「鳳仙花、か…なあ、レンギョウ。これがあの噴水辺りに咲き誇ったら良いと思わないか?きっとあいつも喜ぶぞー」
つん、と下草に紛れて咲く白い花を漆黒の爪の先で突いた男を見上げた幼子は、一つ、大きく吼えて応え、それに満足気に頷いた彼は白に寄り添う紫にも目をやり、嗚呼、これも一緒の方がもっと喜ぶかもしれない、と眩しそうに目を細める。
そういえば、酷く疲れた顔をしていた愛しい人はあちらで上手くやっているだろうか?
「また何か逃げ回ってソーマ辺りにとっ捕まってなきゃいいんだがなぁ」
とりあえず、シャベルでも探してみるか。見上げた空に、彼は白雪を思った。
おかあさんとこどもときんじょのひとたち
もういい加減にしろ。朝一番、地鳴りの如く鼓膜を震わせる声と共に見る顔がソーマのすこぶる不機嫌な顔だというのは真、心臓に悪い。それが、眉間に皺を寄せる程度ならばまだしも、頬を引き攣らせ、あまつさえ、口端から牙を剥いているのだから、その恐ろしさといったら立派な大口に鋭い牙を持つグボロ・グボロも一目散に逃げ出すか、或いは、あまりの恐怖に硬直するだろう。
部屋に響いた来訪者の知らせに何の疑いも無く扉を開け、直後、むんずと首根っこを引っ掴まれたセンカも例外ではない。ぼんやりした頭に突如、冷気叩きつけられたかのような錯覚が走り、ぴしり、固まる様はまさにうっかり狼に相対した兎の子。ぱっちり開いた白藍の双眸に仁王の面を写して硬直したまま、気付けばいつかのように荷物運びでエレベーターへ。解放される気配も無く、流れるばかりの景色を見送り、辿り着いた場所で乱暴に放り出された彼は柔らかな尻を硬い床に強かに打ちつけて漸く、己がどこぞへ運ばれてしまったのを知った。
ぐるり見渡す部屋の中。背後の戸口にソーマ、右にサクヤと、左にアリサ、右斜め前にコウタが佇み、左斜めにはこの日まで避け続けた観察者の苦笑い。そして、そのさっぱり隙間の見当たらない包囲網の、最後の一点、真正面に陣取るのは――――真白の子犬だ。
琥珀の瞳を大きく見開き、瞬く星が見える程輝かせて、だらしなくにやけた顔は直ぐに我慢の知らない満面の笑顔へと変わる。彼女に尻尾があったなら、それははち切れんばかりにぶいぶい振られているに違いない。
「センカー!おはようだぞー!!」
止める間も無く飛んだ子犬はまさに弾丸。
いつものように――温室から彼女を知っているセンカにしてみれば「いつものように」、だ――身体をぶち当ててくる子犬を受け止め、けれど、例の如く、受け止め切れなかった白雪ががつん、と床に頭を打って倒れた様を見て、間近でそれを見た他の面々は目を剥いた。…凄い音がした。とても、凄い音が。お世辞にも大丈夫とは言い難い音に流石のソーマとサカキも持ち場を離れそうなるが、当の子犬は飛び付いたセンカの身体に腕を絡ませ、擦り寄る事に夢中で、少しばかり意識を飛ばしかけた銀色に気付く様子も無い。
ぎゅうぎゅう細腕に力を入れる少女の様は気に入りのぬいぐるみを抱き締めているかのようだ。息を詰めるセンカに誰もが両手に空を揉ませて青褪める。閉じる事を忘れた口は意味も無く、あ、と、う、を繰り返すばかり。悪戯めいた雰囲気が払拭された室内は一転、混乱の瀬戸際だ。まずい。これはとてもまずい。誰がこんな事を予想しただろうか。センカにしきりに会いたがるシオに協力してあげただけで、喜び過ぎた彼女が彼を絞め殺すかもしれないなどとは微塵も思わなかった。喜んでくれるのは嬉しいが、これは大変にまずい!
