救いは犠牲の上に成り立っている。
英雄に唾を吐け
「お前には先に伝えておく。贖罪の街でリンドウの腕輪の反応があった。今度こそ、あのヴァジュラ種だ」
冷静に紡ごうとしたあまりに硬く棒読み染みた口調で乾いた唇を動かしたツバキの瞳は複雑な色で染め抜かれていた。無理も無い。彼女にしても冷静には対処し難い話だろう。こうして、任務帰りのセンカを捕まえ、人気の無い廊下の片隅に連れ出して情報を伝えているのも、来る本番、公式の任務発注へ向けての準備なのかもしれない。
下がりそうな眉尻を必死に吊り上げた姿をぼんやりと映した白藍を動かし、床を見たセンカの頬に薄い影が落ちる。
「…僕に先に話をされるという事は、僕が出撃するという認識でよろしいのでしょうか」
愚問だ。刹那、胸中でごちた己を罵る言葉は酷く棘を帯びて、肺を抉るように呼吸を潰した。
今更、確認する事でも無い。彼女がこうして言って来るという事は十中八九、第一部隊へ討伐、捜索命令が下るという事だ。事前に知らされたのは、先の憶測の通り、彼女自身の準備の為と、個人的なセンカへの配慮故だろう。帰還してこの方、ツバキが見せるセンカへの心配りは義務以上を感じさせるものがある。それが、弟が彼の心に空けてしまった穴を埋める為のものなのか、彼女の部下思いの一面がなすものなのかは定かではないにしろ、見えぬ傷の経過を見守る様は気落ちした家族を案じるようにも見えていた。無論、周囲にそうと気付かせる程、彼女も愚かではない。何事にも厳しく接する態度は常のままである。
その声が、今は、少しばかり揺れて、覇気に乏しい。示すものを明確に理解している故の小さな戦慄きが、泣く子も黙る厳しさを僅かばかり殺いでいる。珍しい、彼女の目に見える動揺の気配。
波立つかと思われた動揺を雫が水面を揺らす程度に抑えて会話を続ける素振りを見せた銀色には、少なからず安堵の息を吐いたようだった。
長く息を吐き、ファイルを持ち直す手が落ちかけたペンを直して、整える。肩の力を抜き、心持、寛いだ姿勢を取った彼女の姿は、肩から零れた豊かな黒髪までもが強張りを解いたようだ。淡く浮かべた微苦笑が艶やかな紅を引いた唇を彩り、華の如く煌く。
「嫌か?」
心を抉る事を承知で命を下す自分は本当に鬼なのかもしれない。思うツバキの視線の先でふるると燐光が散る。
「いえ、そうではありません。…ただ…」
「他の奴等の事か」
篭った口に先手を打たれ、彼は口を噤んだ。
お世辞にも、適しているとは言い難い。それが率直な感想だ。ツバキもそれを理解しているのだろう。リンドウと親しい関係にあった第一部隊がその任務を冷静に遂行出来る可能性は無いに等しい。命を下された時点で彼等が動揺する事さえ既に目に見えている。その状態で赴く任務で適切な対処が出来るかどうかなど、答えは明らか。憎しみと悲しみに我を忘れて死亡率を上げて貰っては困る。そうであるならば、自分ひとりで向かった方が遥かに効率良く、且つ、確実に標的を屠れると自負するくらいだ。勿論、此処数日、共に向かう任務で彼等がそのような類の行動を見せた事はただの一度も無いが、今回に限っては愚かな事をしないとは言い切れない。
良くも悪くも、彼等は情が深過ぎるのだ。他人を、大事にし過ぎている。
その代表ともいえる、未だ温室の緑の只中に閉じ込めたままの漆黒を脳裏に描き、センカは一度、長く瞬いた。俯いた視界に、抱き締めた神機の先が鈍く光る様が見える。まるで牙だ。肉を噛み切る欲望を抑えきれない、貪欲な牙。自分の本能。彼等のように、守る為でも、生きる為でもなく、ただ、屠る為だけにある醜い己の牙。無駄な感情が無いからこそ、惑う事無くアラガミに突き立てる事が出来るそれは、己と同じ鼓動で低く息をしている。今、この瞬間にも。
「…僕一人での出撃は、許しては戴けないのでしょうか」
