とても容易い。けれど、難しい。
全ては弱さが支配している。
鋼一枚、指先は負けて
全く、何だというのだろう。コウタは焦りと怒りと不安を綯交ぜにしてラボラトリへの道を急ぐ。
全く、本当に、何だというのだろう。アナグラは今、大騒ぎだ。今し方、帰投した自分も概要を聞いて目玉が出た。――――センカが、あのセンカが昏倒したなんて。帰って早々、騒然とするエントランスで捕まえたブレンダンの話ではソーマに抱えられて出撃ゲートを潜ってきた彼は周囲のざわめきにも指先一つ動かさなかったという。大勢の注目を浴びて微動だにしないとは、あの神経質なセンカにしては珍しいというより異常だ。
一体、何があったというのか。思案するより先に思い至ったコウタは下唇を噛んだ。センカがそんじょそこらのアラガミに遅れを取るような人物ではないのはコウタが一番良く知っている。きっと任務の遂行自体に問題は無かった。問題はその後だ。何があった。どうしてそうなった。センカがああなってしまうのは恐らく精神的な物以外にはあり得ない。問題は見える場所ではなく、見えない場所に隠れているのだ。アリサがそうであったように、センカも。傷は治癒の手の届かぬ深い所で血を滲ませている。
外傷の類は全く見られなかったから大事無いだろう、とのたまったブレンダンに、喉元までせり上がった反論を飲み込んだ自分は偉かったと思う。
「……やっぱり、ショックだったのかな……そうだよな。ショックじゃなかった訳、ないよな…」
リンドウの死が確定して数日、注意して様子を伺っていたものの、センカに目立った変化は一つも無かった。あからさまに悲しむでも無し、任務を渋るでも無し。件の男の生死が明確になる事で心の整理を付けられたのか、それとも、リンドウの死を糧にする事を選んだのか、日々の仕草はあまりに普段通り過ぎた。毅然とした振る舞いに更に心を痛めた者も少なくない。だからだろうか、彼の前であえて心情を訊く事ははばかられて…何時しか、勝手に楽観視してしまっていたのかもしれない。それは、己の心に整理を付ける為でもあったのだろう。どちらにしろ、彼の心の内を蔑ろにした手前勝手な自己満足である事は確かだ。
誰もが「毅然としたセンカ」を見て己に整理をつけている。コウタ自身、その一人であるのは言うまでも無い。
事実、コウタの中でのリンドウの死は比較的完結されつつある。今では冷静に彼の人を思い出せるくらいだ。彼の言った事、教えられた事、忘れてはいけない事、全てが茶褐色の思い出として昇華されつつあった。皆も、大方、同じようなものだろう。
しかし、それはあくまで「センカの様を見て」齎されたものであり、「当のセンカがそうであるか」は全くの別問題だ。自分の感覚は他人の感覚とは成り得ない。重々に理解している言葉が、絶えず胸を刺す。結局は自分も彼を利用して安寧を得ているに過ぎない。だって、気付かないふりをしながら、それでも、見て見ぬふりを出来ない自分は知っているのだ。毅然として見える彼の背が、実はとても項垂れて見える事を。心細く、頼りなく見える事を。
最低だ。それ以外の言葉が思い浮かばない。つい最近、己へ向ける事になった二文字が身体の力を奪っていく。握りしめる拳。急いて半ば走りかけていた足が速度を落とし、やがて、歩みに変わった靴音は静かに止んだ。
俯いた視界に入る白いモルタルに反射する蛍光灯の光が矢鱈と眩しい。視界が滲むくらいには。
誰もが彼を盾にして安息を得ている。哀痛の沼に綺麗な銀色だけを沈めて、その上でいつものようにのうのうと笑っている。なんて不気味な光景だろう。なんておぞましい光景だろう。自分もその輪の中にいる事が、酷く気持ち悪くて仕方が無い。――――けれど、センカはそれすらも享受してしまうのだと、それも、自分は確かに知っている。リンドウを失った今、溺れそうな彼は誰の手も取らないだろう。ただ沈み行くだけの銀色。泥に塗れて静かに肩を落とし、全てを拒絶するように目を閉じる彼を誰が救ってやれるというのか。