上手く言葉の出てこないまま今度は慌てて両手を振り回し始めた面々を余所に、押し倒された当のセンカはぼんやりと無機質な天井を見上げていた。
視界に映る灰色の天井の汚れ。覚えている。これはよく見た光景の一つだ。頭を打ちつける刹那、視界の端に微かに見えた機材のコードと特徴的な椅子を思い出して、センカは自分がラボラトリに運ばれたのだと鈍い頭で理解した。そういえば、エレベーターに乗り込んだソーマの硬い指が押したのは最近、自分が避けていた階層のボタンだった気がする。
今の己の状況を簡潔に述べるなら、きっとこうだ。シオの再三の訴えに痺れを切らせた面々が要望通り、この身を彼女に差し出して、そうして、大変に喜んだ彼女に、今、自分は締め上げられている、と。そういう事なのだろう。
冷静に締め括りながら、しかし、事態はそう優しくは無い。――――ぎし、ぎりぎり。軋み始めた身体の音にいよいよ外野が土気色。
「シオォオオオ!?は、放して!放してあげて!センカが死んじゃうってば!」
「そうよ、シオ!センカは逃げたりしないから放してあげて!ちゃんと座ってお話しましょう!」
口々に叫ぶ彼等の瞳の中には渦巻きが見えるようだ。後頭部の痛みを意識の片隅へ追いやり、頭を動かせば、土気色とまではいかないものの、やや青褪めたサカキの顔が目に入り、センカは意外な様に目を瞬いた。
あのサカキが青褪めているとは、珍しい事もあるものだ。元来、感情の波を面に出さない彼が、常時、化かし合っているような仲とはいえ、たかが観察対象が別の観察対象に締め上げられているくらいで青褪めるなど、この十六年で初めて見たかもしれない。この程度でこの身がへし折れ、朽ちるとでも思っているのだろうか?否。それは無い。この身体の構造ならば、彼も熟知している筈。だが、熟知しているからこそ、青褪めるのには何か理由があるのかもしれない。詰まる所、この状況は観察するには不適なのだ。
瞬き、目を外す瞬間、外し切れなかった名残が刹那、硝子を隔てた男の視線と絡む。擦れ違いざまに肩が掠るような邂逅を振り切り、胸に擦り寄る白い頭を眺めたセンカの手がそっと細い背を撫でて、一間、開く花弁から清らの音。
「…シオ。落ち着け。人を困らせてはいけない」
声に、金色が瞳孔を絞って笑みを消したと、誰が気付いただろう。突如、糸が張られたように気配を変えたシオの腕が呆気ない程簡単に銀の痩身を解放し、もそもそと身を起こす動きを追ったソーマの双眸だけが訝しげに細まり――――しかし、それだけに留まる。口を噤んだのは、他でもない。身を起こして、床に座した彼等が余りに異様な雰囲気で向き合ったからだ。
す、と伸びた背筋。凛々しく引いた顎と、笑みの浮かばぬ頬、口元。瞬く双眸は静かの泉。三畳茶室の一幕の如く正座で向かう二人の静かな空気に、誰もが口を閉ざして黙す。
「シオ、お前は何だ」
問われて跳ねる、白い肩。
「う……アラガミ…」
「そうだな。では、アラガミと人間は同じだけの力を持っているか?」
満足気に頷き、続けた問いの返事を待ったセンカの前で、彼女はすぐさま、違う、と首を横に振った。
飛び回っては気紛れに噛り付いてみたりするシオとて既に人間とアラガミの力の差くらいは理解している。人間は脆弱だ。シオが簡単に歯型を残せる鋼鉄にも、彼等は道具を用いなければ跡を残す事が出来ない。少し張り飛ばされただけで脆い骨は砕け、大地の草木を千切るより容易く命を摘まれてしまう。フェンリルに来て、それを知った。アラガミと人間は違う。扱う力の基準が、そもそも違うのだ。だから、いくら彼等がシオの事を好いていて、シオが彼等を好いていたとしても、シオが思いのまま、思い切り抱き付いたら、彼等は砕けてしまう。
「……うー…シオ、わるいこと、した?また、みんなのこと、かんがえなかった?」
自分の基準だけで考えるのは、いけない事だ。以前、センカが教えてくれた。それを、自分はまたしてしまったのだろうか?
