくりと閉じ、情景を眺めるだけだった麹塵が焦点を取り戻して粒さに白い肌を観察し始める。
「…そう、だな…」
 初めに見るのは白藍の双眸だ。茫洋として、捉えどころの無い、恰も深い湖の如く底の見えない凪いだ光。それが僅かに揺れている。はためく睫毛まで蝶が震えるように戦慄き、薄い影の落ちる肌は白より青い、月の色。これでもいくらか良くなった方なのだろう。色を取り戻したばかりらしい薄桃の唇がエレベーターから降りてきた時よりも潤いを増している。
 軽く跳ねた柔らかそうな銀の毛先から舞った燐光を眩しげに捉え、彼女は硬さを拭い去った声音で穏やかに言葉を紡いだ。
「落ち着いているように見えるが…あまり、顔色は良くない。唇も少しかさついているな。肌は荒れていないようだが、リンドウが見たら嘆くだろう。後で私が使っているリップを少し分けてやるから来い。眠れないようなら、博士に診てもらえ。なるべく早く、な」
 案外、仕方の無い奴だな、お前は。リンドウ達が気を揉むのも分かる。ファイルを持ちながら器用に腕を組み、もっともらしく頷いてみせる彼女の意見は質問の趣旨から逸脱しているように思えてならない。頷きつつ、観察の目を休める事の無いツバキの顔も教官のそれから姉のそれに代わっていて、家族でも幼馴染でもない自分がそれを向けられるのは少々違うのではないかとセンカは戸惑いを覚える。
「え…と…それは、つまり、どういう事でしょうか?」
 眉尻を下げ、眉間に一つ浅い皺を作り、銀糸から光を散らして、泉を揺らめかせた弟の想い人に、ツバキは暖かな笑みを捧げて答えた。――――早く、早く、彼の胸に開いた穴が塞がれば良いと願いながら。

「泣きそうな顔をしているという事だ。…無理をしおって、この馬鹿者が」

 嗚呼、きっと弟の恋はまだ銀華を綻ばせている。



やっとツバキ御姉様がまともに登場です。エントランス事件の時や、捜索打ち切り、隊長任命イベントでちょこちょこ書いてはいますが、こうしてちゃんと考察して出すのは初めてです。
ツバキさんというのは辛い立場にいる人だなあ、と原作中でも思っていたのですが、中々その辺りの事が原作中ではクローズアップされる事が少なかったように思います。もっと出してくれてもよかったと思う!おかげでフリーの会話でしか彼女の人となりを詳しく知る術がなかったよ!
というので、スルーされがちなツバキさんイベントをアレンジして挿入しました。あえてスルーしなかったのはやっぱりリンドウさんとか云々的な移入をするのにツバキさんは欠かせないだろうな、と思ったからです。
ツバキさんの中での当家の新型というのは基本的にもう義妹的(!)な立場にあるのですが、今回はそこに至るまでの経緯とツバキさん観点からの今の新型の様子を集中的に書いています。
初めて会った時には「扱いづらそうな子だな」と思っていたのが次第に「あれ?こんな様子も見せる子なのか」と思い、そうして「ああ、紙の上だけではこの子はわかるものではないのだな」と理解していく様が書けていればいいなぁと思っておりますよー。
その上での「もっとちゃんと知っておきたい」という姉心が出せていれば、今回は成功です。

隊長についてはそろそろ皆さんお気づきのようにちょっとヤバい感じです。でも、嫁には心配かけたくないので毛玉に口止めしています。
秘密、のポーズは言うまでもなく、子犬と嫁のアレですね。真似っこです。真似る事で毛玉が従わざるを得ないようにもしています。大人の汚い所ですね。毛玉もそれを狙っている事に薄々気づいていながら、黙っています。毛玉はそのうちストレスで円形脱毛症になると思う(オイ)

色々布石を置いている旦那と、気づかない嫁と、全く気づいていない姉のちぐはぐ噛み合っていない様子の回でした。

2012/07/01