「ねえ、アリサ。これ、本当に私達だけで見ても良い物なのかしら…」
ターミナルの認証に掛ける手を止め、リンドウの腕輪を眺めたサクヤはそう紡いで続けた。
「リンドウが、自分のしていた事を知っていて欲しいと思う人が…もっと他にいるんじゃないかしら?」
例えそれが、どんな物であれ。
その名は、
鏡に映った己を眺める白藍は睫毛に乗る小さな水の玉を瞬きで散らし、咽返る血臭を拭い去った鏡像の頬に白い指を滑らせた。風呂上りの一糸纏わぬ身体にも、嫌な滑りは無い。全ては排水溝の向こう側だ。――――あれ程までに血に濡れたのは、いつ以来だっただろうか?アナグラに戻ってきた自分達を、正確には、自分を見る目は異様であったと、センカは逆上せかけた頭でぼんやり思い返す。ざわつくエントランスが、瞬間、水を打った静けさに包まれた様はいつかのリンドウの怒気に気圧されたあの時のようだった。双眼に映る光景から目を逸らさず、けれど、何も言えずに口を噤む面々の引き攣った顔。戦慄より恐怖の気配。ツバキですら目を見開き、喉を鳴らした光景は、果たして、そこまで驚愕するものであっただろうか?初めこそ、腕に抱いて持ち帰ったリンドウの死の象徴がそうさせるのかと思ったものの、思い返せば違うと分かる。あれは「自分」に向けられたものだった。
何にしろ、誰もが息を詰めた中、早々に入浴と休息を勧めたツバキの言葉が場の思いを代弁していた事は間違いない。
奇妙な事だ、と思う。センカ自身、己の有様は酷いものだと自覚はしていたが、他に特別な感情があったかといえば答えは否だ。強いて言うなら、粘着いた血のぬめりが多少、不快だと思うくらいのもので、慣れた血臭に思うものは何も無い。相手の命を奪う任に就いたのだから、血飛沫を浴びるのは当然だ。且つ、獣の腹中にある物を探り出したとなれば、血塗れも道理。驚く事も慄く事も何一つ無い。そもそも、通常の任務ですら血塗れで帰る事も少なくないというに、今更、何を驚く事があるというのだろう。
思いながら、冷え始めた身体に滑らせる柔らかなタオルが、身体の線を辿るように滑る水滴を吸っていく。湿り気が無くなる心地よさの反面、火照った肌に纏わりつく布の帯びる仄かな温度は、事ある毎にこの身を包む腕の熱を思い出させて、任務を終えてから妙に落ち着きを無くしているセンカの胸に微かな波を立てた。
陰鬱ではない、痛みのような、感覚。落ち着かない。…彼は、どうしているだろう。先日、顔を合わせた時には別段、変わった様には見えなかったが、少し、違和感があった気がする。その違和感が何なのかは、分からないけれど。
下衣を穿き、仕上げに洗い立てのシャツと代えの上着に袖を通した彼は最後の留め具を留め、溜め息を吐いた。扉を開け放てば、流れ込む冷気。湿度の高い浴室を出た素足が冷たい床板に温度を奪われて鈍く痛む。――――まるで拒絶されているようだと思うのは、被害妄想だろうか。或いは、己が世界を拒んでいるのか。
煙草の香りが薄れた部屋で途方に暮れたように漆黒の面影を探した白藍が捉えた棚の上の写真の中で、今日、歴史の上で死んだ男が笑っている。
「……死んだ、か……」
世界に殺されてしまった彼の人。もう彼が生きていると肯定するものはセンカ以外にはいない。
ふらりと近付いた写真に指先を伸ばし、微笑む彼の頬に爪が触れ、けれど、そのまま指を辿らせる事を躊躇った白皙は糸の切れた人形の如くソファに凭れた身と共に冷たい布に沈んだ。写真の微笑から逃げるように俯き、ソファの背に埋めた頬を包む、上質とはいえない布の感触。深く染み付いた、忘却を阻む煙草の香りが鼻腔を擽る。
触れられない。触れていいとも思えない。だって、彼を本当に殺してしまったのは自分なのだ。シックザールでも、ディアウス・ピターでもない。「センカ」という化け物が殺した。皆が望む「人間の雨宮リンドウ」を。その罪深さも、愚かしさも自覚しているというのに、どうして、この心はおこがましくもまだ人間のように痛もうとするのだろう。彼等と慟哭を共にしていい権利など、自分には無いというのに。
