反吐の出る理由だと知っている。だけど、それが事実である事も知っている。
そして、それを語る自分が最も反吐が出ると知っている。
価値の意味
簡素なベッドと傍らのチェスト。半分ほど空の書棚。パイプ脚の書机。ベッド脇の丸椅子。サカキの背を追い、程無く辿り着いた部屋は先のラボラトリと比べて殺風景にも過ぎる景観だった。端的に表すなら、物がない。そんな印象だ。先に挙げた点在する家具もただそこに在るだけの意味の無い備品のようで、生活感という生活感は欠片も感じられなかった。人がいた、という気配すら無いのだから、辛うじてベッドのシーツが乱れていなければそこはただの物置のようであったかもしれない。
奇妙な空間だと思う。此処に至るまでに通る廊下で過ぎた部屋は三つ。四つ目がこの部屋であったから、三つの内、少なくとも一つはサカキの私室で間違いないだろう。
ラボラトリから先にこんな区域があるなど、このアナグラの誰も知らない筈だ。長い事からかわれて来た――サカキにとっては心外な表現だが、ソーマにとっては間違いなくからかわれた歴史だ――自分が初見だというのに他の誰かが知り得る訳が無い。或いは、シックザールならば心得ているかもしれないが、そうだとするならばアーコロジーの私物化が黙認されている事になる。
それはそれで問題だ。思いながら、室内と廊下の狭間に佇むソーマは抱えた銀色の頭を支え直した。眼前には灯りの落とされた暗い部屋が光を吸い込む如く薄闇を漂わせて銀色を待っている。唯一の光源は開け放したままの戸口から差し込む廊下からの光だけだ。闇を押し退けるそれが長く伸びた先で、彼の養父が、ああ、少し彼の部屋から着替えを持ってきてあげないと駄目だね。ソーマ、此処の鍵を預けるから後で持ってきてあげてくれるかい?などとのたまいながら乱れた褥を申し訳程度に直している。ちらり、横目で見る扉の鍵は、外鍵。
「…此処は?」
私室なら内鍵であってしかるべきだろう。言外の疑念は確かに聡い学者に伝わったらしい。
首すら向けないサカキの、あくまで朗らかな声がシーツの皺を伸ばす手を休める事無く答える。
「センカの私室だよ。まるで檻のようだけれどね」
何とも無しに言い放ち、静まり返る室内の闇に慣れ始めた目で冷えた褥を眺めた学者は、ぱふ、と枕を具合の良さそうな位置に置いて内心、唾を吐いた。
此処は檻。もう一度、言葉を辿る。此処は、檻だ。度重なる研究と実験の末に生み出された綺麗な蝶を閉じ込めておく、私室という外面ばかりが良い名を冠した冷たい檻。鉄格子ではないだけの、部屋という形を辛うじて取っているこの檻には勿論、檻らしく退室の自由は無い。生活を管理され、行動を逐一、記録され、外を知るのは実験か測定、特殊任務の数時間程度。部屋の天井隅に設置された監視カメラから得た記録はもう数百のディスクになる。――――私室だなどと、よくも言えるものだ。我ながら、冗談にも出来が悪過ぎる。溜め息は洩れない。
しかし、これでも良くなった方だ。この前の環境こそ監獄と言って差し支えない環境であっただろう。此処までの自由を許すとは、進歩も進歩。ヨハネスも大分譲歩してくれたとサカキは薄れぬ記憶を思う。だが、思うだけで、口には出さない。アーク計画を阻止するにも、シオを守るにも、彼等には必要の無い情報だ。おいそれと語れるような話でもない。話したとして、意外に常識を重んじるソーマはいくらぼかして語ろうと、間違いなく盛大に顔を顰めて悪態吐いてみせるだろう。
この期に及んで逃げは打てないとはいえ、全ては語れない。語れるのはこの部屋から後の記憶だ。それより前は、この脳の片隅だけにあればいい。
意味も無く再度、シーツに滑らせた手が消す、幾つかの皺。衣擦れと沈黙。
「気になるかな?」
「絞れば吐くか」
「それは怖いね」
絞られたくないから吐くしかなさそうだ。剥かれた牙にわざとらしくおどけて肩を竦める学者が道を開ければ、整った褥に近付いた青いパーカーがそっと弛緩した銀色の身体をシーツに乗せる。スプリングは鳴らない。音も無く散る燐光。海原の色が薄闇にも光る白金の下で険しく細まる。――――軽い。まるで魂の重みが消えたようだ。思い、馬鹿な、と長い瞬きに目を閉じたソーマは僅かに首を振った。無骨な手が掛け布を引っ張り、乱暴にかぶせて、離れる。
振り切るように褥を離れた長身が、距離を取りきれずに陣取ったチェスト横の壁際で腕を組むと同時に降りたのは静寂。破ったのは学者だ。
