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 聞こえるか、俺の声が。

遠吠え

 連れ戻そうとした傍から昏倒したシオをどうにかラボラトリに運び込んだのがつい先程。慌てて彼女の様子を診始めたサカキに事の行方を委ねたソーマは未だ眠りの国を彷徨っているらしい銀色の部屋を訪れていた。
 ぎし。座った褥が囁く文句を黙殺して解けぬ緊張に強張る手を眺め、長く瞬く。背後に感じる微かな体温は依然、動かぬまま。
 事が最悪へ向けて走り出しているのは最早、確認するまでもない。この近辺に特異点がいる事を確実に察知したシックザールは是が非でもシオを手に入れようとするだろう。特務として特異点捜索を命じるのではなく、表立った行動に出る可能性もある。即ち、計画の公表とそれに伴う全神機使いへの捜索命令である。人類が不利な状況にある今、アーク計画に乗る者は少なくは無いだろう。神機使い達も総力を挙げて捜索を実行する筈だ。性格から賛同しないと思われるのはタツミとジーナくらいのものか。あとの者達、殊、保身を第一にするシュンやカレルは捜索の第一線に立つに違いない。対するこちらはいつかのような一枚岩とは言い難い状況が水面下で続いている。サクヤは計画の真相を探りに向かい、既に戦線離脱。アリサとコウタは辛うじて支部内にいるものの、躊躇い無しに戦場に立てる雰囲気ではなく、センカは未だ眠り姫。サカキが駆使する情報の盾をもってしても力の波で押し寄せられれば、実質、使える戦力がソーマのみである現在の第一部隊に打てる手立ては無い。
 ひっそりと息を潜め、出来うる限り早く波の中心を討つ手を探り、如何な手をもってしても、シオがラボラトリにいる事を隠匿する。それが、今出来る最善だ。まるでアラガミ相手の任務のようだと思う。そう考えれば、人間相手だろうと、アラガミ相手だろうと、やる事は対して変わらないのかもしれない。
 重く息を吐き出し、拳を握った彼は、ふと、ある男の言葉を思い出した。――――命令は三つ。死ぬな。死にそうになったら逃げろ。そんで隠れろ。運がよければ不意をついてぶっ殺せ。事ある毎にそう言って最後には、これじゃあ四つか、と苦笑した男。極東支部最強と謳われた彼は既に此の世に無い。綻びかけた銀華を置いて消え去り、今は何処にいるのか。雲の上からでも暢気に、或いは、爪を噛んで見ているのだろうか。こうして眠るセンカの隣に他の男が座っている事だけでも嫉妬して、今にも化けて出ようとするかもしれない。…まあ、それはそれでセンカには良いのかもしれないが、自分には全く嬉しくないと青いパーカーのフードを背後へ落とした青年は闇に煌く白金の髪をかき上げながら思う。
 リンドウがセンカを想っている事には、やはり同じ第一部隊であったからだろうか、ソーマも比較的早くに勘付いた。同時に漠然と思ったものだ。面倒臭い事になった、と。
 一言で言えば、センカの傍はとても楽で心地良い。無論、それはソーマの主観だが、同じように思っている者は他に少なくないだろう。誰にでも態度を変えず接する姿はいっそ清々しいと言えるかもしれない。恰も情景に溶け込む備品の如くひっそりと存在しながら一切の干渉をしてこない代わりに一切の干渉を拒絶する彼は構える必要の無い貴重な人種だ。ただ、そこにいるだけで構わない人物。煩わしさを嫌うソーマには纏わりつかれるより遥かに好ましく、だからこそ、その居心地の良さが誰かに奪われる事は決して面白い事とは言えなかった。嫉妬だったかと問われれば、思い返す今は苦く肯定するしかない。
 目を落とす、シーツの波の中。部屋の薄暗さに溶けるようにそっと瞼を閉じ、乾いてしまった唇を薄く開いて小さく呼吸をする銀色の華が蕾のまま眠っている。手を伸ばせば触れられる距離にありながら、けれど、触れられそうな気にならないのは彼の心に触れた事が無いからだろうか。思えば、自分は彼の名すら、一度も呼んでやった事が無い。
 幻を確かめるかのように伸ばした指が低くなった体温に微かに触れて――――直後、震えたのは銀の長い睫毛。酷く緩慢な動作と共にゆるりと持ち上がる瞼の下から、虚ろな白藍が天井を見て彷徨う。開く、乾いた花弁。
「………し、お…」
「…起きたのか?」
 名を呼ぼうとして、やはり呼べなかった代わりに指の背で白い頬に触れたソーマは向けられた焦点の合わない瞳に密かに心の臓を跳ねさせた。
 まだ、正気ではない。そうと分かる虚ろな対の青硝子。辺りを見回しながら子犬の名を呼んだ彼は未だ夢現の狭間にいる。この状態の彼に全てを話す事は上策か。否、愚策だ。シオの異変を知らせれば、また混乱のまま飛び出そうとするだろう。あの時、滲むように流れ込んできた激しい感情は忘れもしない。困惑と絶望と哀しみと焦燥。全てが綯い交ぜになった複雑なそれはぶつけられる方からすれば凶器に近かった。
 深い霧の中で必死にもがき、探し人を求める彼に今のシオの状況を洗い浚い話す事は出来ない。ぐ、と肩に力を入れる気配を感じ取ったソーマが、開きかけの花弁が音を紡ぐ前に低く遮った。
「安心しろ。あいつは連れ戻してきた」
 お前なら分かるだろう?アラガミ特有の敏感さを示されて、白藍がぼんやり沈黙する事暫く。やがて強張った身体から緩やかに力が抜けていく。
「……シオ……」
 吐息と共に漏らされた安堵の響きに胸を撫で下ろしたのはこちらも同じだ。サカキの荒療治がなければ止められなかった先の混乱を、情けないながら、自分一人でどうにかできるとは思わない。
 何にしても、これでサカキが此処へ来るまで彼は大人しいままでいてくれるだろう。機転が利いた事に息をつきながら、硬直した姿勢を変えようと触れた手を放して身じろいだソーマは、しかし、不意に袖を引っ張られる感触にそれを止められた。
 見下ろした己の袖を、布団から這い出た白い指が控えめに摘んでいる。ぼんやりと、ぼんやりと、見詰めてくるのは深い白藍の双眸。

