mono   image
 Back

 嘘をついた。随分前からだ。
 愛しい愛しいお前に俺は嘘をついた。――――お前を殺すという、最低な嘘を。

されど、愚者は甘く微笑んだ

 急く足を殊更、緩やかに運び、踏み入れた温室。いつものように噴水の縁に陣取り、甘やかな微笑で迎えるリンドウの光景は、その背景が宵闇に沈む茜の空でなければ、全てがいつも通りだった。――――紫を交えた薄闇に沈みつつある天蓋。美しい色調の移りは深い緑の輝きを尚、深く見せる。
 風に囁く木々の声を、どれくらい聞いていただろうか。それは一刻程であったかもしれず、けれど、動かぬ空の色を見れば、やはり一瞬であったのかもしれない。光る水飛沫を眺め、徐に座していた縁から飛び降りてどこぞへ席を外した気の利く幼子の影が完全に消え去ったのを合図にセンカは重く口を開いた。呻きそうな喉を叱咤して放った声音は震え、細く大気を渡る。目線は俯き、揺れる白藍に映るのは朽ちた石畳。
「どうして、僕の事をレポートに書かなかったのですか?」
「何だ、やっとあいつら、中身を読んだのか」
 意外と遅かったな。互いの手を伸ばしても届かぬ先で、腰を下ろしたままのリンドウが暢気に微笑んで返す。声音の軽さは表ばかりだと分かったが、それでも、今のセンカの胸の内を更に乱すには十二分に足りた。
「答えて下さい!!貴方は何故、僕の事を書かなかったのですか!?」
 大気を裂く音は混乱と焦燥を隠せずに恰も悲鳴の如く。息を、吐いたのか、詰めたのか、或いは、器用に両方をやってのけたのか、分からない引き攣った声が二人の間を埋める。
 皆まで言わずとも、彼の事だ。こちら言いたい事など分かり切っているだろう。あえて、一から話す必要も無い。そもそも、彼と自分は幾度と無く、こんな会話をしてきたのだ。初めて会った日も、二人きりの任務に連れ出された日も、二人で同じ部屋に居た時も、この温室で過ごしていた時ですら。いつでもこんな会話をして、探り合って、けれど、一度も、刃を向け合った事だけは無かった。敵でもなく、味方でもなく。敵対と親愛の間で行き来する不安定な関係。だが、だからこそ、彼は私情を挟まないと、何処かで信じていた。「その日」が来る時には、戸惑う者達の先陣を切って、刃を振り翳してくれるだろうと、怖れながら期待もしていた。
 それが、どうだ。彼はとうの昔に陰に構えた鋭利な光を鞘に仕舞ってしまっていたなんて。
 唇を噛み、慟哭したセンカは、だから、冷え始めた微風に燐光を散らす銀色を眺めるリンドウの麹塵が刹那、抱いた痛みを見る事は無かった。
 さわわ。緑が歌う。
「…答えてやってもいいが、その前に、もっと近くに来てくれないか?」
「何を…」
「いいから。お前とは離れてると喧嘩ばっかりしちまうからな。ちっと冷えてきたし…丁度いいだろ?ほら、おいで」
 何時かのように、伸ばされる腕。甘いばかりの声色。低く、身体の奥に響き、擽る猛毒。顰めた顔を向けようと意にも介さない甘美な罠に誘われ、ふらり、爪先が道を辿る。一歩、一歩、進むにつれ、近くなる彼の気配。只管に甘い男の膝に、己の膝が触れるまで近づいたセンカはそこで歩みを止めた。惑いながら見下ろす白藍の視界に映る破れた外套の下、深い呼吸に上下する逞しい胸が見える。しなやかな、無駄の無い筋肉。微笑み、見上げてくる端整な面。綺麗な人。
 大して寒くも無いくせに、冷えてきた、などと嘘などついて、何をしたいのだろう。ぼんやり眼下の男を眺めていれば、徐に、伸ばされた無骨な手の温度が左手に触れて、銀色の肩は大げさな程に飛び上がった。寝起きの獣が動き出すような億劫な動作に刹那、慄き、咄嗟に振り払おうと力を込めた腕を、強く掴み止めた男が押さえ込む。そのまま手を引かれ、次いで、当たり前のように腕を絡められて――――気付けば、いつかと同じ、彼の膝の上。腕の中。夜風に冷えた無機質な身体を、熱く人間的な身体が包む。
 緩やかにきつく抱き締め、顔を伺おうと身を捩る小さな銀色の頭を包帯の取れない己の胸に埋めさせた男は、一つ、息を吐いた。
「せんぱ…」
「迷った」
 苦しげに呼ぶ鈴の音を遮る、硬い声。半ば早口で、早々に消えよとばかりに放たれた言葉が木々の漣に消える。