「…貴方なら、分かるのでしょうか…先輩…」
この感覚が、何なのか。望む答えも、望まぬ答えもくれるリンドウならば、分かるだろうか。独り、空虚な部屋に呟きを溶かして、彼は瞼を閉じた。
閉じた白藍の視界に広がる果てない闇は、腕を伸ばす影の使いのようだ。そうして、この身を絡め取り、何にも影響を及ぼさない場所へ引きずり込んでくれたなら、どれ程良いだろう。だが、それも今更だ。今更、何も無かった頃へは戻れない。
そっと、擦り寄ったソファは、香りばかりが彼のもので、彼では在り得ない己の温度を分けるだけの無機物の温度が胸を冷やしていく。
いつかに彼が呟いた通り、人が空のままではいられないのなら、空の箱に何時の間にか在るこれは、一体、何というものなのか。自問しながら、他方で、知る時など永遠に来なければ良いと思う。知れば、全てが変わってしまう。拒絶する思いは、確かな恐怖だ。知りすぎれば、檻に帰れなくなる。いつか帰る日を恐れる事など、あってはならない。
沈む意識に震え、身を丸めたセンカを連れ戻したのは――――戸口が鳴らした、来訪の知らせだった。
「センカ、私、サクヤよ。起きてる?ちょっといいかしら?」
ぴんぽん。鬱々とした部屋に響く間抜けな音に、落ちかけた意識を引き戻されたセンカの身体が大きく跳ねる。弾かれたように見やった戸の向こうから聞こえる知った声。浅い息を吸い、未だ跳ねる心臓を服の上から押さえた彼は緩慢な動作でソファから降り立った。
サクヤ。確か、帰投直後から自室に篭っていた筈。何用だろうか。思い、直に胸中で首を振る。愚問だ。リンドウが置いてきたという置手紙から何かを得たからこそ、この部屋の戸を叩いたのだろう。
柔らかな手つきで開錠ボタンを押し、開扉した銀色の白藍に、炎を閉じ込めた朱色が映る。密かに震える胸を押さえ、浮かべるのは常のそれ。隔てる物を無くしたサクヤの声がくぐもる事無く耳に届く。
「ごめんね。休んでるとこ悪いんだけど、私の部屋に来てくれない?貴方にも見て欲しい物があるの」
「見て欲しい、物ですか?」
小首を傾げた銀色の柔らかな声音に頬の強張りを解いた彼女はちらりと視線だけで、まだ濡れた毛先から落ちては散る瑞々しい燐光を認めてから、少しばかり安堵したように笑った。
「そう。私とアリサが何かを探ってたのは…勿論、気付いてるわよね?」
聡い彼が気付かない筈が無い。何より、先日の質問は明らかに不審であり、センカが疑念を抱かぬ道理が無かったと自分でも思う。水面に限り無く近い水面下での行動は間違いなく彼に知れているだろう。だからこそ、彼はディアウス・ピターから取り戻した腕輪を差し出して、こう言ったのだ。ご所望の腕輪です、と。それは自分達が本来とは違う意味でリンドウの腕輪を探していると知らなければ紡がれない言葉だ。
センカは自分達が「何かを暴こうとしている事」を知り、且つ、その為に「リンドウの腕輪を探していた事」を知っていた。
思えば、探るまでも無く、初めから彼は知っていたのかもしれない。再会した彼に腕輪の捜索を伝えた時、彼は少しも驚いた様子を見せなかった。或いは、勘のいい彼の事だから、言わずとも意図に気付いたのだろう。無論、フェンリルの規則に則っての行動だと片付けていた可能性もあるが、単純にそれだけでは無いとサクヤは断言できた。――――彼が警告をしてきたからだ。昨日、サクヤが問うた隊長権限で閲覧出来る情報について、彼は、機密事項の閲覧には上層部の許可が必要であり、規制に基づく厳重な監視が敷かれていて、勝手な閲覧は実質、不可能だ、と答えた。単純にサクヤの問いに答えるならば、平隊員とそう変わらない、と返すだけで良い。それをあえて「厳重な監視が敷かれている」と念押ししたという事は、こちらがしようとしている事が危険な事だと朧げにでも理解していたからだろう。