「…この子がどうしてこんな扱いを受けているか、君にはわかるかい?」
ソーマと入れ替わりに銀色に近付いたサカキの手が擦れた目元の銀糸をさらりと除ける。
時計すら無い部屋では僅かな沈黙の間を埋める微かな音さえも無い。物置以下の部屋。完璧に個を殺した箱の中では、申し訳程度に本が立ててある書棚も主の性格を語らない。或いは、それが「彼」の個であるのか。室内を見渡すだけのソーマには分からなかった。
とんとん。居心地悪く組んだ腕を褐色の指が二度叩く。
「……アラガミだからか」
言ってから、彼は酷い後悔と羞恥に小さく舌を打ってセンカの頬を撫でる男の背から視線を逸らした。これは無い。自分で思う。いくらなんでも、もう少し考えられるだろうに。これではまるで覚えた事を辿る幼児だ。しかも、腹立たしい事に、思わず浮かべた憮然とした表情はこちらに背を向けている筈の学者にもどうやら、ばれてしまったらしい。
静か過ぎる部屋には大層良く響く舌打ちを聞いたサカキは少し息を噴出して、それから、慌てる様子も無く呼吸を整えた。
「半分正解で、半分不正解だ」
諦めたように綴るサカキは、惜しかったね、と大して残念でもなさそうに言い、丸椅子を手繰り寄せて腰掛けながら続けて息を吸う。
「研究者の立場から言うとね、君とこの子の価値の意味は全く違う」
「価値の、意味?」
背後で紡がれる低音はしかめっ面の怪訝な眼差しもお供にしているだろう。背を向けていても分かるのは彼が存外、分かりやすい性格をしているからと、それだけ、自分と彼が関わった年月が長いからだ。――――ソーマは此処に眠る銀色と、二年しか違わない。二年しか違わないというのに、自分は眠るこの子をまだ理解し切れていない。
ぽつり。落ちる、重い鉛。
「そう、意味だ。存在の価値。その意味だよ」
アラガミの細胞を受け継ぐ者でありながら人並みの生活を約束されていたソーマにしてみれば、ほぼ同じ境遇である筈のセンカがこうも己と違う環境に置かれている事は理解し難い事だろうが、厳密に、純粋な研究者の立場からすればソーマとセンカの意味は全く違うとサカキは断言出来た。
研究者として見るソーマの価値とは「歴史上、初めてアラガミの遺伝子を持ちながら人間として生まれた存在である事」だ。マーナガルム計画最初にして最後の被検体であるアイーシャ・ゴーシュがその命を賭して産み落としたソーマは計画唯一の成功例であり、計画が凍結された今となっては学術的にも技術的にも途方も無い価値がある。しかし、穿った見方をすれば、彼はそれだけだ。「実験の成功例」としての価値があり、けれど、それ以上でも、以下でもない。それ以上、進化する訳ではなく、退化する訳でもない。生れ落ち、人間と同じ速度で成長し、人間より多少、感覚が鋭敏、且つ、筋力の発達が目覚しいだけの、ただの人間だ。
天井の見える価値。それがソーマの価値である。
だが、対するセンカは違う。ソーマの価値が天井のあるものならば、センカのそれは青天井。
「この子は君とは違う。…子供が産めるからね」
背後で、ソーマが小さく息を呑んだ気配を、振り向かない学者は確かに感じ取った。――――無理も無い。非現実的だ。でも、現実だ。事実だ。温度の低くなってしまった青白い頬を撫でる手を滑らせ、静かな下腹部に触れる。
「此処にね、子供を孕めるんだ。妊娠できるんだよ、この子は。だから、君とは全く存在の価値の意味が違う。男性体に見えても、ちゃんと産めるんだよ。受胎すると育むのに適した身体に、一時的に作り変わるんだ。……尤も、受胎した所を見た事があるだけで、産む所は見た事が無いけれどね」
寧ろ、産まれていたら問題だった。シックザールも彼に此処までの自由を許しはしなかっただろう。手足を縛り、寝台に固定し、受胎と出産を繰り返させていたに違いない。思う程、寒気の走る想像だ。想像の域に留まっているのが酷く喜ばしいと思う。それは僥倖だ。センカにとって。そして、自分にとって。
脳裏に思い起こした映像の、その血生臭さまでもが鼻腔に満ちて、サカキは目を閉じた。
フェンリルの履歴には間違っても記載出来ないセンカの価値が「これ」だ。「新たな進化した検体を提供出来るアラガミの母体」。或いは「未だ進化する実験体」。未知の可能性に満ちたそれは手放せない玩具に似て研究者達の心を躍り狂わせている。勿論、その好奇心に順ずる行いが道徳どころか人道にも反するものであるのは言うまでも無い。虐げるにもこれ程のものは他にないだろう。幾度と無く受胎した身体が幾度と無く通常の状態へ戻るのを見て来たが、その残酷なおぞましさと言ったら無かった。
