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 知らないふりなんか出来なくて。

微笑の盾

 肺に取り込む大気のひとかけらすら身に溶かせない。考える事が恐ろしいと思ったのはいつぶりだろう。がちがち震えそうな手が、何時かの時のようだとコウタは飛び込んだ自室で床の一点だけを只管見詰めながら、思う。ラボラトリから逃げ出して数十分は経っているだろうか。凍りついたままの思考。呆然と扉に背を預け、佇む足。だが、その硬直の意味はあの時とは全く別の物だ。
 遠くに感じる、かちこちと、無機質な秒針が世界の進みを伝える音。もうどれくらいそれを聞いているのか考えられもしない。そうして些細な事にも頭を働かせること無く、微かな足音を聞き続けている。
 無駄な、時間だ。自覚している。無為に時を浪費するだけのこの状態が好ましいとは言えないと、コウタ自身、確かに理解していた。考えなくては。思えど、鈍い頭は衝撃を紐解く事を嫌がり、進む世界に置いて行かれるまま。人が持つ最低限の能力を放棄したコウタは傍から見れば或いは電気の切れた人形のようであったかもしれない。
 無防備と言うには荒廃した気配。明るい筈の部屋で、じりり、蛍光灯が脳裏を焼く。
 思考する事。それは人間が生きる上で不可欠な能力であり、行動である。――――幼子であれ、何であれ、欺き、欺かれるが常のこの人間社会というものは単純な動物的本能だけで生きるには酷く難しい世界だ。その世界で、個々の差があるにしろ、皆に備わるそれは最低限の危機管理能力であるとさえ言えるかもしれない。如何なる時も、如何に些細な事でも思考し、相手を探り、欺く手をすり抜け、己の保身の為に刃を返す。その繰り返しが人間という生物が形作る社会の形だ。そこに老い若いは関係無い。切羽が詰まる程その傾向は顕著になる。常に増幅し続ける疑心を抱える生き物は安寧を得る為に貪欲にならざるを得ないのだ。そうしてまた、思考し、誰を犠牲にすれば己が水面から顔を出していられるのかを必死に模索している。如何に己が生き残るか。如何に安息を得るか。如何に己の地位を守るか。その答えが全て思考した末に導き出されたものであるのは言うまでもない。
 結論として、思考とは人間が生きる上で不可欠な能力であり、行動である。
 けれど。そう、けれど、と彼は思うのだ。何時、如何なる時も己にとって正しい答えを求める為に思考を止める事の無い人間という生き物が、思考する事によって大切なものを失う事になる時、果たしてそれは「己にとって正しい行い」たり得るのか、と。
 思い出すのは、つい先程、逃げ出してきたラボラトリでのやりとりだ。ただ鋼鉄の扉の情景としてしか思い出せないそれを無理矢理動かす鈍い頭で漸く辿る。何度も、何度も。辿り、けれど、凍えた意識に春は来ない。またも止まろうとする思考に焦る気が呼吸を早め、荒い息と共に汗が頬を伝う。
「嘘だろ…」
 揺れる水面の如く震える声音。響く意識の声にコウタの手が戦慄く己の口元を塞ぐ。
「嘘だろ…センカが、アラガミなんて…」
 嘘だ。嘘だ。嘘に違いない。性質の悪い冗談だ。そうだ。きっと、絶対。絶対に。思いながら、引き攣る喉で息を吸い、きつく閉じた目蓋の奥で、コウタは再度、あの叫びを聞いた。現実を突きつける声。――――僕がアラガミだからですか。僕がアラガミだから止めるのですか。
「…うそ、だ…そんな訳無い…っ!」
 だって、彼はアラガミより余程、細くて、折れそうなくらい華奢で、小さくて、少食で、優しくて、綺麗で…綺麗で、不思議で、いつも他人と距離を取りたがっていて、自分達では敵いそうもないくらいには強くて。強くて。強くて。…強くて。「人間では無い」みたいで。
 鈍る思考がついに最後の紐を解き、導き出された最後通牒のような言葉が、胸を裂く。歪む地面。踏みしめる足。
 そうだ。疑いようも無い。「人間では無い」かのように、彼は「強過ぎる」。P53因子の影響でもあそこまでの力は発揮出来ないと、同じ神機使いだからこそ分かる。返り血一つ浴びない演舞。違わぬ狙い。異常な程鋭い索敵能力。ヴァジュラの仔との意思疎通。そして、大型種の群れをも圧倒する存在感と覇気。あれをどうして「人が持ち得るもの」だと思い続けて来られたのだろう。