 過ぎる風より早い呟きを胸に落とし、理解したセンカは白藍を瞬いた。木の葉の囁きも煩わしい沈黙の中、低く殺した互いの吐息の合間を縫う如く響く鼓動は時計のそれより重々しい。やや早い彼のそれは、やはり緊張からだろうか。逞しい腕に捕らえられ、暖かな胸に頬を押し付けられたままでは頭上に煌いている筈の麹塵を見る事も叶わない。
「正直、迷った」
 もう一度、語る男の吐息が髪に触れ、センカは開こうとした口を閉じた。ふわふわと、燐光を放つ銀の毛先を撫でて、いつになく無機的なリンドウの声が風を縫う。
「支部長の身辺を探っている俺からすれば、あの人と繋がりのあるお前は危険人物だ。それは間違いない。いつ裏切るかも分からない。どの情報を相手に流しているかも分からない。何を見ているのか、何を見られているのか、警戒しない訳にはいかなかった。特にお前は元から不審な点が多かったからな。戦闘能力の観点からも警戒するなら早い方がいい。それも、徹底した警戒じゃないと意味が無い。どうみても手練のやり方で任務をこなすお前が見た目よりぼーっとしてないのは任務で確認済みだ。下手をすればこっちが殺される。アーク計画の件にしても、お前の事にしても、俺に何かあった場合、何とかして仲間に知らせなきゃならないと思った」
 当初、平然と慣れた手つきで任務をこなすセンカに疑念と警戒を抱かなかったかといえば、完全な否である。知らず恋情に焼かれながら、他方で警戒もしていた。彼もその警戒に気付いていただろう。だから、必要以上に近寄ってこなかった。寧ろ、逃げていたとさえ言えたかもしれない。現に、初任務以降、おつかい途中のセンカを捕まえるまで、二人きりの任務など一度も無かった。彼なりに一線以上のものを引いていたのだろう。今ならそう気付ける。同時に、攻撃的な接触以外の「何か」を避けようとしてたとも。その「何か」が何であるのか、流石にそこまでは分からないが、恐らく、彼がしきりに気にしている、己の成り立ちに関する何かだろう。
 その警戒が、一つ、形を変えたのは今更、言うまでもない、二人きりで出た任務での会話からだ。
 綺麗だと、思った。この銀色は、世界を愛でる心が、確かにあるのだと。的外れな質問に戸惑い、密かに己の危険を仄めかす彼の双眸は揺れていて、だから、「こちら側へ引き込める」と思った。そうすれば戦わずに済むかもしれないと、淡い期待も持った。外的な何かが無ければ、彼は敵にはならない。そんな確信。元より、必要でなければ自ら刃を振り翳していくような性格でもない彼だ。極端な話、アラガミ相手でも任務が無ければ態々、喧嘩を売りに行ったりはしなかっただろう。彼がアラガミを屠るのは、それが彼に命ぜられた命令であるからだ。
 小さな緑を愛しむ銀の白雪。警戒するより圧倒的な愛情が完全に勝ったのは、確かにあの瞬間であったと思い出す。守ってやりたいと思ったのは当初からだったが、あの時、淡い微笑を眺めて思ったものはそれより遥かに強かった。思い返せば、あの時に己の想い気付いても良いだろうに、全く、自分は何をしていたのか。気付くのは随分、後の事。
 脳裏に思い起こす過去から現在へと引き戻す水音を聞きながら、すりり、と擦り寄る柔らかな月色の香りを吸い、リンドウは深く息を吐く。
 己の想いを自覚すれど、現実は敵対の可能性を残す紙一重の関係。それが多少なりとも極秘の任務に支障をきたした事は否めない。無論、預けたレポートに残した通り、エイジスやアーク計画に関する事には抜かりも手抜きも無い。綿密に調査し、記述を残した。しかし、センカの話となれば別である。――――迷った。そう、迷ったのだ。最後の、最後まで。殊、シックザールとの関係を明確にした後は。
「仲間の安全を考えるならお前の事は書かなきゃならない。だが、俺個人としては、お前が裏切らないと信じている」
「ですが、それは」
「わかってる。俺の独り善がりだ。勿論、レポートに書いたさ。俺のお前への想いが、仲間を危険に晒す理由にはならない」
 固定観念も時と場合を間違えば身を滅ぼす。リンドウとて重々理解しているものだ。そもそも、客観的観点が不可欠である報告書に主観を用いるなど愚の骨頂である。ツバキが毎度、目尻を吊り上げ、眉間に皺を寄せ、且つ、口を酸っぱくして言うように、「私情は持ち込んではならない」。実弟であるリンドウにもよく仕込まれているその意識は、最早、性格の一部と化している。リンドウ自身、仲間を天秤にかけ、判断を間違うような愚かしい優しさを持つ男でもなかった。