俯く視界に入れる掌。指。その頼りないこと。この手をいくら伸ばそうと、触れるものはきっと彼の燐光の欠片ですらない。これまでも触れたと思えばそれはただの名残で、本当に触れられた事など一度も無かった。それでも、諦めの悪い自分は思うのだ。離れれば、離れていってしまうだけだから、それだけは、したくないと。彼の望みの通り離れてしまえば、彼は本当に独りになってしまう。それだけは、駄目だ。
ぐ、と握った手が白く色を変え、微かな光を取り戻す茶の双眸が前を見据える。ラボラトリまでは、あと少し。もう扉が見える。シオを連れての任務であったというから、センカの容態も含めて、サカキが最も事態を詳細に解しているに違いない。或いは、センカ自身、ラボラトリに収容されている可能性もあるだろう。フェンリルに所属する前はサカキと暮らしていたというから、あの部屋にはセンカの生活区たる奥の間がある筈だ。
突き進む歩みに迷いは無い。再び速度を増したコウタの足が目的の扉に辿り着くのに然程、時間はかからなかった。いつものように、一呼吸を入れ、在室の緑ランプを確認したコウタの指が開扉ボタンを押そうとした、刹那。
「待ちなさいと言っているだろう!?」
「何故ですか!?」
偵察任務で鍛えられた耳に、人の声が飛び込んだ。痺れた指がボタンを掠めて止まる。――――何事だろうか?ラボラトリでここまで声を荒げる事態など、あの精密機器で溢れる部屋ではあり得ないというのに、耳を澄ませば、鋼鉄の扉を貫いてまで聞こえてくる激昂が室内の緊迫と混乱を伝えてくる。行かせて下さい、許可出来ない、そんな応酬。ただの言い合いの域には収まらないような激しい口論が扉の向こうで繰り広げられている。おかしい。一体誰が。
衝撃をやり過ごし、突如、戻ってきた冷静さで声を分析したコウタは直後、硬直を解けないまま双眸だけを瞬かせた。
知っている。聞いた事がある。否、覚えがありすぎる。記憶の箱から探し出す名と顔。知らない訳がない。穏やかというには飄々とした知的な声音と、清流の如く静かで美しい、鈴の音。
「博士、と…センカ?」
嘘だろう。そんな事を思う。無理も無い。雰囲気が違いすぎる。息を潜め、聞く声はやはり彼等の声だが、しかし、今、鋼鉄の向こうから聞こえてくるそれは普段の彼等とは似ても似つかない。呆然と呟く間にも続く口論はまるで獣の吼え声の如く威嚇と牽制を響かせている。烈火を纏うのは、センカの方だろうか。それも珍しい。彼の怒りはとても静かな炎だ。それがこんなにも燃え盛っているなど、想像も出来ない。扉を経てすら怒気に震える大気は同じ空間ならば如何程のものだというのだろう。
思わず唾を飲むコウタの前でサカキの怒声を飲む咆哮が鋼鉄を振動させる。
「自分の状況を良く考えなさい!動ける状態じゃないだろう!?」
「放して下さい!!シオを、シオを連れ戻しに行…!」
「それは他に任せる!君は部屋に戻るんだ!」
がたがた、がしゃん、ぱりん。何かが倒れ、落ちる音が続き、瞬間、息を止めたコウタは肩を飛び上がらせた。今度は何が、起こった。多分、書類が落ちた。あとは、何かが割れる音。フラスコか、試験管か。激しい抵抗とそれを妨害する音が続く。
放してくれ、と抵抗する言葉が出るという事は暴れているのは、センカの方なのだろうか。シオを連れ戻す、と叫んでいるから、この事態はシオが原因なのかもしれない。連れ戻す、という事は彼女が現在、アナグラにいない事を指している。加えて、伝わる緊迫は彼女の不在が予期せぬ何かによって齎されたものである事も暗示していた。状況を簡潔に表現するならば、何処かへ行ってしまった彼女を探しに行こうとするセンカを、サカキが引き止めている。そんな所か。確かに好ましくない。
断片的な言葉だけで素早く状況にあたりをつけたコウタの双眸が鋭さを増し、瞬く。耳に飛び込む怒声の応酬は途切れない。それだけでも、この状況は異常である。
蒼穹の月の混乱の中でさえ沈着冷静であり続けたセンカは勿論、サカキまでもが此処まで冷静さを欠いているのを異常と言わず、何と言おうか。引き止めるか説き伏せるかにしても、常であればもっと上手くやってのけただろうそれを、彼等はどうして今になってこんなにも不器用に振舞っているのだろう。言葉を飲み合う口論は最早、会話になっているかどうかも怪しい。これでは互いが互いの主張をぶつけ合っているだけだ。叫ぶ内容が下品な罵詈雑言になっていない事だけが、唯一残る彼等らしい所だろう。
