美しいものだと、知っている。
残酷なものだと、知っている。
そうして、勝手な期待を抱く自分は、愚か者以外の何者でもない。
無色の宝石
空母を渡る海風が穴の開いた胸を侵食していく気がするのはただの被害妄想なのだろう。いつもより少しだけ目深に被った帽子を押さえたコウタは銃声と咆哮の消えたアスファルトの大地にぼんやりと立ち竦む。海原の向こうに見える希望の島が霞んで見えて、傍らの銀色を一瞥した彼は一度だけ長い瞬きをした。
よくセンカを連れ出せたものだ。そう思う。
昨夜、久方ぶりに彼に送ったメールは今読み返しても自分らしいとは思えない。顔を合わせて言う勇気も無く、持ち主の胸の内などそ知らぬ顔で操作の指を待つ端末相手に唸る事、半日。書いて、消して、また書き直して、悩んだ末に完成させた物の出来栄えは自分でも目を覆う物だった。後ろめたさが滲み出た言い回しはお世辞にも明朗とは言い難く、救いといえば、文面であるが故の申し訳程度の率直性の高さくらい。辛うじて何を言いたいのかが分かる程度のメールは報告書ならば落第点、平時ですら赤点の代物である。思い返すだけで、穴があるなら入りたい。彼の端末はどうだか知らないが、自分の送信履歴に残された件のメールは早々に削除してしまった。送信ボタンを押す為にかけた時間もまた半日。結局の所、センカにたった一言、任務に行こうと誘うだけのメールを送るのに費やした時間は実に丸一日になる。隊内でも一、二を争う速さの端末使いが聞いて呆れる所要時間だ。
何て無様な様だろう。今、手足に重く掛かる疲労は、昨日、送信ボタンを押してすぐにテーブルに放り出した端末に向かって、夜分遅くに送った不躾なメールに返る返事が叱責でない事を両手を擦り合わせて祈りながら戦々恐々としていた時の名残だ。出掛けに一瞥した鏡の中の自分の顔には寝不足の跡がくっきりと残っていたから、センカも何か気付いているかもしれない。けれど、気付いていて、あえて何も言わないのは、彼の優しさだ。傷には触れないまま、いつものように振舞っている。それが今は有難くもあり、反面、苦しく、辛いと嘆く胸が鈍く痛む。
海鳴りに星の瞬きを散らし、茜に翳る雲の端を眺める銀色の、艶めく薄桃の唇が黙して開く気配の無い様は恰も時を止めたかの如く。遠くで、からんがらん、と鳴る不規則な金属の衝突音がやけに大きく響き渡る。
初めて会った日、センカはぼんやりと蛍光灯の鈍い光の中にそっと佇んでいた。何を見るでもなく、長い睫毛に縁取られた白藍を緩く瞬かせ、薄い気配で佇む綺麗な銀の色。情景に埋もれる様な気配の薄さでそこに在りながら、けれど、闇夜に煌々と輝く朧月に似た目の離せない美しさまでは隠せずに薄闇に浮き上がっていた彼の姿に刹那、息を呑んだのを覚えている。――――周囲とは隔絶した妖艶な光。あれをどうして隠しなど出来るだろう。どうして誰も彼の姿に己の時を止めないのだろう。過ぎった思いは疑問より憤慨だったと思う。同時に、今にも消え入りそうな彼を放って置けなくて、もう手持ちの無いガムを口実に声をかけた。ガム食べる?、なんて、初対面には失礼極まりない切り出しだっただろうに、顔を顰めもしなかった彼の度量の大きさには今も昔も頭が下がる。
そうして話しかけた時に顔を上げた彼の目はとても澄んでいて、感情の色の無い白藍の双眸に映り込む己を見たコウタは、嗚呼、何て綺麗で、何にも無い瞳なのだろう、と胸中で小さく呟いたものだ。
とても綺麗で、誰も放っておかない清麗な瞳。純粋な、純粋過ぎて、悲しみも喜びも怒りも何も無い瞳。人間らしさを全て排除したようなそれは、だからこそ、美しく思えたのか。時に、纏う妖しさが背筋を凍らせる怖れすら齎す白藍を、コウタは一度も醜いと思った事はない。これからも思う事は無いだろう。だが、それがどういう意味で醜いと思わないのかは別の話なのだと、今は思う。
リンドウとの関係。第一部隊との関係。防衛班、カレルやシュンとの関係。サカキとの関係。流動的に変化し続けるそれらを経たセンカの瞳が当初と同じ、眼窩に嵌る無色の宝石であるかといえば、返す答えは明らかに否である。…業腹な事に。
自分が最初に見つけた美しい無色の宝石が、誰かによって色を得る。その事実に、欠片でも理不尽で手前勝手な不満を抱いていた自分は、醜い生き物なのかもしれない。そう思いながら、彼は一度、唇を噛み、風の唸りを裂いた。