不安に揺れる琥珀の水面に凪いだ白藍を合わせた白雪は硬い空気を幾ばくか和らげ、再び持ち上げた指先で乱れてもしゃもしゃになった白い髪を梳いてやる。つん、と引っ掛かる度に優しく解き、撫でる頭は真に項垂れた子犬のもののようだ。
「わかっているなら、次はしないな?」
大丈夫。この子は「話が出来るアラガミ」だ。確信めいた思考で紡いだ声音に、やはり、彼女は大きく頷いて応えた。ついでに、飛んでくる二度目の弾丸。それも今度は少しだけ柔らかい。
センカが肩口に擦り寄る白い頭を撫でてやれば、少女の顔には笑みが弾けた。
「うんっ!しない!シオ、しないよー。えらくするっ!」
「ん…よし。偉いな」
「えへへー」
でろでろに蕩け切った子犬の笑顔に目を剥いたのは今の今までセンカが抱き潰されやしないかと肝を冷やした面々だ。特に、呆然としてしまったのは、友人第一号を名乗るコウタであったかもしれない。
センカは接触を好まないと、思っていた。とはいえ、彼がそう断言した事はないし、コウタ自身、面と向かって訊いた事も無かったが、立ち位置さえ一定の距離を保つ彼の仕草は一つ一つが他人との物理、非物理に係わらぬ接触を拒絶しているように見えた。実際、そうだろう。彼は物の受け渡し一つにも対岸には決して触れない橋脚のような指の位置取りをする。傍にあるように思えて、彼に触れた回数は他の者と比べても格段に少ないのだ。それが、ああも簡単に接触を許しているとは、ある種、信じ難い光景である。自分の知らない彼の一面。それも、あの様子ではまるで、
「…?コウタ?どうかしたの?」
思考に飛び込んできた女の声に肩が跳ねる。視界で、些か訝しげな表情を浮かべたサクヤが首を傾げていて、彼は慌てて笑みを浮かべた。
「え、あ…いや、何でもないんだけど…なんだかセンカがシオの母さんみたいだと思ってさ!」
「お母さん…?」
言われて、見やる、件の二人。白と銀色がぐいぐいころころすりすりしている様は小動物が身を寄せ合っているかのようだ。
最早、そうある事が当たり前のようにくっついて、じゃれ合う――シオがじゃれ付いて、センカがいなしているだけとも言うが――二人は、成る程。確かに、親子に見えなくも無い。あえて兄妹ではないのは先の叱責の場面を見ても明らかだろう。厳しく、けれど、確かな愛情をもって行動を嗜めるあれはどう見ても母が子を叱るそれだ。今も、白い髪に優しく指を通すセンカの柔らかな表情は兄というより慈愛に満ちた母のそれにしか見えない。甘えるシオも他の者達に擦り寄る時とは雰囲気が随分、違う。心底から安らいでいるような、そんな気配。これを母子の姿と言わず、なんと言えば良いか。
「そうね。レンギョウが来た時から思ってたけど…センカってお母さんみたいな所あるわよね」
変な話だけど。くすくす笑いながら言うサクヤの傍へやって来たアリサもまた笑いながら頷いて見せる。
「シオちゃんもセンカさんには凄い懐いてるみたいだし、本当に親子みたいです」
「じゃあ、レンギョウとシオは姉妹ね」
アラガミの姉妹と、その母親と、多分、未来の父親の、全く個性的としか言いようが無い家族の光景を脳裏に描き、また笑う。冗談めかして本気の言葉を交し合った二人に呆れるソーマもまた同じような光景を思い描いて溜め息をつく。コウタはコウタで何を表してか、うわぁ、と乾いた声を上げ、残るサカキは興味深げに眼鏡を押し上げた。
妙に盛り上がってしまった周囲に置いて行かれたのは渦中の母子である。この関係をそう評される事など思いもつかない。センカにしてみれば奇妙で、シオにしてみれば、そもそも、「お母さん」なるものが理解出来ない単語だ。
さて、それは如何様なるものか。疑問の口火を切ったのはシオが先だった。
「おかーさん、て、なにー?」
センカに抱きついたまま大きな金色の瞳をぱちくりと瞬かせて言う姿は甘えたの子供そのままだと思ってしまった彼等に罪は無いだろう。一寸たりとも離れる気の無いシオの態度には苦笑いするより他は無い。これで親子のおの字も知らぬような顔をするのだから、センカもシオ並みに鈍いというものだ。
にまにまするだけの周囲に小首を傾げて視線を交し合う母子の姿にまた笑みを深めた者達の中から、コウタが進み出る。
「お母さんってな、自分を産んでくれた女の人の事だけど…こう、何て言うかな。あったかくて、傍にいると落ち着くっていうか…例え血が繋がって無くても繋がりを感じるっていうか…自分が間違ってると怒って正してくれたりする、そんな人かな」