いつかの砂塵に飛び交った叫びを耳に蘇らせながら進言してみるものの、返るものは取り付く島も無いものに違いない。任務は遊びでも易々人を変えられる事務職でもないのだ。重要な任務ほど、その時、場合に合った人選がされる。吟味された人間は真にその任務に相応しい者だ。一平隊員程度が何かを言った所で決定が覆る事は無いだろう。
細く零した彼の言葉に、厳格と公平、誠実を重んじる彼女は予想の通り、首を振った。
「許可できん。これは上層部の決定だ。だが…」
厳しく主張を跳ね除けたものとは別に、柔らかに色を変えた声と共に腰に当てられていた細い指が蛍光灯に煌く銀糸に触れる。整えられた爪に纏わる、星の光。
「お前には、辛い思いばかりさせてしまうな。出来る事なら、外してやりたかったがそうも出来なかった」
実を言えば、ツバキ自身、シックザールが押し切った彼の参加には納得していない。可能であれば、他の者と代えてやりたいというのが本音だ。しかし、戦力的にも妥協を出来るような任務ではないのは確かで、追い討ちをかけるように、現在、極東支部内でその任に当たれそうな腕の立つ神機使いは数えられる程。その筆頭がセンカであるのは最早、言うまでも無い。手腕も機転も申し分無い彼が任務の統率に充てられるのは必然だと言っても良かった。これは人類を基準とした問題であり、彼の心情云々が基準の問題ではないのだ。個人の心情で動く事は只の我侭に過ぎない。
その点で、彼は完璧だった。蒼穹の月の折、状況を正確に分析し、大切な一よりも利のある十を取った行動は指揮を執る者として相応しい素養だとツバキは思っている。その代償が彼を永遠に縛るものであったとしても、だ。
ツバキとてセンカと何ら変わらない。支部長の指示通り、一週間で弟の捜索を打ち切ったのも、その後、何事も無かったように任務の采配を振るっていたのも全ては利のある十を得るが為である。
だが。そう。だが、と彼女は思うのだ。どれ程、社会に正しい行いだと信じて動いたとして、やはり、個人の感情というのは無視出来ない。
歪めた顔はしっかり笑えているだろうか?センカは植物が好きなんですよ、と矢鱈と嬉しそうに零して、自室の植木にせっせと水をやっていた弟のにやけ顔を思い起こして、そう月日が経った訳でもない日々に懐かしさを滲ませたツバキの鼻が、つん、と痛みを訴える。
「私はな、センカ。この任務で一つ、区切りが出来ればいいと思っているんだ」
さらり、さらさら、さらり。指の間を滑る銀色の髪の柔らかさに、今にも平静を崩しそうな意識を移しながら、彼女は静かに言葉を待つ彼のそれを優しさだと理解した。――――嗚呼、きっと、弟もこの静かな優しさに惹かれたのだろう。ひっそりと傍に咲く、花のようなその存在そのものに。
ゆっくりと、優しく、丁寧に通す指から零れる煌く銀色の毛先から、ふわり、舞い、儚く消える燐光。
「毎度毎度、私情を挟まず、冷静に任務に当たれと言っているとはいえ、リンドウの件について、まだ割り切れない者が多いだろう。だから、この任務が皆の心に一つの結論を齎してくれれば…先へ進む為の、ある種の救いのようなものになれば良いと、そう思っている。勿論、お前にとってもな。その為に他でもないお前自身をまた傷つけてしまうなど本末転倒以外の何ものでもないが…許してくれ」
揺ぎ無く紡ぐ事が出来たのは彼が気配だけで確かに受け止めてくれる事を感じたからかもしれない。会話能力が壊滅的な彼は、その代わりに視線や気配だけで器用に意思を伝えてくる。それに気付いたのも、確か、あの馬鹿な弟の言葉からだった。センカが大好きで大好きで愛しすぎて少しやり過ぎていた感が無くも無かった大馬鹿者の弟は、それでも確かにこの銀の華を愛していたから、細かな所までよく見ていたのだ。
そういえば、ふとした時に不意打ちで優しくしてくれるから堪らない、なんて馬鹿げた事も言っていた気がする。思い出したツバキの麹塵に映る銀色が、触れる指を振り払わぬ程度に頭を上げる。
