この手はいつだって貴方に届かない。
そうして、貴方はいつも誰かの代わりに一人で傷ついている。
遠い銀光
低く唸る獣の眼前に悠然と姿を現した銀色の白藍はステンドグラスを透かす虹の光彩を浴びて静かな水面の如く煌き、怯む事無く身を射抜く眼光が漆黒の帝王をこそ怯ませた。
囁く清流の声音が雪の冷たさをもって大気に冬を孕ませる。
「もう会う事も無いと思っていたが、そうも行かなくなった」
するり、刀身から鍔を撫で、柄を握る白い指。手首を撓らせ、翻す刃が刃先まで閃光を走らせて冷気を纏う様は、微笑の一つも浮かべない氷の瞳と相俟って恰も雪の女王が舞うかのようだ。瓦礫の隙間から吹き込む微風に銀糸を揺らし、踏み出す一歩は音も無く。無造作に携えられた、構えられもしない鋼鉄の艶が虹を弾く。響く、鍔鳴り。
「お前の腹の中にある物に用があるんだ」
肌を刺す殺気に逆立つ黒毛を震わせ、一つ、吼えた獣を冷ややかに見詰めたセンカは緩慢な動作で瞼を伏せ、一層、凍える気配と共に、ゆるりと開いた。
一度くれてやった物を今更、返してくれ、とは虫のいい話だが、これはどうにも致し方が無い。
「死んでくれないか」
問いは、断定。
飲み込むには到底、納得のいかない言葉をあえて飲み込んではみたものの、やはり、納得など出来よう筈も無い。唇を噛むサクヤはセンカと別れて直ぐ、計ったように行く手を阻んだプリティヴィ・マータが黒霞に沈んでいく様を眺めながら、恨みがましく眉を顰め、朱色を細める。
違和感が、ある。まるで、蒼穹の月の時のような。何かが手の届かぬ胸の奥で引っ掛かっているような、中途半端な感覚。一言で言うならば、気持ちが悪い。
警戒ついでにアリサを見れば、彼女も怪訝な面持ちで青いパーカーの背を見詰めていた。瞬間、交わる視線。
何を隠しているのか。申し合わせたように立ち回るソーマとセンカが何かを隠しているのは疑いようが無いが、何かを隠している事までは分かっても、それまで。鉄面皮と徹底した秘密主義を貫く彼等相手ではどんな探りも功を奏する事はない。互いに一線引いて接しているからか、常から掴み難い距離を保つ彼等が偶に徒党を組んで秘匿する時の防御の堅さは折り紙付だ。その堅さといったら、比較的付き合いの長いサクヤですら手がかりの糸くず一つすら掴めない口の堅さで、表情を読もうにも、浮かんでいるのは欠片も崩れぬ無表情。お手上げついでに匙も投げるというものである。
彼等が初めに隠し事したのは忘れもしない、蒼穹の月の、あの時だ。たった一人、病み上がりの銀色を砂塵と舌なめずりする獣の只中へ置いてきてしまった、あの時。それは今もサクヤの心に影を落としている。忘れられる筈が無い。遅すぎる冷静さを取り戻してから、どれだけ後悔に嘆いた事か。あのような失態を、今度こそは犯すまいと努力してきた。だというのに。
「…ソーマ。どうしてセンカを一人で行かせたの?それも、あの子と二人で勝手に決めた事なの?」
納得出来ない。確かに、戦力的にもセンカならば一人でディアウス・ピターを足止めする事は可能だろう。だが、可能だ、というだけで、それが危険すぎる行いである事は今更、言うまでも無い。何より、彼は「あの現場に最後まで残っていた人物」だ。思う所が、無い筈が無い。或いは、思う所があるからこそ、一人で向かったのか。どちらにしろ、好ましくないのは明らかだ。
足早に動き出すソーマが倉庫裏から教会方面へ爪先を向けるのに続き、砂利を鳴らす音が風音をざらつかせる。
「リーダーの命令をきいてやってるだけだ」
「嘘です。ソーマさんはそういう人じゃないじゃないですか!」
命令なんて無視し放題の癖に!思わず声を荒げるアリサを鼻で笑っていなした彼の態度に少女の顔が赤味を帯びて、食って掛かろうと乗り出しかけた細い身体を、サクヤは肩に手をかける事で引きとめた。――――話を逸らす為の挑発だ。乗るな。語る、朱の双眸。
彼がこうして話を逸らそうとするという事は、いつその話があったかは定かではないにしろ、ソーマ自身はセンカの意図に気付いているという事だ。気付いていて、あえて、それに踊らされてやっている。思えば、命令が下された時、合流の合図の有無を問うていたのだから、打ち合わせた訳ではないのかもしれない。だとすれば、あの瞬間は酷く驚いた筈だ。それにも関わらず、今、こうして冷静に任務を遂行しているのは、十中八九、彼がセンカについて「自分達が知らない何か」を知っているからだろう。納得できないものに大人しく従うような可愛い性格をしていないのは、同じ部隊でやってきた自分が良く知っている。
