「おい、何があった!?」
飛び込んだ先は修羅の戦場だった。
溺れる泉
ソーマが見た光景は恐らく、極東支部の歴史をいくら辿っても無い光景だろう。少なくとも、このラボラトリで物が散乱し、繊細な実験器具が滅茶苦茶に砕け散り、その混沌とした中心で取っ組み合っている部屋の主とその養子が、乱入者を許して尚、暴れている光景など、シックザールですら見た事はあるまい。
足の踏み場も無い程豪快にばら撒かれた書類は既に数枚が破り裂かれて落書き用紙にもならない紙屑と化している。床に叩きつけられた硝子器具が煌く破片を散らして無残な姿を晒している様には失笑も浮かばず、その奥に見える、暴れた拍子に引っ掛けられたらしい数本のコードが繋がれた本体と共に崩れている様には最早、目を覆う。あれはもう使い物にならないに違いない。酷い光景だ。サカキに背後から羽交い絞めにされながら喚き、もがくセンカの勢いは尋常ではない。押さえ込むのに必死なサカキも稀に見る苦悶の形相。扉に精密機器注意の貼り紙がべったりと貼り付けられてもおかしくは無いこの部屋でこれ程の乱闘が繰り広げられているとは。さしものソーマも双眼を見開く。
常識外れの常識知らず達と顔を合わせて十八年。些細な事では動じない筈の肝が飛び上がるこの光景は実に理解し難いものだった。こんなサカキも、こんなセンカも、見た事が無い。寧ろ、想像もしない。腕より弁が先に立つこの二人が暴力的な行動に走る――殴り合ってはいないものの、力のぶつけ合いには変わりない――など有り得ない事だ。何だこれは。脳裏で呟く。止まる足。固まる喉。茫然としたまま眺める光景の中、不意にこちらを向いた劣勢の学者の目が輝いた。
必死な眼鏡の向こうと視線が合った、と思うのが早かったか、彼が声を張り上げるのが早かったか。勢い良く飛び込んだは良いものの、あまりの光景に呆然と立ち竦むに留まるしかなかったソーマを、僅かに安堵の表情を浮かべたサカキの鬼気迫る呼び声が現実に引き戻す。
「ソーマ!?良い所に…!この子を何とかしてくれ!」
私では手に追えない!語調を強めるに留められない声音は最早、やけくその絶叫だ。だが、形振りを構っていられる程、サカキも悠長には構えてはいられなかった。
徐々に強くなる抵抗の力。ずるずると前進する痩身。大きくなる滅茶苦茶な詰問とシオを呼ぶ声。もう耳が壊れそうだ。腕も抜けるかもしれない。そもそも、モニターとキーボードに齧りついているのが専らの自分が力仕事を出来る訳がないのだ。情けない話だが腕相撲だってセンカが相手なら一分も持たない自信がある。此処までよくも頑張ったものだと褒めて貰いたい位だ。問題はその褒めてくれる相手が今、恐慌の最中にあるという事だろう。これは予想外だったと言わざるを得ない。
予想以上にシオを気にかけていた証か、それとも、リンドウを失った反動が今になってやってきたのか。瞳孔を開かせて暴れるセンカにはいくら言葉を投げようと全てが虚しく虚空に溶けるばかり。届くものなど一つも無い。
ぐ、と前へ引かれた腕を、床に確とつけた足に力を入れて引き戻し、更に引き戻すべく呼吸を詰めたサカキは不意に軽くなった抵抗の先に、銀色を前から抑える海色を見た。――――ソーマだ。ぼんやり突っ立っていたから不安だったが、漸く、現実に戻ってきてくれたらしい。助かる。不測の事態の「最善」の光だ。思いながら、学者は密かに己を嘲った。この期に及んで、駆けつけた人物が多少なりとも事態の本筋を知る人物である事を喜ぶなど、打算も過ぎる。
「放せぇええええ!僕がアラガミだからっ、だから止めているんでしょう!?だからシオを探しに行かせないんでしょう!?ふざけるな!シオを…探しに行かないといけないんです!!放して…放…放せっ!放、せぇえっ!!」