ぱりん。また一つ、何かが砕け散る音が聞こえ、再度、飛び上がった彼は途切れた思考を意識の彼方へ追いやった。そうだ。こんな思考に溺れている場合じゃない。
「…これってまずいよな…」
ただの親子喧嘩にしては少々激し過ぎる。もう何度、物の壊れる音を聞いただろう。止める者の無い空間で冷静さを欠いた者同士、何をし出すかわからない。温厚なセンカがそこまでするとは思わないが、万が一にも力に打って出れば、単なる怪我人どころでは済まない可能性もあるのだ。何せ、片や精密機器に齧りつく学者、片や恐らく現アナグラ最強の新型神機使い。筋力に差があるのは言うまでも無い。
止めなくては。割って入る覚悟を決めたコウタは、ぐ、と腕に力を入れ、躊躇う指先を再度、開扉ボタンへ近づけた。未だ、聞こえてくる怒声は次第に大きくなっているらしい。先より鋼鉄の振動が増している。止めるのは早い方がいいだろう。これ以上、事態を混沌とさせては選べる手段が少なくなってしまう。消耗した身体に鎮静剤だの何だの、薬の類は酷だ。
「大人しく…っ、言う事を聞きなさい!君の外出は許可出来ない!」
「シオを連れ戻しに行くんです!放して下さい!!」
「駄目だ!」
更に叫びが大きくなり、がしゃん。続く、また何かが壊れる音。湧き上がる焦りに焼かれつつ、一向に焦りに押される気配の無いとろい指先を叱咤しながら、漸く、冷たいボタンに爪先が触れて。
「どうしてですか!?僕が壊れているからですか?僕の修理が完了していないからですか?」
「何を馬鹿な事を言っているんだ!」
「それとも、僕が…僕が、」
最後の力を入れる――――前に、
「僕がアラガミだからですか!?」
「…………え?…」
時が止まった。己の周囲でだけ凍り付いた空気が、指先を冷やす。
何と、言ったのだろう。今。何と。駄目だ。理解出来ない。もう一度、否、駄目だ。聞きたくない。でも、嗚呼、何と、何と、言ったのだろう。「何という事」を、言ったのだろう。まさか。馬鹿な。嘘だ。違う。まさか。そう、信じられない。
断片的な単語だけが支離滅裂に脳を埋め尽くす意識の中へ追い討ちをかけるように鋭利な刃が投げ込まれてくる。
「僕がアラガミだから止めるのですか!?だったら、どうして…どうして、人間扱いなど…!初めから、そんな事…!」
「君は人だ!アラガミだという事が人扱いをしない理由にはならない!!落ち着いて私の話を…」
「シオを…兎に角、シオを探しに行かせて下さい!!」
アラガミ。人間扱い。それは、悲鳴にも似ていただろうか。吸い過ぎた息で呼吸を詰めた喉を、ひっ、ひっ、と奇妙に引き攣らせ、叫ぶ言葉はあまりに非現実的で、コウタはただ凍った。瞬きも、刹那の呼吸も忘れる極寒。瞬時に遠退いた激論の声は眩暈まで連れてきた耳鳴りに呑まれていく。――――アラガミ。人間扱い。もう一度、言葉を辿る。あれは、センカの声だ。センカが言った。間違いない。間違える筈が無い。アラガミ。人間扱い。「僕がアラガミだからですか」と、彼は確かに声高に叫んだ。「僕が」。シオでも、他の誰でもない、「僕」が「アラガミ」だと。サカキもそれを否定しなかった。
「僕」が「アラガミ」だから。つまりは、「センカ」が「アラガミ」だと。彼等は肯定した。
「…嘘、だ…」
ぽつ。己の影で翳る床に暗い囁きが落ちる。
「嘘だ」
嘘だ。嘘だ。嘘だ。だって、センカは人間だ。一緒の、フェンリルの、仲間だ。だから、世界に蔓延る不躾で下品で凶暴な人類の敵であるアラガミである訳が無い。嘘だ。あり得ない。一緒に食堂で食事をした時だって、アラガミのように大飯喰らいではなかったし、それどころか、小鳥にも負ける少食さで周囲を心配させたくらいで。嘘だ。嘘だ。センカはアラガミのように欲望に任せたりしない。優しくて、優しすぎるから誰よりも先に誰よりも酷く傷ついて、皆を守っている。笑う事が少ない代わりに怒る事も少なくて、偶に笑うととても綺麗で、偶に怒るととても怖い。嘘だ。大嘘だ。そんな事、ある訳が無い。センカは、センカは人間だ。人間以外のものである筈が無い。だって、彼は確かに人の形をしていて、話が出来て…嗚呼、そうだ。