彼等が、彼等だけの間で意思を交わす事の出来る、彼等だけの秘密とは、一体、何なのか。実際、見当もつかない。個人の領域に関わる問題であるのは確かだが、任務にまで影響が及ぶなら見逃せないものだ。
「貴方、センカの事、何か知ってるの?」
声音に滲んだ訝しむ響きに、急ぎ足で風を切りながら僅かに振り向いたソーマのフードが風に揺れた。
「聞いてどうする」
「センカが一人で抱え込む必要なんて無いわ。皆で助け合うのが仲間でしょう?あの子だってリンドウの事で思う事がある筈だもの。いくら私達より腕が良くても、心の問題は別よ。一人で立ち向かうなんて、辛いに決まってる」
リンドウのやや深過ぎる恋情を避けられない至近距離で囁かれ続けた彼は、その真摯な想いも確かに知っていた筈で。それに揺れる素振りすら見せた銀色が、何も思わない訳が無いとサクヤはまた唇を噛む。綻びかけた華は育てる手を失い、放って置かれたまま。途方に暮れて、広い世界で俯いている。それが、切なくて堪らない。
「…あの子、中々、頼ってくれないし、何も言ってくれないんだもの……私達じゃリンドウの代わりにならないって分かってるけど…でも…」
もしもディアウス・ピターが本当にリンドウを捕食した証が出てきてしまったら?あの子一人でそれを見つけてしまったら?真っ先に現実に切り裂かれる痩身に圧し掛かる悲しみはどれ程のものか。想像するだけで踏み締めた大地がぐらりと揺らぐ。
青いフードの向こうに見える輝く橙の空に浮かび上がる逆光の教会にあの日を重ね、彼女は奥歯を噛み締めた。あまりに似すぎた空の影はまるであの日に戻ったかのような錯覚を齎す。沈む心とは別に、歩む速度が緩まないのは一重に一秒でも早くセンカに加勢したい気があるからだ。二度と同じ鉄は踏むまいと意気込む意識は砂利を奏でる速さまで操り、靴底で擦れる砂の音は最早、走る時のそれと化していた。
途切れた言葉には一言も返す事無く口を閉ざしたソーマを追い抜き、倉庫区を抜けた先に広がる開けたビルの隙間。静けさが戦闘の終わりを予感させる。否、まだだ。まだ、終わってはならない。思い、教会に目をやった、刹那。
ぱん。合流の合図が、焔に輝く空に弾けた。
色は赤。全員集合。馬鹿な。そんな、馬鹿な。
「…終わったようだな。行くぞ」
何の感慨も無く、ただ事実を棒読みするソーマの声を漂白した意識でぼんやりと聞いたサクヤは見開いた双眸を瞬かせる事も忘れ、構えを解いた神機を担ぎ上げて、ただ、只管に走り出した。
止まれば、力の抜けた膝がくず折れそうだと、焦っているのか、落胆しているのか、絶望しているのか、嘆いているのか分からない頭で思う。嗚呼、兎に角、早く、早く、彼の元へ行かなくては。きっと、たった一人であの忌々しい獣の前に佇んでいる筈だ。せめて、腕輪と神機を探す役くらいは変わってやりたい。あの子にそこまでさせる訳には、そこまで甘える訳にはいかないのだ。だって、自分達は仲間で、分け合う事も、頼り合う事も大切な筈で、なのに、あの時、全てを投げ出してしまった自分は彼に重荷ばかりを背負わせて、逃げ出して。だから、今度こそはと、そう思っていたのに。
風を切り、向かい来る圧を払い除け、時折、滑り落とした神機の銃口を堅い地面に擦りながら、流れていく景色の先を目指す。目を焼く橙の閃光が鬱陶しくてならない。どうにもならないもどかしさに担ぐ鋼鉄の柄を握った拳が軋み、痛んだ。
角を曲がり、見える、プレハブ。ちらり、廃墟へ投げる視線に捉わる影は無い。ここまで来て、影の欠片も見当たらないという事は、彼は教会の中だ。よりにもよって、あの場所。奇妙な因果にも程がある。
大地を蹴り飛ばすように身体の方向を変え、弾丸の如く教会内に飛び込んだ彼女は朱の双眸に映った光景に、漸く動きを止めた。乱れた黒髪が荒い息をつく頬にかかる。
溢れているのは、光だ。視神経を痛ませる程のその中心で、捜し求めた銀色が静かに、或いは茫然と佇んでいる。何かを抱き締めて俯いているように見えるのは、祈りの仕草だろうか。割れたステンドグラスに頭を垂れる寂しげな背が少しだけ丸くなっている。儚い立ち姿。震えもしない、壊れそうな肩。吹き込む風に揺れ、靡く銀髪。その美しい雪の如き銀色の頭の先から、足の先までが――――赤黒く濡れていた。
数分前までは土の汚れ一つ無かった彼の、恰も血の雨に降られたかのような有様に、心の臓から吐息までが凍りつき、瞬きも出来ない。