「あの、さ、センカ。訊いて良い?」
沈黙を埋める急いた息遣いに、冷えた海風に銀糸を遊ばせたセンカの瞳が、真っ直ぐこちらを向く。――――以前から変わらない、話を聞いてくれる姿勢。小さく、はい、と鈴の音を響かせ、言葉を待っている。一番初めにこれに気付いたのも、自分だった。気付けた事が嬉しくて、暫く、隊の皆には黙っていたくらいだ。それは、確かに独占欲だった。自分だけが彼を理解出来ている優越感。それが、何時からだろう、己の手を離れて、ソーマや、サカキや、リンドウ…皆の手に行ってしまったのは。皆と仲良くなるのは自分の望む所であった筈なのに、輪が広がるにつれて彼が遠くなっていく気がしていた。
今は、もう、大分、離れてしまっただろう。今、彼の傍にあるのはきっと、サカキか、ソーマだ。痛む胸が距離を自覚させる。
「…えっとさ…センカは、マーナガルム計画って、知ってる?」
脳裏に焼きつく記憶を語ろうとする背徳感から、コウタは目の前の眩しい光から目を逸らした。
センカが帰る前、サカキの策略によって見せられたマーナガルム計画についての資料映像は忘れる事など出来よう筈もない。まさか、あのソーマがフェンリルの技術の集大成たる存在であったとは、果たして、誰が思うだろう。苛立ちばかりを齎す彼のぞんざいな態度もあれでは仕方が無いと納得出来るが、知ったからと言って何が変わる訳でもない。当のソーマとしては訳知り顔で馴れ馴れしくして欲しくは無いというのが本音だろう。分かるからこそ、コウタは身の振り方に迷っていた。
ソーマの態度には正直、辟易している。協調性など皆無な上に口も悪く、態度も悪い。自分とは一寸もそりが合わず、友人にはこれ以上無い程向かない人種だ。だが、事情を知った今、素直に嫌悪だけ出来るかといえば、判断には迷う。そこまで自分は薄情にはなれない。知らないまま顔を顰める事と、知っていてそうする事では意味が違うのだ。それでも、同情は彼への侮辱になる。今まで通りに接するが最善だと思えど、やはり、躊躇いは拭えない。
迷い続けるコウタが、センカとの距離に打ちのめされながら、それでも僅かな関わりを信じて切り出したのは、彼が知っている可能性に賭けたからだ。
サカキの養子であり、ソーマとも人並み程度の親交のあった彼ならば、何か知っているかもしれない。思いつつ、知っていれば知っていたで、また自分だけが気付いていなかった距離の遠さに打ちのめされるのだろう。
突けば崩れる弱い覚悟を決めたコウタの前で開いた唇は――――予想通りの言葉を潮風に乗せた。
「はい」
渡り、消える、声。短い二文字に突かれた胸が軋む。
「そっ…か…」
予想はしていた。知らない訳が無い。だって、彼はサカキの養子だ。あのディスクを見た事があったのかもしれない。或いは、昔語りに言って聞かされたのか。
重くなった視線を地面に落としたコウタの顔に影が差す。靡く、茶色の髪。何処かの微かな金属音。
「…博士から、お聞きになられたのですか?」
「うん。…ひどいよな。ソーマも…仲間なんだから、言えばいいのにさ。…俺、あいつにどうやって接したら良いか、分かんなくなっちゃったよ…」
俯く視界に映る、橙に染め抜かれたアスファルトに転がる石の欠片が視界から外れるのを追うでもなく、ぼんやり眺めて力なく笑う。項垂れて、弛緩した頬の筋肉を無理矢理引き攣らせ、口元だけを淡く歪める、嗚呼、これも情けない姿だ。センカの前で格好良かった事なんて片手で足りる回数かもしれない。でも、だから、彼の傍はとても安心出来るのだけれど、今は、少し違う。
今は、何も言わずに傍にいて、話を聞いてくれる、水か花のように静かで綺麗な友人の、言葉が欲しい。
きゅ、と握り締めた手の内で神機がかしゃりと音を立てて、次の瞬間、澄ませた耳を柔らかな声音が撫でた。
「…その言葉に、何を返して欲しいのか…僕には分かりかねます」
「え…」
反射的に上げた視界の、一面の橙の中で海原の彼方を見詰めている、銀色の光。その白藍は欠片もこちらを見ずに、無色の宝石が光る水面を反射する。
