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 これは、自分の意思じゃない。

この身に絡んだ蜘蛛の糸

「あ…」
「あら、久しぶり」
 といっても、私の方はそんな感じしないんだけどね。煌く菫の瞳を細め、嫣然と笑って見せたジーナに手招きされ、漸くカレルとシュンから解放されたばかりのセンカは少しばかり疲労を訴える脚を引き摺って彼女の前に佇んだ。
 ブラスト程大きくは無いスナイパー型とはいえ、決して小さいとは言えない神機を軽々抱え上げるとは想像だにしない細い指先を缶コーヒーの縁にひっかけて、ベテラン区画のベンチに陣取る彼女と話すのはいつ振りだろうか?帰還してから会話していた相手は専ら第一部隊かツバキであったから、第三部隊である彼女と言葉を交わすのはあの事件が起こる前以来…実に一ヶ月近く、或いはそれ以上という事になる。
「元気そうね。まあ、顔だけだと思うけど」
 組んだ脚をふらりとさせ、缶を煽りながら自販機を指す彼女の指に両手の平を見せて遠慮を示したセンカは何気なく放たれた言葉に動きを止めた。眉を顰め、密かに唇を噛む。
「……そう、見えますか?」
「お世辞は苦手なの」
 元気に見えるのは顔だけ。勘が良く、けれど、他者と一線引くきらいのある彼女らしい表現だと思う。顔だけ、という事は見えない箇所はわからないという事だ。直接、核心に触れて来ないだけ、譲歩している方だろう。世辞は苦手だと繕えない事を示しながら、傷に触れないよう、確かな労わりをもって接してくれている。探るような隻眼は、本来、己が触れるべきではないと理解しつつ、それでも、見逃すには大き過ぎる揺らぎだと思うから、こうして忠告しているのかもしれない。
 そんなに、わかり易いだろうか。少し前までは分からないと言われ続けた面なのに。ツバキといい、ジーナといい、此処に来て悉く表情豊かとは言い難いこの顔色を正確に読んでくれる。勘が良いにも程があるというものだ。忌々しいより居心地が悪い。
 誤魔化しは、効くか、否か。迷い、結局、彼は的を掠めた答えを返した。
「不調に見えなければ、それで構いません」
「そう」
 意図的な言動に、沈黙が降りる。
 体調不良で周囲を心配させる事さえなければ、胸に抱くものが何であろうと構わない。言い訳のように口にする言葉は酷く嘘くさくて、短く返る彼女のそれがまるで安っぽい弁解を断罪するようだ。静まり返ったエレベーターロビーに自販機の低い唸りだけが響き渡る。
 睫毛を伏せた隻眼は切り込むべきか、迷っているのだろうか?サカキとの問答を思い出させる沈黙が重い。
 情けない話だが、サカキがいるあの階層には帰還初日にラボラトリを訪れて以来、一度も降り立った事が無かった。シオの様子は気になるものの、立ち向かわなくてはならない壁は高く、厚く、迷った末に自分が押すエレベーターのボタンは此処数日、ベテラン区画かエントランスの二つだけ。彼も自分が避けているのを知ってか、メール一通寄越して来なかった。――――顔を合わせれば、彼は気付くだろう。どんな欠片からも真実を引き摺り出す天才だ。ジーナ達に見破られる揺らぎ程度、彼が気付かない訳が無い。それを掘り下げてくるか否かは、彼の気分次第なのだろうけれど。
 ふるりと震えた肩を無意識に抱いた銀色を一瞥した菫がもう一口、缶の中身を啜って息を吐く。
「…ま、私には関係ないけどさ。それはそうと、今までカレルとシュンに捕まってたんでしょう?貴方が隊長になった途端、任務に連れ出すなんて…分かり易いわよね」
 意識のごみ箱に放った疑問の代わりに少しばかり唇を尖らせたジーナは口をつけた缶の縁に軽く歯を立てて、悔しさを表現して見せた。
 どのような事情があるかなど部外者たる自分には関係ないものだ。それより何より問題なのは今日の事。まさかカレルとシュンが動くとは思っていなかった。まさに大穴、ダークホース。ヒバリがぴーぴー泣きながらセンカの行方を明かした時の皆の顔といったら無い。サクヤなど顔を真っ青にして慌てて端末を取り出し、任務中の連絡はやめろとソーマに窘められていた位だ。