ソーマの力に二、三歩押し戻されたセンカが更に叫ぶ音量を上げ、身体に力を込めれば、慌てて思考を切り上げて歪むサカキの顔。考えている場合ではない。ずりり、引き摺られる足。また半歩、前進。それをソーマが押し留める。
「おい!しっかり、人の話を…くっ、そ…このっ…大人しくしてろ!」
薄い検査着に包まれ、常よりも弱々しく見えるこの痩身の何処にこんな馬鹿力が隠されていたというのだろう。常人とは一線を画すソーマでさえ気を抜けば振りほどかれそうな腕は入れすぎた力に強張り、床を蹴って駆け出さんとする脚は相反する力に押されて痙攣している。食い縛った歯の犬歯が口端から覗く様はまるで獣が威嚇するようだ。僅かな正気と押し寄せる恐慌との間で揺らめく危うい対抗心にぎらぎらと光る白藍の双眸が挑むように阻む者達を見据えている。常では見られないその煌き。感情の光。乱れる銀糸と、汗で白皙に貼り付く首筋の幾筋か。散り、漂い、肌に触れて消える燐光。興奮に上気した頬に、妖艶な唇の赤さ。
食い殺されそうだ。ぞくりとする美しさにそう思ったのはソーマだけではあるまい。思わず鳴った喉が僅かに上下する。直後、する、と解きかけた手に、彼は慌てて力を入れ直した。
さて、どうするか。まさか彼の力が尽きるまでこのまま押し問答を続けていられる訳も無い。そろそろ彼の後ろの中年が限界だ。かといって、援護を呼ぶような余裕は無い。少し力を緩めた瞬間にも隙を突いて抜け出そうとするような、そういう部分の頭だけはしっかり働いているセンカだ。端末を手に取ろうとしようものなら、すぐさまこの手を振りほどいて検査着のまま、武器も持たずに飛び出すに違いない。
昨日、抱いた不吉な予感が見事に再現されている現実がソーマに舌を打たせる。くそったれ。言葉は食い縛った歯の、その奥で洩らされた。
「おっさん!何とかしろ!」
「やれるなら、やっているよ!!君こそ、何とかしてくれ!」
滅茶苦茶な言い分である事は互いに重々承知しているだろうに、それでも言い合うのは実際、どちらもお手上げだという事に相違無い。その間にも床を擦る足が焦りを助長して、彼等はいよいよ青褪めた。このまま外へ出せばセンカの異常さとシオの存在が公になるのは必死。それがセンカにとっても、サカキにとっても、好ましくないのは言うまでも無い。よしんば、センカがアラガミである事までは公にならずとも、常人ではあり得ない異常さとそれと関連するシオとの関係が怪しまれるのは確実だろう。綻びは疑心を生む要因だ。不安定なセンカの立場が今より一層、危うくなる。
何とか。そう、何とかして彼を止めなくては。もう、彼が留まってくれれば何でも構わない。思ったのは、どちらが先だったか。話が通じないのは百も承知でサカキは再度、大きく声を上げた。
「ああ、もう!センカ!今の君は戦力にならない!シオを探すのはソーマ達に任せて君は部屋に戻るんだ!!」
「シオっ、シオを探さないと…シオっ!!」
噛み合わない会話には最早、何も言うまい。構わず名を呼ぶ声は子を探す母のようだ。そんな愚かな思考が過ぎったのは先日の話題の所為だったのだろうか。言い得て妙だと思った記憶が蘇る。切ない叫び。悲痛な呼び声。一心に捜し求める眼差し。子を見失った母が愛しい影を追い求める姿。だが――――違う。
「勘違いもいい加減にしなさい!!君は、」
瞬間、嗚呼、言ってはいけないと、何処かで冷静な自分が叫んだ気がしたというのに、その時ばかりはサカキも我を失うくらいには焦っていた。余裕という余裕が、全て失われていた。安易な手法は鋭利な刃。銀の弾丸。分かっていながら息を吸う。突きつければ、この子は留まる代わりに、きっと崩れてしまうだろう。一度、呼吸で切った言葉は、躊躇いの表れと理性が刹那、勝った瞬間であったかもしれない。それでもそれは、刹那の、僅かな間の勝利に過ぎなかった。
それがやけに大きく響いた気がしたのは、錯覚だっただろうか。
「君はあの子の母親ではないんだ!!」