「仲間であるか、否かは個々の人間の判断です。マーナガルム計画自体、詳細が秘匿事項である事は確かですから、ソーマ先輩が口外しなかったのは妥当な判断であり、寧ろ、協力者とはいえ、機密を漏洩した博士の判断の方が規律を犯しているというべきでしょう。ですが、それも、個々の判断であると僕は理解しています」
つまり、誰も判断を誤ってはいない、と言う事だろう。滔々と語る、茜の炎に照らされた清廉な銀を眺める茶の双眸は呆然と瞬く。緩んだ手から神機がずり落ち、地面に着いた硬い鉄の口腔が銃身を支えている。
ソーマが計画を語らなかったのはそれが機密であるからで、けれど、仲間にまで秘匿していたのは好ましくなかった。
サカキが計画を語ったのはコウタが協力者の一人であるからで、けれど、機密である筈のそれを漏洩したのは好ましくなかった。
どちらも好ましく、そして、好ましくなかった。見る角度が違えば、その時の判断など容易く善悪の面を変える。それは個々の価値観や立場の違いが齎す差異なのだろう。それぞれに理由があり、それに則ったやり方で、それぞれが相手の領域を侵害しながら行動をする。無論、コウタがセンカに問うているこの瞬間すら、その一端だ。
「僕には、返せる答えがありません」
こつり。唸る風を縫い、耳に届いた靴音が踵を返して回収地点を目指し、歩き出す。
コウタが計画について訊くのは己が迷っているからで、けれど、個人的な事、まして、機密を第三者に語るのは好ましくなかった。加えて、センカがそれに新たな意見を述べるのは完璧な意思操作になる。極端に言えば、センカがコウタに助言をするのはセンカがそうあって欲しいと思うからで、けれど、コウタの判断を操作していると言う点で好ましくない。そう言う事。侵害の連鎖を断ち切る彼の強さとは、如何程のものか。
愚かさに喘ぐ胸の内に蓋をして握り直した神機が僅かな音で沈黙を叩き割った。見詰める、積み上がった瓦礫をふわりと渡る軽やかな光。
「…センカっ、あ、あのさっ、もう一つだけ!」
瓦礫を上りきった細い背を仰ぎ見るコウタの瞳に、燃える空と炎の色を帯びる銀が映り込む。
綺麗な綺麗な銀の色。近くにあって、とても遠くにある、水のように掴めない、幻の花のようなその人。
「俺達、友達だよな?」
堪えきれず震えた声を誤魔化すように、口元が歪な笑みを浮かべて縋る。
今まで、直接聞いた事は無かった。自負していたという事もある。傲慢であったという事もある。人付き合いが壊滅的に下手な彼だったから、絶対の自信を持って、自分が一番の友人だと豪語出来た。だというのに、こうして改めて訊くと、不安が止まらぬ血の如く噴出して止まらない。
沈黙の時間はまさに審判を待つ罪人の心地だ。遠くで鳴る何かがぶつかる金属の音が胸の奥を不気味に引っ掻いて、凍る喉を戦慄かせる。
答えが返ったのは、引き攣った笑みが消えた頃。
「そう思って下さるのであれば、そうなのでしょう」
一度だけ振り向いた白藍が酷く冷たく見えたのは、それこそ、被害妄想だろうか。斜陽に煌いた、無色の宝石。声音は機械の小鳥のよう。眼下の茶を一瞥した銀色は瞬き一つで再び、静かな歩みで橙に消えていく。こつり、こつり、響く靴音は雪の音。
目に映る、鮮やかな炎の色で染め抜かれた茜の空に燐光を散らして去った銀色の、無機質な声音を思い出しながら、残されたコウタは静かに顔を歪めて唇を噛んだ。意識を叱咤する、鈍い痛み。浅ましい感情を自覚する愚かな自分が羞恥と落胆をもって胸に杭を打つ。
そうだ。知っていた。無色の彼は何も言わない。激励も。叱責も。陰口も。――――気休めすら。
もやもやすぎて皆とは時間差でうじうじしているコウタさんの図。原作で言っていた「ソーマにどう接したらいいかわからなくなった」をここで採用。本当、コウタさんは当家的に扱い易すぎて有難すぎます。最早、この人がいないと当家のGE長編は動いていかない!
で。内容的にはこれまでも書いている通り、コウタさんという人は仲間や近しい人に「依存」しがちな人だと思うので、こんな事になっています。その依存心が最高潮に達しかけている所ですね。この先の都合に向けてムードメーカーにはどんどこ沈んでいってもらう気満々です。察しがいい分、気付かなくてもいい事まで気付いてしまう不憫さが当家の彼の売り。
ちなみに、当家はコウ主的には、ほのぼの、可愛い、和み系が合言葉!(いきなり何を言い出すの)
2012/10/30 |