「……それには、」
「ん?」
「救われる者には、教官も含まれているのでしょうか?」
見開いた双眸を隠すように、黒髪が頬を滑った感触を、彼女は遠くで認識した。絡む、煌きの合間から覗く白藍と、闇の隙間から覗く麹塵の色。
嗚呼、成る程。そうか。ぼんやり、思う。弟は本当によくこの銀華を見ている。確かに、ふとした時に不意打ちで優しくしてくれるから、堪らない。泣きそうだ。目が熱い。どうしてあの馬鹿は銀華を置いて行ってしまったのだろう。どうして、まだ帰って来ないのだろう。あの大馬鹿が。死んだ可能性が高い癖に、死んだと証を残さないから、こうして皆、お前に振り回されている。馬鹿者め。
「そう、だな…そうだ。私も、同じだ」
同じだ。だから、すまない。私達の為に傷ついてくれ。すまない。すまない。
そっと腕の中へ彼の抱えた神機ごと掻き抱いた小さな身体があまりに細くて、彼女は目を逸らした筈の胸の軋みに揺れる視界を閉じる。蛍光灯の光の下、はらはらと零した漆黒の帳で銀色と己の表情を隠した長身の女の肩が震えて、押し殺した嗚咽の息が微かに大気に波を立てた。遠く聞こえる喧騒はあえて選んだこの静かな空間を乱すには至らない。どれ程、慟哭が長く続いたとて、静寂が壊される事は無いだろう。気紛れに漏電する何処かの灯りが微かに啼く。
悔しくてならない。誰もが同じだ。誰もが現実の矢面に立つ贄を探している。そうして、いつでも痛みの前線に立たされるのは、静かに世界の片隅に咲く銀色の華。彼が傷つく様を見て、傷つかずに済んだ全てが胸を撫で下ろし、ゆるりと現実を理解する時間を得る。彼の周りはそんな、浅はかで卑怯で情けない年嵩の人間達ばかりだ。
だが、それより何より情けないのは、わかっていながら、その矢面に立つ勇気が無い自分の根性の無さだ、と彼女は消える燐光を見送り、きつく唇を噛んだ。
お待たせしました、リンドウさん腕輪回収イベントの開始です。が、まずは外せないツバキ御姉様との会話から。
ゲーム中ではイベント、という括りではなく、フリーの会話という枠組みの会話でしたが、ここを入れないとツバキさんと新型との関わりが薄くなってしまいそうなので挿入してみました。…という思いで当時の私は書いた筈!何せ実際に書いたのは一年以上前!!(毎度の事!)
原作でのツバキさんの残念なところというのはメインのストーリーラインでの活躍があまり無かった事、と思っているので当家の長編では要所要所で立ててみたいと企んでいます。実際、いい意味で中間管理職な方だと思うので、惜しいんですよね。対立する支部長達、暗躍する上層部と弟や幼馴染を始めとした部下達の正義論の間に挟まれて葛藤している姿は彼女の立場だからこそ書けるものだと思います。官職としては前者に従うべきで、でも、個人としては後者に心がある。ぎりぎりまで天秤にかけて悩んでいる、そんな彼女が書ければいいと思っています。
今回もスポットに当てたのはその辺りで…一人だけ帰還した新型の心情を慮れば今回の任務に、ましてや指揮官として充てるべきではなくて、けれど、任務の性質と現状の戦力から考えてそうするしかない事も理解していて…結果、上層部の判断に納得するしかない自分の汚さを悔いているツバキさんの良心の呵責を書いている……つもりです よ ? (あれ?今、真面目な話してたよね?)
勿論、新型的にはあまり気にしているものでもありません。心的被害を広げない為に、或いは、被害の爪あとをある程度穴埋めして軽減する為に出撃するならば何も問題は無いと思っています。その上で、ツバキさんの苦しみの片鱗も察知して、自分が事を片付ければ貴女も少しは苦しまずに済むようになるのかと、そう訊いてみた次第です。
それにしても、そろそろツバキさんは胃に穴が開きそうですね…。
2012/11/25 |