 思い、ふと過去を辿ったコウタは今更ながら、蒼穹の月の時、プリティヴィ・マータ達が一斉に襲い掛かって来なかった理由を理解する。
 吼え、突く様な攻撃しか加えてこなかった獣の群れ。あの程度の攻撃だったからこそ、自分達はあの場から生きて帰ってこられた。あれが総力を用いての本気の狩りであったなら、今頃は肉塊すら溶けて世界を覆う排泄物に混じっている頃だろう。思い出す限り、舌なめずりする獣は確かに食べる気だった。だが、食べには来なかった。追いかけても来なかった。何故か。前提となるものがあるならば答えは簡単だ。アラガミは本能的に感知する己より強い者を警戒する。そして、こちらにはその「獣より強いアラガミ」がいた。――――プリティヴィ・マータは「自分よりも強い彼」を恐れていたのだ。
 しかも、誰一人として触れはしなかったが、通常、他人が触れる事は叶わない筈のリンドウの神機を、彼は確かに「抱えて帰って来た」。必要な措置を幾重にも施し、制御をして漸く他人が触れられるようになる筈のそれを、恐らく、何の対策も打たずに。それが出来るのは「それと同じもの」だけだ。アラガミの核を元とした神機に難なく触れられる生き物。それが「それ」と同族であると考えるのは至極、自然の事だろう。
 決定打。そう言うに相応しい結論だ。目を背ける事も、背を向ける事も出来ない現実がそこにある。
 烏羽センカはアラガミである、と。
 瞬間、しゃがみ込みそうになる膝に咄嗟に力を入れ、背を強く、体温を滲ませた鋼鉄に押し付ける。開いた茶の双眸が貫くように床を見つめ、口元に当てた指は僅かに肌に沈み、しかし、理解に伴う衝撃はそこまでだった。
「コウタ、いますか?ちょっと訊きたいんですけど」
「…えっ…何……?」
 思考を浚った少女の声に逸早く反応したのは飛び上がった肩だ。遅れて零れた生返事が聞こえたのか、聞き慣れた、少しばかり怒ったような声が答える。
 ぴんぽん。ぴんぽん。次いで響く、チャイムの音。
「コウタ!寝ぼけてるんですか?私です、アリサです!いるなら開けて下さい!サクヤさんの事で訊きたい事があるんです」
 アリサ。アリサだ。仲間の、アリサ。人間の。考えかけて、また薄気味悪い思考が手を伸ばす気配を感じ取ったコウタはすぐさま頭を振って薄闇を振り払った。――――違う。今考えるのはこれじゃない。後で良い。後で。ゆっくり。時間を取って。「自分の答え」を出さなければ。アリサが呼んでいる。
 扉の外で待つ、今にも鋼鉄に拳を叩きつけそうな気配に無理矢理苦笑しながら、硬直し通しで痛みを訴える筋肉を軽くほぐしたコウタは緩やかに開扉ボタンへと手を伸ばした。…押せるだろうか。脳裏に過ぎるラボラトリでの重さを思い出し、鈍りかけた手が思うより軽く開扉ボタンを押して、ぷしゅり。眼前の鋼鉄が動く。開いた、と認識するまでも無く感じる開放感。視界に差し込む廊下の安い灯り。…呆気ない。あまりに、呆気ない。
 先程まで感じていたものはこんなにも簡単に乗り越えられるものであっただろうかと、あまりの呆気なさに己の両目を見開いた彼の前で僅かに頬を膨らませた少女が眉を吊り上げる。
「遅いです。ぼーっとしてたんだか何だかわかりませんけど、いるなら早く開けて下さいよ!」
 お小言も予測済みとはいえ、言われれば、やはり返す言葉が無い。ぼーっとしていたのも事実であるし、いるのに早く開けなかったのも事実だ。だが、それを馬鹿正直に言うのもどうだろう。これ以上、彼女のお怒りを買うのは真っ平御免である。
 どう言い訳しよう、と考えて、彼はとりあえず、謝ってみるだけに留める事にした。触らぬ神になんとやら。藪もつつかねば蛇は出るまい。
「ごめんって!考え事しててびっくりしたんだよ!」
 自分でも胡散臭いと思う、はりぼての言葉を零し、胸中の吹き溜まりに蓋をしたコウタが作るのはいつもの笑みだ。調子が良くて、明るくて、偶に苦笑だってしてみせる、ムードメーカーの笑顔。元来、嘘をつけない上、お世辞にも芝居上手ではない半端者が浮かべるそれは少し歪んで見えたかも知れないが、しかし、それでも作ろうと感覚を探るそれが下手糞でもどう役に立つのか、わからぬ程、コウタも子供ではない。これが、刃を持たぬ武具であると、彼は知っている。言葉でも無い、形ある鋼鉄の甲冑や刀剣でもない、ただの笑顔が、時に何より強い攻守の要になる。