彼が何を知っているかは知らないが、彼は確かに何かを知っていて、あの時、その何かの片鱗に触れようとするサクヤを牽制したのだ。
野獣の黄昏の時といい、あの時といい、センカは無意識の優しさで仲間を危険から遠ざけようとする。もっとも、その優しさを指摘すれば、きっとまた何時かのように、彼は理解出来ないと言って首を傾げてしまうのだろうけれど。
既にいくつもの死線を潜り抜けた仲間でありながら、頼られない虚しさに胸を痛めつつ、苦く笑った彼女の黒髪が空調の微かな風に揺れる。
「リンドウの遺した最後の手紙を、一緒に見て欲しいの」
大気に触れた女の声が消えて、暫く。刹那、時を止め、ゆるゆると見開かれていく白藍の様を見て、サクヤはもう一度、苦く笑った。
嗚呼、彼をまた、傷つけているかもしれない。そう、思う。
「ごめんなさい。リンドウの死に一番最初に直面した貴方に、今、お願いする事じゃないって分かってるわ。でも、あの人が何をしようとしていたのか、何をしていたのか、何をしたかったのか…それを私達が引き継ぐか、引き継がないかを別にしても、あの人はきっと貴方に知っていて貰いたいと思う筈だから……悲しんでいる事を承知で言うわ。お願い」
茫然と、流れる時の中で息苦しく紡がれる声音に耳を傾けながら、センカは見開いた瞳をそのままに、瞬きを忘れていた。
彼女は、何を言っているのだろう。言動から、まだ件の置手紙を読んでいない事は理解出来る。しかし、悲しんでいる?一体、誰が、悲しんでいるというのか。辺りを見回さなくとも、この場には自分と彼女しかいない。けれど、でも、そんな人間的な感情は、有り得ない。怒りや、憎しみはあれど、そんな、まさか、悲しみなど、最も有り得ない。
微かに戦慄く唇が、色を失い、潤いを失う。――――馬鹿な。まさか、
「…何を…仰っているのか…。僕は、悲しんで、など…」
「いいえ」
廊下と部屋の温度が混ざる温い空気に溶けようとした否定を、彼女の強い声が遮った。
「貴方はちゃんと悲しんでいるわ。まるで置いていかれた兎みたい」
寂しくって、途方に暮れた顔をしている。囁き、伸びた女の手がしっとりと濡れた銀糸に触れ、宥めるように梳く感触に胸が震える。
これは、知ってはならないものだ。否、知ってはならないもの「だった」。漠然と認識し、直後、彼は気付くのが遅すぎた己の感覚に愕然とした。途端、細胞が急激な増殖をするかの如く己の胸の内に広がっていく何か。指先まで侵食し、細い白魚を細かに震えさせるこれは、恐怖ではない。
燐光を散らす髪を揺らす事無く、緩やかに俯く顔が、ついに床を見て動きを止める。
「……以前、も…アリサさんに同じような事を…言われました…」
振り切れない苦しみも。
逃れられない痛みも。
言葉に出来ない重みも。
叫びたい程の衝動も。
幾重にも交錯する思考も。
全てが崩れる脱力感も。
何より、時を経ても頭から離れない一つの事が、証明する。
「そう。それじゃあ、その時も、貴方は悲しんでいたのね」
嗚呼、それは、たった一人が齎した、痛い程の「悲しみ」だった。
書類上で死んでしまったけども本当は生き物としてちゃんと生きている人を想う、の回です。当家の新型はとても面倒くさい性格をしているので、「良く理解出来ない感覚を訊きに行きたいけど教えて欲しい人は遠くて、でも、答えがわかったからといって嬉しくは無い」という感覚を持て余してしまって、こうしてぐるぐる悩んでみたりします。で、例の如く、答えをくれる人登場。という訳で、今回もサクヤさんに頑張って貰いました。こういう時に頑張ってくれるのは専ら、彼女かコウタさんです。
ですが、登場してくれたからといって新型にとっては全く嬉しくは無い事実を突きつけてくれる訳で。
詰まる所、今漸く、この時になって、以前、リンドウさんと喧嘩した時には既に悲しみ感じる自己を形成していたのだと知る新型さんでした。……というのが書けていれば今回はオーケーかと思われます!(何)
2013/03/20 |