深紅に染め抜かれた頭髪は毛先に僅かな銀が残っていなければそれが地色だと思っただろう。着込んだ少し大きめの上着も、黒色のズボンも、しとどに濡れて、もったりと重たげだ。襟から覗く白い首筋は禍々しい紅に光り、艶かしく艶めいている。今や重く垂れた柔らかな毛先から落ちた深紅の一滴が彼の足元に広がる赤い溜まりに波紋を作り、静寂を穿った。
嗚呼、これは、何だろう。この、酷い有様は、何だろうか。
彼の前に横たわる黒い獣は目標のディアウス・ピターで間違いない。既に事切れた巨躯が薄汚れた床の血溜まりに溺れている。千切れた金色の衣が荒んだ風にはためいて、恰も敗将の旗のようだ。首元に突き刺さるセンカの神機。確認するまでも無い。彼は、本当に一人で討ってしまった。誰にも頼らず、誰にも言わず、たった一人で。だが、問題はそこでは無い。ディアウス・ピターを討ったか否かなど、目の前に広がる光景からは、道端の小石にも劣る瑣末な事だった。
「…センカ…」
ぽつり。零れた声に俯いた顔を上げ、優雅に燐光を舞わせて彼が身を返す。
注ぐ虹の光の下、長い銀の睫毛さえ赤く染め、緩やかに瞬く様は、それさえも美しく、妖艶で、なればこそ、近付き難く、異様な程。それでも、変わらぬ茫洋とした白藍の双眸にいつものセンカの欠片を見つけ、安堵の息を吐きかけた彼女は、しかし、次の瞬間、雪色の肌にべたりと塗りたくられた鮮血がぬらりと煌く様に目を覆いたくなった。喉を引き攣らせて身を固めたサクヤの背後で、追いついたソーマとアリサが同じく息を呑む気配がする。
彼が、恐ろしい訳ではない。断じて。けれど、目の前に呈された現実は己の時を止めざるを得ないもので、詰まった喉が震える。
小さな身体で抱えるには大き過ぎる、真紅の神機。それが、血塗れた細い腕にそっと、けれど、確かに抱かれている。ぬめる刀身を抱える手に包まれているもう一つは、サクヤとアリサが血眼になって探していたものだ。――――リンドウの、神機と腕輪。本当に、見つかってしまうとは。思い、同時に脳裏で囁く。あれは、どうやって見つけたのだろう、と。獣の腹を裂きでもしたのだろうか?たった一人で、血飛沫を浴びながら、血肉を探り、潜り込んで。そんな、彼には到底、似合わないような、そんな残酷な事を、彼はしたのだろうか?たった、一人で。誰に助力を請うでもなく。誰も彼もを遠ざけて、自ら、真実の刃の前に身を躍らせたというのだろうか。
凍ったこちらの空気とは別世界で動き出す彼の纏う血臭と、腕に抱える二つの事実が否定したい全てを肯定して、胸の嫌な早鐘が止まらない。
待って、やめて、欲しいのはこんな瞬間じゃない。浅く呼吸を繰り返しながら、彼女は脳裏で叫んだ。センカを一人にしないと、傷つけないと、そう思っていたのに。どうして、この手はいつも彼に届かないのだろう。欲しいのはこんな台詞でも、そんな空虚は表情でもない!
「サクヤ先輩。ご所望の、腕輪です」
直後、差し出された血塗れの「遺品」が力を奪い、彼女は手中から滑り落ちる神機の音と共に光の大地に崩れた。
砂埃でざらつく床を見る視界の端に深紅に濡れる靴が見える。
「…ああ…リンドウ…っ」
ごめんなさい。また、間に合わなかった。
サクヤさん、頑張ったけど届かなかった、の図。蒼穹の月の最後の補完部分にあたるのが今回です。
ソーマさんとサクヤさん達の駆け引き(?)部分は書いていてとても楽しかった覚えがあります。こういう化かし合いみたいなシーンはいつ書いていても楽しいんですが、キャラクター達にとっては大迷惑ですね(笑)特にサクヤさんは今回、返り討ちどころか滅多打ちというか…どぎついメンタルブローでした…ごめん…姐さん。
当家のサクヤさんという人は男前度を失わないように書いている訳ですが、その分、責任感背負い込みすぎるというか…「リンドウがいないから私があの子を守らなきゃ!」みたいな感覚に陥っている感じです。なので、「今度こそ一人にしないぞ!」と意気込んでいた訳ですが、そこをまさかのソーマさんと新型自身の最強タッグで阻止されるという不憫なオチが待っていたという、なんとも報われない結末になってしまった訳で…リンドウさんに申し訳ないやら、自分が不甲斐無いやらでショック半端無い。
そんなこんなで最後の彼女の台詞は原作そのままを使ってみたんですが…うん。アレルギー出る人がいない事を祈っております よ (笑)
ちなみに、新型はサクヤさんの予想通り、髭閣下のお腹を掻っ捌いて中に潜り込んで神機その他を回収しましたよ。
2013/02/09 |