 リンドウとセンカがいなくなった時にも皆の支えになったと密かに信じる唇の弧はきっと今回も音にしない気休めになるだろう。
 一度、長い瞬きをしてからいつものように腰に手を当てた少年の双眸が刹那、揺らいで凪いだ。
「で?サクヤさんだっけ?…俺は見てないけど…なんかあった?」
 記憶では、彼女はシオが失踪した任務の後、サカキに報告してから自室を出ていなかった筈だが、アリサがこうして訊きに来るという事は不在だったのだろうか。微笑みの裏で頤に手を当てた彼の目が少女の動向をひそかに探る。
 センカが帰還する少し前から、彼女達の動きに違和感があったのには気づいていた。何かを探っているような、挑もうとして機会を伺っているような、警戒しているような、そんな気配だ。水面下を行く深海魚のように密かに、眼光を鋭くさせて、何かを狙っている。センカが帰ってから度合いを増したその気配にはソーマも気づいていただろう。気づいていて、彼は何も言わなかった。無論、自分も。――――それが、此処に来て随分と事態が加速しているらしい。
「部屋にいなかったの?」
「ええ。何度呼んでも返事がなくて…他の人も見ていないって言うし…」
「…ふーん…」
 部屋にもいない。他の者が見た訳でもない。ならば既に支部を後にしたと考えても良いだろう。同じ考えを抱くアリサの指が己の頤に触れる。
「シオちゃんも気になるけど…サクヤさんも…何か心配で…」
 支部にいない理由がただシオを探しに行っただけならば問題は無いが、そうだと言い切れない不安が暗雲を呼んでいるのは確かだ。蒼穹の月以降の彼女がやや性急に感情論に走りすぎるきらいがあるのは最早、周知。シオの失踪とセンカの不調が煽り風となり、飛び出して行った可能性が無いともいえない。加えて、副リーダーたる誇りも捨てない彼女だ。周囲を巻き込まぬよう己の責任のみで動いたとするならば誰も行方を知る者は無いだろう。
 きりり、少女の唇が親指を噛む様を静かに見つめ、コウタは苦々しげにただ黙した。
 事態が己の知らぬ所で急流の如くうねり、動いている。置いていかれているようで、その実、波に飲まれ、流されている感覚が酷く気持ちが悪い。溺れている。行き着く先もわからない。シオの事、仲間の事、アナグラの事、家族の事、そして、センカの事。暗い思考に溺れる中では希望の藁も探せない。
「………シオ…母さんにでも会いに行ったのかな…やっぱ母さんも…アラガミなのかな?」
「え?」
 徐に紡がれた問いにアリサの思考が途切れる。
「この前、センカとシオが親子みたいだって言ったけど…本当は、どうなのかな、って…。やっぱりシオの母さんもアラガミなのかな…」
 端的に考えて、そう考えるのが自然だ。人間の子は人間からしか生まれず、犬の子は犬から、猫の子は猫からしか生まれない。アラガミとて同じだろう。いくらマグマやヘドロから突発的に生まれるものであれ、もし、アラガミが親足り得る能力があるのであれば、アラガミの子はアラガミからしか生まれはしないと仮定出来る。そのアラガミの子が「人間」を親として慕う事は果たして、在り得るだろうか?それは実に微妙な問いだ。刷り込みを狙うなら話は別だが、基本的に自我を確立した生き物は他種族を親とは認めない。――――そう。「他種族を親とは認めない」のだ。
 無意味な、実に不躾な問いを投げかけていると、わかっている。最悪の質問だ。アリサは気づかないだろうが、これは、仲間を疑い、軽蔑しようとする最悪の、最低の、質問だ。
「俺…っ」
「よくわかりませんけど、考えすぎじゃないですか?」
 うじうじ悩んでる暇があるならさっさとシオちゃんを探しに行って下さいよ。言われて、咄嗟に俯きかけた視界を上げたコウタの目に映ったのは、さらりと銀髪をかき上げるアリサのむっつり顔。
「シオちゃんがアラガミなんて今更ですよ。博士が前に言っていたような人型のアラガミが本当に現れたんですから、同じようなアラガミがまた出たっておかしく無いじゃないですか。私はもうどんなアラガミが出たって驚きませんからね!そんな事に構っている暇はないんです」