ぴたり。――――抵抗が、止んだ。引き攣って止まった荒い呼吸が静かなそれに変わり、次いで、力の抜けていく、肩、腕、脚。そのまま、ずるずると彼等の手を離れて破れた紙の海に座り込む銀色の、牙を収めた唇が呆然と呟く。
小さく、小さく、秘め事を明かすように。小さく、小さく、霞のように。小さく、小さく、掠れた声で。
「……ははおや……」
ぼんやりと、虚空と俯いた視界に映る床を眺める白藍。その虚ろな洞。
「…ははおや……ぼく、は……そんな…こと…」
コウタやサクヤ達に母親のようだと言われた事はある。けれど、それは母親「のようだ」というだけで、母親ではなくて、自分もそう思った事は一度も無かった筈で、そもそも、そう思う事自体がとても浅ましく、おこがましいもので、あってはならない感情の筈だ。それが、どうして、当たり前の事を指摘されるだけの事が何故、今、こんなにも穿たれたような感覚を齎しているのだろう。
そんな事はあってはならないと思いながら、己の奥底の何かがもがき、喘ぐ感覚に、センカは持ち上げた己の手を眺めた。
人間の形をした、手。人間の形をした、自分。人間の言葉を喋る、自分。だというのに、絶対的に人間ではあり得ない、自分。アラガミで、でも、アラガミであるシオとも違う自分。けれども、シオはとても懐いてくれて、まるで、母子のようだと言われるくらいには近くにいて、自分でも、恐らく、悪い気はしていなくて、でも、なのに。
「ははおやでは、ない」
違う。どれも、違う。どれにもなれない。それならば、
「ぼくは、」
何。言う前に、何かが口元を塞ぎ、嗅いだ事のあるそれが睡眠作用のある薬品であると判ずる前に、センカは床に崩れた。霞む意識の中、覚えているのは、歪む視界の中で覗き込んできたサカキがらしくもなく酷く心配そうな顔をしていた事と、疲れたように座り込んだソーマが顔を顰めていた事くらいで、その表情が何を思ってのものであったのか分からないまま、彼の意識は闇に飲まれて沈んでしまった。
混沌とした闇の中では頬をつけた床の冷たさも感じる事は無い。青褪めた頬に触れる指にも、気付かないまま。寝息は眠り姫の、それのように。
静けさを取り戻した室内に重い溜め息が落ちる。――サカキだ。
「何とか、なったね…」
まあ、無傷とは言い難いけれど。白藍を閉じたセンカの頬に触れて体温を確認しながら、自嘲か事実確認か、定かではない微妙な皮肉を小さく零す学者の食えない横顔を眺めて、床に尻をつけたソーマは突き放すように息を吐いた。
「ハッ…無傷どころか満身創痍の間違いだろ」
皮肉も此処まで来ると負け惜しみにしかならない。洩れるものも疲れ切った嘲笑だけだ。それも滑稽な負け犬の鼻息のよう。二人がかりでかかって、説得も出来ず、最後は薬品頼みとは。荒れ放題の室内は勿論、新たに刻まれた見えない傷まで含めれば、これは完璧な敗北に違いない。もっとも、見えない傷を負ったのは冷えた床に横たわるセンカだけだが。
苦々しくそう語るソーマに返す言葉も無いサカキはただ、笑って返した。
母親のようだが、母親ではないセンカ。シオに対して、随分と深い愛情を見せていたように思っていたが、よもや、こんな所で強い母性を発揮してくれようとは思いもしなかったと、部屋の惨状を一通り眺める学者は密かに息をつく。身体の構造上、母性を抱き易い子である事は可能性の知識として認識していたものの、この十六年、そういった素振りは一度も見せた事が無かったから、例え、シオがいなくなったとしても左右される事は無いだろうと少しばかり油断しすぎていたのかもしれない。否、ただ、己の欲求のままに「観察」していただけだったのか。シオやレンギョウに母性を以って接する彼が「最も好ましくない事態」に直面した時に、一体、どのような反応を見せるのか、知りたかっただけだったという鬼畜な説もある。何にしろ、人でなしの思考には違い無い。結局は自分も彼を傷つける事しか出来ない人種なのだろう。