 少々、仲間思いが過ぎるきらいのある極東支部。皆が皆、センカの復帰最初の任務同行を虎視眈々と狙っていたのは言うまでも無い。誰が先に出るか、誰が後に回されるか。密かに火花が散っていたのは本人だけが知らぬ事だろう。無論、ジーナとてあの戦い方に魅せられ、且つ、黙々と仕事をこなす彼の気質を好ましく思い、その復帰を今日か明日かと他の防衛班と共に待っていた一人。気付けば獲物を掠め取られていたなど、中々に許し難い事実である。彼等の行いは寧ろ、蛮行に等しい。しかし、憤然とする一方で、彼等があれ程敬遠していたセンカに突然、近付き始めた事は非常に興味深い事象として、今持てる興味の最上位に君臨していた。
「二人の事だから、どうせ割の良い仕事があれば呼べとか言ってたんでしょうけど…苛められたりしなかった?」
 強欲といっても過言ではないカレルとシュンの事、交わされた会話の内容は容易に想像がつく。
 隊長格ともなれば最早、特権階級。平隊員より遥かに過酷を極める任務を下される代わりに成功報酬は下々のそれとは比べ物にならないのだ。殊、長く隊長職についていたリンドウは目の出るような額を手にしていたと聞いている。彼等の狙いはその莫大な報酬の一欠片。大方、そんな所だろう。
 しかし、下心のままにごまを擦れないのが彼等が捻くれ者たる所以である。たった半日で悪魔が天使に変わる訳でも無し。劇薬指定の彼等がにこやかに笑いながら他者を慮る様など世界の終わりを見るようなものだ。逆鱗にさえ触れなければ蟻の子にも負けそうな大人しいセンカが悪餓鬼の典型に弄られない訳が無い。
 悪戯な光をちらつかせて瞬く菫の隻眼をぼんやり眺めたセンカはゆっくり言葉の意味を辿り、刹那、記憶を探る仕草を経て、緩やかに唇を開いた。
「カレルさんからも、シュンさんからも、仕事があれば呼べとは言われましたが…苛められた記憶はありません」
 耳に滑り込んで来た慣れない呼び名に、コーヒー缶を弄ぶ指が止まる。――――さん?先輩ではなく?
「あら、意外。先輩呼びじゃないのね」
 カレルとシュンなど足元にも及ばないくらいには付き合いがあると自負する自分達ですら未だ、先輩呼びから抜けられないというのに、数時間前に漸く言葉を交わした程度の彼等が名前呼びとはこれはどうした事か。
 ジーナが素直に丸めた瞳を向けていれば、見返したセンカが俯きながら居心地悪そうに肩を縮めて、ぽそぽそと言葉を紡いだ。
「…呼ぶと、怒ると言われたので…」
「成る程。大変ね」
 過去の因縁を無かった事にする事はおろか、名前呼びを許すなど、毒舌、無礼、粘着質が専売特許の彼等にしては、これは珍しい話だ。興味が好意に変わったのか、単にセンカの許容量が想像を遥かに超えているのか、何にしろ、以前、エントランスであったような事態にならなかったのは確からしい。帰投直後の様子からも彼等がこれまでと違う感情をセンカに抱いているのは理解出来たが、今の今まで解放されなかったというのだから、その気に入り具合は蛇が抱えた小鳥の卵に近いのかもしれない。どちらにしても、彼がこの先、カレルとシュンに弄り倒される事だけは確かだろう。彼等の愛情表現というのは非常に屈折しているのだ。
「覚悟した方がいいわよ?彼等、しつこいから」
 言って、一息に中身を飲み干した缶をぽん、と一度、掌で弄び、立ち上がったジーナの手から軽い手首の捻りをもって放たれた軽い金属が屑籠に吸い込まれていく。かん、がらがら、からん。乾いた金属の擦れる耳障りな音。響き渡った奇妙な不協和音を払うように頬にかかる灰色の髪を払った彼女の靴音が銀色と擦れ違う瞬間、細い手が軽くセンカの肩を叩いた。
 咄嗟に振り向いた白藍と絡むのは、探りながら距離を測る菫の色。
「忘れてたけど…おかえり、はまた今度にしておいてあげるわ。まだ言って欲しくなさそうだもの」
 おあずけね。耳を掠めた声が潜められていたのは彼女の勘が成し得た業であったのか。センカの目が見開き、詰めた息の微かな音が互いの距離を刹那、埋めた直後、歩を進めた彼女の靴音が高く沈黙を打ち砕く。
 本当に、彼女は何処まで勘付いているのだろう。以前から洞察力に長けた人物であるとは思っていたが、これは少し、予想の上を行っていた。