「せんぱいは、どこですか」

 せんぱい。彼が特定の名を含ませずにそう呼ぶのはこの極東支部でたった一人しかいない事を誰もが知っている。
 聞き返す前に再度、紡がれた細く、切ない声音にソーマは刹那、眩暈を覚えた。
「…お前…何を…」
「せんぱいは…どこ、ですか…?…どこに…」
 泣きそうな程の小さな声。眉を寄せて、今にも崩れそうな顔で、訊いて来る、萎れた銀華。せんぱい、どこ、どこ、せんぱい。もう随分前から理解している筈の男の最期を記憶の何処かに置いて来たかのように、鳴いて、視線を彷徨わせる。続く囀り。どこ、せんぱい、どこ。静寂ばかりがある狭い部屋に、小鳥のそれはあまりに大きく響いて溶ける。
 どう、返せばいいのだろう。呆然と意識が漂白していく。返せる言葉など在ろう筈が無い。だって、彼が、求める男は既に此の世を後にしているのだ。今は遠くにいる?用事でここにはいない?どれも彼の求めるものの答えにはなり得ない。ならば、現実を突きつければいいかといえば、風雨に嬲られた花の如くか細く息をする彼には到底、出来そうも無い。少なくとも、自分には無理だ。
 ぎりりと剥いた牙で己の唇を噛んだ直後、小さな呼び声を遮り、俄かに動いた空気と共に扉が開く音が意識に割り込む。感じる、古風な靴音と舞い込む風。――――適役が帰ってきた、と思うより早く、彼は弱々しく袖を摘む手を流れるような動作で緩やかに払い落とした。
「ソーマ?センカが目を覚ましたのかい?」
 響きばかりが暢気な問いかけには返さず、逃げるように足早に学者の肩を過ぎるソーマの耳に、ぽとり、人形の手が落ちる音が微かに届く。小さな衣擦れ。無理だ。言える訳が無い。せんぱい、どこですか、せんぱい。鳴いて、褥に丸くなり、怯えながら漆黒を求める銀色に、これ以上、何を言えるというのだろう。言えたとして、小鳥に声は届かない。
 叫びを噛み砕いて、冷えた光の溢れる廊下に逃げた狼の後ろで扉が空間を隔てる間際、彼は死に掛けた小鳥に近づいた学者が逃げ出した自分の代わりに止めを刺す音を聞いた。
 ゆっくりと、殊更、優しく、振り下ろされる非情な刃。
「リンドウ君はもう死んでしまったんだよ、センカ」


 聞こえる。響いてくる。切なく、強く、呼ぶ声が。自我を奪う黒霞を払い、まるで鈴の音のように。
 疼く腕が意識を蝕んでいく感覚の中、天井を埋め尽くす緑の合間から薄闇に染まりつつある空をぼんやりと眺めた男は脳裏に描いた銀の光の名を苦しげに、けれど、愛しげに呟いて目を閉じた。
 絶え間無い嘆きに似た呼び声。昨日頃から聞こえているそれに聞こえぬふりなど出来よう筈もないというのに、この身体が彼の元へ行けるような状況に無いというのは酷くもどかしい。侵喰さえ無ければ危険を承知でも会いに行くものを、ここ数日、勢いを増している症状は日に数回、自我を奪うまでに達している。お世辞にも外部で単独行動が出来るような状況ではない。
 きゅう、と心配げに鳴いて、力無く垂れた右腕に鼻先を擦り付ける幼子に笑ってやり、思う。――――こうして温室にいられるのもあと数日だろう。もう潮時だ。出来れば、全てが無くなる前にもう一度会いたい。会いたい。会って、名を呼んで、欲しい。触れたい。声を聞きたい。聞きたいが、それは決してこんな胸を裂くような悲しい響きじゃない。
「…そんな声で呼ぶなよ……今は抱き締めに行ってやれないんだ…」
 せんぱい、せんぱい、どこ、どこ。そう、涙を拭う手も届かない場所で呼んでいる声がする。


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HPゼロな新型さん、博士にとどめを刺される、の図。
相変わらずの貧乏くじピッカー2号なソーマさんは途中で戦線離脱してしまいました(笑)で、ここで「最近、ソーマさんの中の新型さん認識はこうだったんだよ!」なんていう考察も入れてみたりしましたが、結果的には最後にギロチン落とした博士が全部持って行った感があります……。ほら、当家って、新型さん苛めるの、ちょっとだけ癖になってるし、ね…ふへへ…。

対する温室父子は単身赴任中のおかーさんのSOSを察知して「うぉーん!おかーさーん!おかーさーん!!助けに行きたいけど行けないよー!」と胸中で大絶叫してる感じです。特に、お父さんが!毛玉はまだまだ子供なので目の前のおとーさんの状況で手一杯です。

さて、まだまだソーマさんは貧乏くじを引きますよー。

2014/10/28