 そもそも、アラガミという生き物の生態自体、未だ謎に包まれたままだ。形状すら定まらない生物相手に、あれもアラガミかもしれない、これもアラガミかもしれないと疑心暗鬼になるのは思考力の浪費以外の何ものでもない。実際に人型のアラガミが誕生しているのだから、その親――存在するならば、の話だが――が同じ人型ではないとは言い切れないのだ。そうでなくとも、シオのようにアラガミから生まれた別の人型のアラガミが存在している可能性もある。その膨大な可能性論と解決しない数多の問題の前で立ち往生している暇は一秒たりともないのだ。例え、「仲間の一人がアラガミである」かもしれなくても、それは今考える事ではないだろう。
 赤い帽子を少し直して、素っ気無く踵を返した彼女の背が遠ざかるのを見送るコウタの前で、三歩進んだ靴音がぴたりと止む。
 振り返らずに、手を腰に当てた姿勢でアリサが眺めた遠くの蛍光灯が僅かに瞬いた。
「私はもうちょっと聞き込みしますけど…コウタはセンカさんが回復するまでにその顔、どうにかした方がいいですよ。あからさまに作り笑いされても、不細工すぎて笑えません」
 言い置いて、今度は立ち止まる事無く廊下の彼方へ姿を消したアリサを見送り、一人、残されたコウタは目の前に広がる無機質な廊下を眺める。冷たい、硬質な空気。頬を撫でもしないそれは時を止めたかのようだ。
 センカが回復するまで。限定的な言い回しは彼女が暗い心情に気づいている事の証明に他ならない。彼女も「センカが倒れた現場」にいた当事者だ。センカ自ら言った言葉を聞いた自分程、決定的ではないとはいえ、その可能性を疑っている最中なのかもしれない。だから、彼女は言った。「同じようなアラガミがまた出てもおかしく無い」と。それは、彼女が短い時間で彼女なりに導き出した答えなのだろう。明確な形を持たずとも、「おかしくはない」と客観的に結論付けた。おかしくはないから、その可能性もある、と。曖昧と決断を混在させた結論で彼女は次の疑問に向き合ったのだ。
 遠く消える甲高い靴音。力強いその音は少し前の彼女のそれとは違うものだ。鼓膜に残る余韻を聞きながら、ぽつり、一つ、落ちる声。
「わかってるよ…そんな事…」
 分かっている。アリサの言う通り、悩んでいる暇は無い。シオは何処にいるかもわからず、この状況で何か思う所のあるらしいサクヤは行方を暗ませようとしている。アリサもおそらくそれに続くだろう。ソーマはシオを探しに行くだろうが、彼から何かを言い出すとは考え難い。残るセンカは――――センカは、どうだろうか。もうよくわからない。ばらばらだ。何時かに思ったものと、同じ事を思う。ばらばらだ。皆を繋ぎとめる糸が少しも見当たらない。…ばらばらだ。
 再度、動きを止めた思考で辛うじて理解出来たのは、今、この瞬間に、微笑の盾が破れた事だけ。

 ソーマがシオを連れ帰ったと知らせが届いたのは、その数時間後の事だった。


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メンタル的にボッコボコのフルボッコにされてるお兄ちゃんの話。フリーの会話をガンガン盛り込んでみました。
当家のコウタさんというのは新型との親しさ、という点において新型にある意味一番近い場所にいる人、という認識になっているので「一番近かったはずなのに、なんで俺知らなかったの?」という衝撃が半端無い感じになっています。加えて、アラガミというのは人類にとっての絶対悪の印象もあるので親友がその絶対悪だった、という衝撃もあります。仲間意識と敵意識の板挟みが似合うコウタさんです(ぇ)
コウタさん自体、頭の悪い人ではないですし、どちらかというと頭のいい人だと思う…というのが当家のスタンスでして…その部分とまだ大人になりきれてない、足掻きたい子供の部分のギャップを書くのがとても楽しいです。…いじめているわけじゃないですよ、ええ。ちゃんと好きキャラの一人ですからね!いじってるのは認めますが!(…)
そんなお兄ちゃん。これからどんどこ暗くなりますよー。ばらばらだ!

一方、アリサさんは一応、ふんぎりはつけたようです。こういう時はきっと女性の方が強いかと。

2014/02/10