 帰還を喜ばれる事は悪い気はしないものの、それは何も無ければ、の話だ。帰って来るべきリンドウが帰れずにいる今、のうのうと生き延び、支部で何事も無かったように過ごそうとしている自分がその言葉を受け取る訳にはいかない。彼こそが受け取るべき歓喜の波を浅ましい化け物が受け取るなどおこがましいにも程がある。これだけは、リンドウが何と言おうと譲れない一線だ。――――全てを理解した末のものではないにしろ、ジーナの言葉はその揺らぎを慮ったものに相違ない。
 返す言葉を見つけられないまま、エレベーターへ向かう背に向けて開いた花弁が微かな音を紡ぎ出す。
「あの、」
「ん?何?」
 振り向きながら押した上昇ボタン。階層を上がってくる箱の音が短い制限時間を告げる。
「…昇格なさったと、聞きました。おめでとうございます」
 下から、幹部区画、ラボラトリ、上昇を示す明かりが一つ一つ駒を進める様を何とはなしに横目で眺めながら、センカの静かな祝辞を受け止めたジーナはこつりと一つ爪先を鳴らして、ああそれか、と吐息を零した。
 帰還してから直に調べたターミナルの情報では極東支部在籍の神機使いの半数以上が昇格している。タツミは少尉を戴き、ブレンダンは曹長、カノンは上等兵を。カレルを初めとした第三部隊も昇格しており、彼女も例外では無かった筈だ。戴いた階級は、記憶が正しければ、狙撃兵曹長。然程階級が物を言う職場ではないとはいえ、昇格は喜ばしい慶事だろう。――――だが、恐らく、今、言うべき事では、無い。理解している。痛い程。これは言い訳だ。
 あからさまな苦し紛れの言葉にそっと唇を噛んだセンカを尻目に、軋んだ音を響かせる箱の音が近くなる。あと、少し。
 蛍光灯の光で鈍く光る髪を揺らした彼女が徐に唇を開いたのは、昇る箱の速度が明らかに緩くなったと知れた時だった。
「不思議よね」
 耳奥で鳴る血液の轟音のような金属音が近く響く。
 顔を上げた白藍の先に見えるのは流れる、灰色の髪。
「別に特別な事なんて、何にもしてないのよ。何も考えないで…スコープの中の相手と自分で殺し合ってただけ。その瞬間は世界を助けようなんて思ってないし、出来るとも思ってない。自分の出来る事を…したい事をしてるだけ。特別な事なんて一つもしてない。だから、昇格したって聞いてびっくりしちゃった。…ただ好きで撃ってただけなのにね」
 長い前髪に隠された表情が見えない。ぽつぽつ語り、虚空を見る隻眼は何を辿っているのだろう。小首を傾げた銀色が散らした燐光が儚く消えると同時に静かなロビーの空気を揺るがす無粋な音が沈黙を飲み、箱が口を開ける。開き切った頃合を見計らって軽やかに扉に身を滑らせたジーナの灰色が揺れる様は、ロビーよりも影を濃く落とす照明に照らされ、恰も鋭い針か刃のようだ。高く鳴る靴音は宛ら、鍔鳴り。
 引き止める言葉を持たないセンカの視界から逃げるように、背を向け、肩越しに振り向いた彼女は、ふとボタンを押す手を止めて口端を持ち上げた。
「でも、自分の意思でやった事だから悔いは無いの。祝ってくれて嬉しかったわ。それも不思議ね。ありがと」
 閉まった扉の向こう。菫は少しだけ痛ましげに見えた。


 遠くなる轟音に耳を澄ませる。あの箱の中、一人になった彼女は何を思って任務に向かうのだろう。――――自分の意思だから悔いは無い。そう言った彼女の声が鼓膜に引っかかっている。
 好きで撃っていただけ。好きで殺していただけ。それを賞賛され、位が上がるというのは実に皮肉な話だ。感覚は違うにしろ、センカも同じ感情を抱いている節がある。
 道徳的に考えるならば、虐殺を賞賛するなど正気の沙汰ではない。アラガミといえど生物。殺し尽くそうとする行いは確かに虐殺である。だが、センカと彼女の違いはそれを「虐殺」ととっているか否かにあった。アラガミを自己と混同していない彼女は僅かなりとも同族意識のあるセンカと違い、アラガミを殺す事を「虐殺」とは認識していない。彼女にあるのは純粋な世の矛盾への違和感だ。
 己が己の為に好きでやっている事を、世界が世界の為だと勝手に賞賛する。それが矛盾で無いとどうして言えるだろう。本人にとっては気持の悪い話だ。自己中心的な行動を全体の行動として見られるなど歓喜より先に嫌悪が立つ。彼女が唾を吐かないのはそれをフェンリルの仕事だと完全に理解し、割り切っている節があるからだ。諦観に似た感覚は彼女を確かに守っている。昇格した事も、社会的な事実として受け止めているのだろう。大した事は無いと位置づける事でまた一つ割り切り、違和感に目を瞑っている。それでも、それを再認識する時、小さなしこりに引っかかってしまう事があるのかもしれない。しかし、そこに後悔があるかといえば答えは絶対的な否だ。