寒々しい検査着の、冷えてきた細い肩に触れ、頬に薄い影を落とす髪を払ってやる仕草すら嘘くさく偽善染みていて、己を嘲笑うしかない男の口元が微かに歪む。この指さえも彼の肌を容易に傷つける刃を操る凶器だ。彼の傷に片手で包帯を巻きながら、もう片方の手に握ったメスを彼の白雪の肌に潜り込ませて抉っている。鼻で笑い、そうして、また一つ、吐息で嗤い、離す指。
疲労が勝っているからか、座り込んだソーマが何かを言ってくる様子は無いが、父親に似て目で語る彼の海色は鋭く槍を構えて向かっている。そろそろ語らぬ者に唸りを上げ始める頃だろう。頃合だ。
「さて、このまま此処に寝かせておく訳にもいかないね。…はぁ…この後、私もヨハンの所へ行かなくてはならないというのに…腕ががくがくだよ……ソーマ、奥に彼の部屋があるから、そこへ運ぶのを手伝ってくれるかい?話はそれからだ」
徐に立ち上がった学者が己の懐から私室へ続く廊下へのカードキーを取り出す手を眺めつつ、舌を一つ打ってから、白雪を抱えて立ち上がった孤狼は嘲るように鼻で笑った。
「ふん…あんたらしい釣り方だな」
「お褒めに預かり光栄だよ」
暖簾に腕押し。手酷い皮肉にも表面ばかり穏やかに微笑んで返す学者は、全く、食えないより小賢しい。拒むには惜し過ぎる餌をぶら下げてこちらを意のままに操る手管は苦虫を噛みながらも、真、感心する。こんなにもいけ好かない操られ方もそうそう無いだろう。だが、断るには分が悪過ぎる。
何故、何処へ搬送されたのかも分からない筈のセンカが此処にいるのか。何故、あんなにも恐慌状態にあったのか。母親ではない、とは何なのか。何故、それ程までに動揺する必要があったのか。何故、あんなにもシオを追い求めていたのか。あれは単にいなくなった仲間を探すだけには留まらない勢いだった。そもそもシオは何処へ行ったのか。何故、いなくなったのか。何故。何故。訊きたい事は腐る程ある。疑問は湧き出す水のようだ。尽きる事なく湧き出して、昇華しきれないそれはやがて大きな溜まりになり、過ぎれば、溺れて窒息してしまう。水嵩を下げるには疑問を解決するしか道は無く、けれど、それは口に出す事がとても難しくて、水嵩は増すばかり。少しの勇気で一瞬、大気を震わせればいいだけの行為がこんなにも難しい。考える間にも、水嵩は増している。
無様だ。不意に呟き、ふと先に廊下の向こうへ走り消えたコウタを思い出したソーマは、がくりと白い喉を晒して垂れたセンカの頭を己の胸に凭れさせるように抱え直して奥の間への敷居を跨ぐサカキの後を追った。――――叫びを、思い出す。僕がアラガミだから止めるのでしょう、と、叫んだ彼の罅割れた音。きっとコウタはそれを聞いてしまったのだろう。
そうして、誰もが溺れる泉の中にいるのだ。
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貧乏くじピッカー2号、ソーマさんが親子喧嘩の場にがっつり遭遇してしまった図。本当、当家のソーマさんとコウタさんは貧乏くじを引くのが上手いようです。確率の高さハンパない。
今度こそは博士も新型の本気にビビリ気味でしたが、助っ人ソーマさんのおかげで難を逃れております。
が、それはひとまずおいておいて、一応、ここで強調したかったのは新型のシオに対する異常な思いであったりします。
母体になれる性質を持つ当家の新型なので、抱いている思いはどちらかといえば、父性より母性。なので、子供を奪われたお母さん的な意識で目覚めたのですが、その勘違い甚だしいところを博士がぶち壊してくれました。ドカンと一発博士無双ハンマー。
そんなこんなで、新型は再び床の人。とばっちり食ったソーマさんは何となくコウタさんにも何があったか気づきながら、更に貧乏くじを引きます。
2013/10/20 |