その度に思ったものだ。自分は彼等と同じではない、と。それが無責任な責任転嫁であったのも自覚している。だというのに、嫌悪していた筈の自分は綺麗な銀色の燐光を眺めながら思うのだ。彼はこれからどんなものを「産み」出すのだろうと。
滔々と語る彼は内心で反吐を吐きながら、呼吸を詰めたままの青年の気配を探った。息を吐き、吸い、再度、口を開き、思う。まだ、話は聞けるだろうか。響くのは抑揚の無い学者の声。
「君はおかしいとは思わなかったかい?レンギョウにしても、シオにしても、他人にあまり興味を示さないセンカがあそこまで気にかけるなんて。あれは父性じゃない。確かな母性だよ。この子の、母体としての本能だった」
生体機能としての母性が感情にまで影響を及ぼすとは可能性にも加えていなかったけれど。言外に弾き出す論評染みた一節を苦く胸中で辿るサカキもこれは意外であったと言わざるを得ない。仲間意識の現われだと思っていたものがよもや、母性であったとは。全く、予想外だった。目覚めるならば、母性よりリンドウが向けてくる想いに呼応する恋情が先であると思っていたのに、彼は仲間意識とは違う愛情を理解するより早く子を想う情を理解してしまったのだ。
サカキがそれに気付いたのは遅いにも程がある、つい先程の事である。シオの行方を問うて来たセンカの眼差しに、その口調に、戦慄した。緊迫と脅迫が混じった低い、けれど、酷く静かな、冷静な響き。直感で、嗚呼、これは危ない、と思う傍ら、脳の裏側でけたたましく鳴り響いた警鐘の余韻は、まだ痺れとなって頭の隅に残っている。危険であると、どうして気付かなかったのか。悔やむばかりも意味は無い。
「完璧な私のミスだ。これでヨハネスもシオの存在に気付いてしまっただろう。エイジスとセンカを使ってシオの存在を探り当てた。私達の探すものが彼女である事くらい、君も気づいているだろう?いなくなった彼女を一刻も早く連れ戻さなければならない」
早速、ソーマを含めた特務遂行可能な階位の神機使いが支部長室に呼び出されたとの報は既に得ている。支部長御自らが改めて、直接、特異点回収の特務を言い渡したのだろう。救いは未だ、詳細な居場所が知れていない事だが、それはこちらも同じだ。
不利なのは言うまでも無い。自分達は鬼ごっことかくれんぼを一度に行わなければならない状況に追い込まれてしまった。
選択は刹那。そして、それは決まり切っている。
「行ってくれるね?」
如何の声が終わるか否か。預けていた壁から背を離し、踵を返したのは「歴史上、初めてアラガミの遺伝子を持ちながら人間として生まれた存在」。
「…勘違いするな。あんたの命令で動くんじゃない。これは俺の意志と、」
言いながら、ちらり、振り返る海原が見る銀色が酷くやつれて見えて、彼は直に光が差し込む戸口を眺めた。眩しい。――――そうだ。これは自分の為と、
「そいつの為だ」
去る背中に、此処の鍵はラボラトリの一番右の、上から二番目の引き出しの奥だよ、と振り向かないままの学者が小さく囁いた。
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貧乏くじピッカー2号ソーマ強襲兵曹長の貧乏くじタイム(何)
博士が色々爆弾発言をしておりますが、ストレートに言うと、「この子、妊娠できる上に、妊娠してる最中は女体化するんだよ。てへぺろっ」と、まあ、こんな所です。ライトに表現してみましたが、ライトになりきれてないのは私も分かってる。ええ、分かっていますとも!好き嫌い分かれる設定だって分かってる!(…)
で。そういう意味でもソーマさんと新型の価値の意味は違うんだよ、という研究者の立場からのお話が今回でした。
博士的にはまだ新型を研究者の立場から見ている方なので今回の事は「珍しい現象。要観察」と認識しています。イレギュラーが興味を誘った形ですね。勿論、そうなりきれていない部分もありますが、まだまだ新型を「研究対象」としています。対するソーマさんは純粋に新型を「人」として見ているのでその表現に違和感と嫌悪感を感じている感じです。だから腹も立つ、というか…。
お互い、難しい心境です。
さて、アナグラはどんどん薄暗いモードに突入していきますよー。
2013/12/19 |