 しかし、その感覚を用いるならば、リンドウは「センカ」の危険性と未確認の裏切りを記述しなければならない。どれ程、狂おしい想いが胸を焼こうと、どれ程、センカがシックザールとの関係に迷いを見せようと、大儀の前では下らぬもの。悲劇の可能性は零ではない。賭けるには不安要素が多すぎる。一の為に多数を犠牲にする理由にはならないのだ。
「…なんて、頑固に思ってたのは、お前が倒れた時までだったな」
 ぽつりと、少しばかり途方に暮れた響きを交えながら何とも無しに零して、直後、長く吐いた息と共に肩の力を抜いた男は落ち着きを取り戻した鼓動とは反対に銀色を閉じ込める腕の力を強めた。
 埋め、零れた漆黒に隠された麹塵はまだ見えない。
「お前が自分から泣きそうな顔で逆らえないと言ってきた時に、ああ、こいつは敵にならない、と確信した。勘と言えば、勘だな。だから、益々迷った。残すべきか、消すべきか。お前も見ただろうが、アレをサクヤの部屋に仕込むギリギリまで俺は悩んだ。お前の事を書かない事でどんな事態が起こり得るのか、想定の限りを描いた。だが、結局……わかるだろ?俺は一度、書いた記述を消した。締め切りの、寸前にな」
 あれが、最後の更新だった。幾度と無く書き加え、けれど、過去の事実を書き換えた事だけは無かったディスクを最後の最後に「書き換えた」。それが、最後の更新の真相だ。
 良く言えば、想い人を信じ、悪く言えば、欲に負けた。実際には、欲に負けた感の方が強いかもしれない。彼と戦わない未来を夢に見、共にある世界を望んだ末の行為を愚行と言わず何と言おう。
 きつく、きつく、呼吸すら閉じ込めるが如く、身に絡めてくる腕の中で僅かに身体を捩った銀色は途切れた低い声が消えるのを待ってから、そっと花弁を震わせた。
「……初めて、お会いした時、僕が貴方にどんな印象を抱いたか、ご存知ですか?」
 言いながら、ゆるゆると包帯に包まれた胸に触れる、白い手。
「貴方は、僕の事を知るべきではないと、思いました。知れば切っ先が鈍るのだろうと」
 完全な職業主義には程遠い。そう思った事が、最早、遠い昔の事のようだ。――――綺麗な人は、綺麗だからこそ、現実と情の間で頭を抱える事になるのだろうと。ぼんやり思った事が現実になる事をどれだけ恐れていたか。この人は知らないのだろう。
 心音に触れた胸を離れ、伸ばす手が、俯き、顔を隠す男の頬に触れる。細い指先で少しばかり伸びた漆黒の髪を除ければさらり、捉え損ねて白魚を撫でる闇の色。漸く、下から覗き込む事の叶った彼の顔は酷く疲れたように笑っていて、センカはいつに無く頼りない光を宿して揺らめく麹塵に淡く、辛うじて微笑みと呼べる顔で微笑んだ。
「愚かな人。最善を捨てて、可能性を取るなど、正気の沙汰ではありません。…ですが、それを罵るなら、僕もまた愚かなのでしょう」
 なんて、なんて、愚かな人だろう。けれど、彼を罵るならば、己も同類だ。自分も、彼の危険に気付きながら、彼を遠ざけ切れなかった。
 搾り出した声は、彼に伝わっただろうか。変わらぬ痛ましい笑みを浮かべたまま、滑らかな白い額に唇を寄せた男は静かに息を吐く。その無粋な筈の唇にすら、感じる戦慄き。引き攣る呼吸を閉じ込めるようにセンカは白藍を閉じ、視覚と引き換えに鋭利になった感覚で確かにそれを感じ取る。
 今更だ、と思う。今更だ。遅すぎた。全てが。遅すぎて、気付けば過ちを犯して辿った道は引き返せない所まで来ていた。知っていながら完全に彼を突き放せなかった事も、わかっていながら情に流された事も、最早、どうする事も出来ないのだ。
 大きな罪を犯した。――――彼と、自分と。二人で。
 再び降りる沈黙を破り、男の声が風と木々と、二人の吐息の音ばかりの温室に響く。
「でもな、信じたんだよ。俺は。…俺が愛してしまった烏羽センカを、信じたんだ」
 諦めたような低い声に、それが愚かだと言うのです、とついに言葉に出来なかったセンカは引き寄せられるまま埋めた胸の心音を聞きながら、銀髪に頬を摺り寄せるリンドウが、だって好きになっちまったんだ、と半ば開き直って呟くのを聞いた。