説明難しいけどさ。そう言って照れたように笑うコウタは第一部隊唯一の母子家庭だ。妹を溺愛しているらしい彼の家族の話はいつでも穏やかさに溢れていて、聞く方も呆れながら聞き入ってしまうくらいには彼の家族愛は周知の事実だった。外部居住区に居を構えている彼等の生活は楽ではないだろうに、それを感じさせない彼の明るさが磨り減った神経を宥めるのに一役買っているとは、当の彼自身も知らない事だろう。
家族を思い出して揺れる茶の双眸。少しばかり懐かしそうに思えるのは暫く会っていないからだろうか。
まあるく開いた瞳でそれを見返したシオは数度、瞬きをしてから、ほう、ふんふん、と頷き、それから、また傍らのぬくもりを抱く手に力を込めて笑みを弾けさせた。
「じゃあ、センカはシオのおかーさんだなー!」
あったかくて、傍にいると落ち着いて、繋がりを感じる、間違っていると怒ってくれる人。シオにとってのそれは目の前のセンカ以外にはいない。勿論、サクヤもアリサもコウタも、ソーマやサカキも色々教えてくれるけれど、コウタが言うもの全てに当て嵌まる者はセンカに以外には思いつかないのだ。リンドウ、は…どちらかといえば、センカと一緒にいる人で、間違っても「お母さん」ではない。レンギョウは一緒に遊ぶ友達だ。だから、「お母さん」は「センカ」しかいない。見た目がふくよかな女性じゃなくても、センカはシオのお母さんだと、シオはそう思う。
だって、皆は知らない。「センカ」は――――思いかけて、彼女は緩やかな心音の他に響いた澄んだ声音に意識を奪われた。
ふわりふわり。頭を撫でる細い手に眠気が寄せる。
「…母親かどうかは、よく理解出来ませんが…何故、レンギョウとシオで姉妹なのでしょう?」
「え、だって…」
あの仔、女の子でしょう?降り注ぐ蛍光灯の光に燐光を溶かした銀色に、こちらも小首を傾げて返そうとしたサクヤの声は続いた言葉にやんわりと飲まれた。
「レンギョウは雄です」
「え」
おす。雄。オス。――――つまりは、男。
センカに助けられ、いつでも共に行動し、彼に抱っこされ、一緒の褥で眠り、あまつさえ、風呂にも入っていたらしいあの幼子が、雄。
「…………リンドウは、知ってたのかしら…」
仲間が想い人とメールのやりとりをするのですら、不満気な顔で見ていた男だ。意外な嫉妬深さを発揮していた、存外、大人気無い彼が子供で異種族とはいえ、センカが異性と生活を共にする事を許すとは思えない。抱っこは勿論、混浴など言語道断。柔らかな太腿に擦り寄ろうものなら、俺も触った事が無いのにけしからんと歯軋りでもしそうだ。
今は此処にいない元隊長殿の、冗談では済まなそうな姿を思い起こして皆が各々首を傾げた一方。
「ぶぇっくしょい!!…あー…誰か噂してやがるな?まあ、誰かは想像がつくが……しかし、レンギョウ」
さわわと囁く緑の中、
「お前、雄だったんだな」
「がう」
持ち上げた幼子の下半身を眺めた男が今更、知った衝撃的事実に鼻をすすりながら呆然と呟いていた。
隊長、毛玉の性別を知る、の巻。
思えば、ここまで毛玉の性別が一切書かれてないじゃなーい、という思いつきと、沈みがちな雰囲気をこの辺で休ませて見たいなぁ、という願望とで挟ませてみた話でしたが…うん。久々の楽しげな雰囲気で非常に和みますね。見所はグボロさんも逃げ出す顔で新型を迎えにきたソーマさんと、新型の背骨をボギボギ折る勢いで抱きつく子犬です。この辺は書いててとても楽しかった。勿論、毛玉の下半身凝視してしみじみ呟く隊長も楽しかったですがね!
しかし、当家のコウタさんの友達第一号ポジションは伊達ではありません。偵察兵らしい洞察力の高さもこんな所で無駄に発揮してみる彼は本当、伏兵染みてて、その扱い易さに全私が歓声を上げます。実際、彼は見た目程子供染みている訳ではないのでこういう思考もちゃんと持てると思います。和やかさの一歩外から状況を見る能力はもしかしたら当家の第一部隊一かと。
というか、第一部隊自体、一歩外から見る、という行為を中々出来ない人達のような気がする(蒼穹の月参照)ので、時折、その辺にィラアァっ!とする時があります。…まあ、その辺は65話の後書きでガッツリ叫んでいるんですが。
そんな第一部隊はこれからもシリアス街道まっしぐら。
2012/09/27 |