否定の言葉を並べ立てて、脳内で捲し立てる彼は直後、表情を殺ぎ落としたまま、気付いてしまった己の言葉の穴に突き放されて数歩、よろけた。後退した踵が床を擦る。ボタンから離れる指先。もう触れる事は無い。
嗚呼、そう。そうだ。人の形をしていて、話が出来て。そう。――――シオもそうだった。アラガミの、シオも。
「……コウタ?そこで何してる」
突如、響いた他人の声にも、凍った肩は電流を受けなかった。或いは、麻痺した感覚がそれを無視したのか。背後からの一投を合図に急激に戻ってくる世界の音を耳元で巡る血流の音と共に受け止めたコウタはゆるゆると振り向いてから、強張った表情筋を漸く動かした。
「……ソー…マ……?」
揺れそうな視界で見る彼はフードを背に落とし、白金を安い光源の下に晒している。長い前髪の隙間から覗く青色が鋭く細まり、訝しげに見てくる様は縄張りへの侵入者を観察する狼のようだ。
ソーマ。ソーマだ。半分だけアラガミの、ソーマ。彼は知っていたのだろうか。だから、そんな顔で見てくるのか。だから、センカと仲が良かったのか。分からない。他には誰が知っているんだろう。そもそも、本当の事なのだろうか。どうして。どうして。分からない。頭の中が滅茶苦茶だ。兎に角、自分は此処にはいられない!
「コウタ?どうし…」
「ごめん!ちょっと、無理…!!」
「おい!?」
駆け出す先からぶつかる肩にも痛みは無い。あのソーマがよろけたくらいだ。相当な衝撃だったのだろうに、コウタにはぶつかったという衝撃の事実すら認識出来なかった。
真っ白の頭と緊張と絶望に上がる息と、壮絶な非物理の痛み。駄目だ。分からない。
弾かれたように身体を反し、瞬きの間も無く脇を抜けて走り去った穏やかな色を一間、遅れて目で追ったソーマの声が響く頃には茶色の姿は既に廊下の彼方。伸ばしかけた褐色の手が宙を彷徨う。忙しない足音が消え、じりりと蛍光灯が寿命を嘆けば、残された青いパーカーが奇妙な溜め息に沈んで、何だって言うんだ、と一人、ごちた。
サクヤとアリサもそうだが、此処に来て、コウタまでこの調子では心労が増えるばかりだ。間が悪いと言わざるを得ない。いなくなったというシオを探さねばならないというのに、肝心の隊員がこの調子。その上、彼女を連れ戻す鍵となるかもしれないセンカまでが病床に臥しているなど、運命も此処まで性根が悪いと反吐が出る。今となっては、使い物になるのは自分くらいの物だろう。頭脳専門のサカキはそもそも戦力外だ。
崖は迫っている。だが、進んで身を投げてやる程、自分も素直ではない。白旗一本で立ち向かう気概があるくらいには往生際が悪いと自覚している。
兎に角、何が起こったのか、シオの行方に見当はつくのか、あのいけ好かない中年に胸糞悪い伺いを立てに行かねばなるまい。
コウタが走り去った先から視線を外し、改めて目的の部屋を目指したソーマの足は、けれど、直に動きを止めた。――――聞こえる。何だ、これは。大気を揺るがせる悲痛な気配。鋭敏な聴覚が捉えるこの、声。
「センカっ!落ち着きなさい!!センカ!」
「放せっ!!放せぇぇえええええ!!」
ざわり。騒いだ警鐘が、コウタが開けなかった鋼鉄をソーマに開かせた。
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安定の貧乏くじピッカー、コウタお兄ちゃんの回。安定しすぎてて何とも言えませんね…流石、お兄ちゃんです。
ここで漸く全員(?)が「新型がアラガミかもしれない」という感覚を持つに至った訳ですが、まだ確信を持てていない範囲です。疑いの方が強い感じですね。その中でもコウタさんは直接、聞いてしまった分、衝撃が大きかったんじゃないかと思います。友人第一号の称号があるだけに更にというか。その部分で最早、貧乏くじ。
そんな貧乏くじばっかり引いてしまう人を書くのがとても楽しいです(オイ)
扉vsお兄ちゃんの次はラボラトリ親子vsソーマさん…の筈。
2013/08/19 |