 全ては自分が自分でやった事。それを賞賛するも非難するも世界の勝手。この手で行った事に悔いも無ければ悲観も無い。いっそ潔い思考だと思う。
「…自分の意思で、やった事…」
 自分は後悔しなかった事などあるだろうか?例えば、レンギョウの事は?リンドウの事は?…全て、後悔していないとは言い難い。それでも。――――きゅ、と白い手を握り締めたその時、ぴりり、胸元の端末が囀った。
 取り出し、見ずとも、誰からかくらいは見当がつく。復帰早々の呼び出しとは、焦りの度合いも多少は上がって来たという事か。
 申し訳程度に液晶画面を一瞥したセンカの足が自室へ戻る事を諦め、踵を返す。白い指先で押したボタンは存外重く、恰も、これから向き合わなければならない相手の名前を思い描くだけで低く鼓動を鳴らす鉛と化した己の心臓と同化したようだ。静寂の満ちるロビーに響くのは血流の音。耳から臓器になったような錯覚すらある。…人間でもない生き物が感覚を語るなど、馬鹿馬鹿しい話だ。これではまたあの金色に凍える切っ先を突きつけられてしまう。
 長い瞬きで愚かな考えを振り払いながら程なく開いた箱に身を滑らせ、幹部区画へのボタンを押した銀色は影を帯びた灯りで生まれた人型の影を眺めながら泥に沈む如く重みを増す身体を抱いて目を閉じた。
 ごうごうと、聞こえる血の流れ。
 全ては自分の意思であり、そうではない。物である自分は命令が無ければ寸も動かず、闘う事もしなければ、生きる事もしないだろう。おこがましくも己の意思で行った数少ない行動も、全て後悔していないとは言い難い。リンドウもレンギョウも己の所為で苦しまなければならないかもしれないのだ。苦しんで欲しいとは冗談でも思わない彼等が苦しむ姿を見て後悔しない筈が無い。
 それでも…それでも、彼等に生きて欲しいと願った、それだけは、この身に絡む糸がどれ程の力で首を締めたとしても――――きっと後悔する事は無いだろう。



ジーナさんにちょっと見抜かれちゃってる回。思えば、ジーナさんはちょこちょこ出てきてるのにちゃんと新型と絡ませて書いた事は無かったですね。これが初めてかと。
ジーナさんという人はゲーム中の発言等を見る限りではとても冷静で客観的に物事を見ている方だと個人的に思っているので、新型の復帰に沸く支部の人達とは違う見方で彼に接していて、それが今回の会話に滲んでいます。「見た目だけ」のその裏側の詳細な部分は分からなくても、「ああ、今、帰還を祝われても嬉しくないでしょうね」くらいの判断が出来る勘が働いているジーナさん。彼女が一番、支部内で空気の読める方かもしれませんね…。
昇格云々は…えーと…このタイミングではなかった気がするんですが、話の都合上、このタイミングで。あの時のジーナさんの言葉が意味ありげで忘れられなかったのでちょっと噛ませてみました。
実際、神機使いの人達の中でどれだけの人がどれだけの感覚で人類を守ろうとしているのか、というのは怪しい所ですよね。守銭奴ズは無論、金の為ですし、コウタさんは家族の為、アリサさんは仇を討つ為。他の神機使いの方も本気で根っこから人類守護の為に戦っている方というのは少ない気がします。個人的な事で、個人の目的で、個人の為に、半ば自己中心的な感覚でアラガミと対峙してきた人にとっては昇格という形で賞賛される事は少々複雑にも思う事じゃないかと。嬉しいのと、意味が無い虚しさと、自分勝手な事なのに他人の為と誤解されている後ろめたさとが混在している、みたいな感じでしょうか。
そういう意味でもジーナさんの「好きで撃ってただけなのにね」というのは少し切ない響きのような気がしています。

対する新型さんは今まで支部長や博士に指示された事を黙々とこなしてきた人生なので、「好きでやった事」の感覚がよく分からない状態です。でも、「今回の事」は指示された事とは全く違う事で、且つ、「自分が望んだ事」なので、ジーナさんの言葉が殊更ひっかかっています。
で。考えている最中にお呼び出し。この支部で一番空気の読めない人はきっと支部長です(はい、オチついた!)

2012/08/05