 その呟きを零した男の顔が、薄情にも酷く甘い微笑を浮かべていた事を、閉じ込められた銀色は欠片も知らないだろう。


-----

旦那VS嫁の回。嫁が大好きすぎてわざと大ポカやらかした旦那が嫁に怒られてしょんぼりどころか益々嫁大好きをハッスルさせています。
このシーンも当初から入れたいな、とぐりぐり構想を練っていたところだったので無事に入れられて満足です!時系列を追って伏線を張るのが大好きなのですが、GEってその辺、どうにも曖昧ですよね…と、当時の私は思っていたはず。何せ実際に書いたのは○年前!例の如く!
リンドウさんは公私の見分けがちゃんとできている人だとは思うのですが、それが的確に、冷静に、冷徹に実行できているかと言うと必ずしもそうではない人なんじゃないかと思っています。人情に厚すぎる、というか。ツバキさんもそうなのですが、建前の域を出られない見分けをしている、というか。それも優しさの一部分ですがね!
新型さんは、といえば、そんな旦那の感覚が理解できずに大混乱です。「職務怠慢じゃないの、あなた!」みたいな、そんな感じ。
でも結局は、完全に突き放せなかった自分の責任でもあるので、最後は旦那に絆されて沈黙です。そして、旦那はそんな嫁ににやにや(ぇ)

2013/05/07