「や、ちょっといい?」
舌打ちを寸でで抑えたのは、彼女が実はサカキと同じ人種である事を知っていたからだ。
大根はまだ土の中
ニッカポッカにノースリーブ、額の上へ持ち上げたゴーグルが似合う灰髪の、橘リッカという少女が細身の割りに実に強かな女性であるのはこのアナグラで知らぬ者はいないくらいには知れているが、総じて強かな女性が多いこの極東支部で神機使いでもないただの整備士の彼女の名が知れているのは単なる粋な性格からというだけではない。
問えば戦慄、笑う膝。思い出させれば青褪める者も少なくない彼女の気質がラボラトリに引きこもる観察者に何処と無く似ているからである。笑いながら過酷な発注をする彼女の様は眼鏡の糸目と並んで神機使い達の影の恐怖の対象だ。無論、アナグラに居を構えて数年。呼び止められてうっかり打ちそうになった舌を持ち前の野生の感でぴたりと止めたソーマも例外ではない。この少女ときたら煤けた顔に絆創膏を貼ったやんちゃでくりりとした顔に似合わず中々に侮れない性格の持ち主なのだ。サカキの遊び心についていける者も養子のセンカを除けば彼女くらいだろう。
ひらひら振った手を止めて、任務帰りのソーマの前までやって来たリッカの目が刹那、周囲を巡り、心持、潜めた声が紡がれる。
「…聞いたよ。…例のシオちゃん、いなくなっちゃったんだってね。そろそろ新しい服作ろうかと思ってたんだけど…無事だといいね」
既にシオを連れ戻した情報はまだ得ていないようだが、その話題を切り出す事自体はそう驚くようなものでもない。彼女は第一部隊以外でシオの存在を知る唯一の人間だ。サカキが念押しの口止めを兼ねて連絡したに違いない。リッカ自身もその緊急性に勘付いていて、切り出す前に周囲を警戒する素振りを見せた。潜めた声も盗聴される可能性を念頭においてのもの。彼女も伊達に混迷するフェンリルの人間ではないという事だろう。
口を開かぬまま溜め息のような鼻息だけで返したソーマに気を悪くするでもなく、彼女は続ける。このふてぶてしさも何処かであったようなものだ。…思い出すまでも無いが。
「それとさ、君んとこの…えーと…アリサじゃない方の新型神機使い……センカ、だっけ?どうなの?倒れたって聞いたけど」
「…?おっさんから聞いてないのか?」
大騒ぎだったよね、と思い出すように虚空を見たリッカを眺め、僅かにフードの下の双眸を見開いたソーマが零せば、彼女は弱った顔で頭を掻いて見せた。
「それが、いっくら訊いても教えてくれないんだよね。今は言えないの一点張り。彼、自分で神機の整備してるみたいだから私もまだ話した事無かったし、ゲンさんがリンドウさんの仇討ちの件で礼を言いたい、って言うから、この機会に、と思ったんだけど……せめて病室訊こうにも博士相手じゃ取り付く島も無いよ。参っちゃった」
理解し、咄嗟に思う。――――警戒している。あのサカキが。不特定多数を相手に。
ペイラー・榊という男は無意味に距離をとる男ではない。温厚そうに見えて、その実、意外に過激な行動に出ても見せるあの男が距離をとる時は絶対的に不利な状況を警戒をする時だ。その彼が、リッカを警戒している。否。リッカ「も」警戒している。彼女が言うゲンという男は既に引退した身の神機使いであるとはいえ、シックザールの息の掛かった者ではなかった筈だが、この分ではサクヤ達にも居場所を知らせていないのだろう。稀に見る警戒ぶりだ。センカの秘密が不可避な状況において露見しない限りは徹底的に隠匿し、口を噤むつもりらしいとはいえ、基本的に他人との交友を阻もうとはしないサカキがここまで外界を遠ざけるという事は、シオの状況だけでなく、センカの状況も確かに良くは無いという事なのかもしれない。
警戒の相手はシックザールか、それとも彼をも含めたフェンリルの人間全てか。答えは、後者だろう。センカの存在は何も知らない人間にとって魅力的であり、且つ、危険過ぎる。
まだ飲み込みきれない先の話を思い出し、迷わず観察者に順ずる事を選んだソーマは苦虫を噛んだ。
「…俺に期待するな…」
「わかってるよ。言わないって事は聞いちゃいけないって事だからね」
そんなに野暮でも馬鹿でもないさ。素っ気無い青年に諸手を上げて天井を見て見せたリッカとて阿呆ではない。
言わない、という行動は実に重要な異常行動だ。何かを隠匿する時、何かから逃げる時、何かから遠ざけようとする時、人間という種族は時折、「言わない」という行動に出る事がある。それはぽろりとつく嘘を選ぶより難しい。何故なら、防衛本能の一つとも言えるかもしれない嘘は選択肢を選びやすい代わりにふとした綻びから暴かれやすい性質があるからだ。守り、秘匿しようと周囲を警戒する程、安易な嘘という選択肢は選ばない。如何に嘘をつかずに立ち回るかを考えねばならない「言わない」という行為を選ぶ事はその陰に隠されたものが如何に重要であるかを物語っているのだ。
つまり、サカキがセンカの居場所を明かさないのは「明かさない事が非常に重要である」からに他ならない。それが、センカを守る為であるのか、他の意図があるのか、リッカには定かではないものの、あえて暗部を覗き見て己の首を比喩でなく絞める行いをする趣味などあろう筈も無かった。触らぬ神に祟りなし。藪をつついて蛇を出すのは自分以外の愚かな誰かでいい。だが、今から訊こうとする事は別だ。
じりり。頭上で囁く蛍光灯が僅かに明るさを落とし、直に元の明るさを取り戻す。
「で、さ。とりあえずゲンさんにはそこんとこ我慢してて貰うとして…ソーマ。君さ、」
じりり、じり。明滅。
「サクヤさんがエイジス行ったのって、知ってた?」
一層、潜めた声が、微かに響き、消えていく。ぴくり、動いた狼の眉は動きを止め、瞳は凪いだまま。
「何故、俺に訊く」
「だって、今の状況下じゃ一番まともそうでしょ?一匹狼が君の専売特許だからね」
返る答えに溜息をついたのは、ソーマだ。長年、フェンリルにいると未成年も未成年らしからぬ考えを持つようになるのかと、自分を棚に上げて頭を抱えたくなる。無論、そうでなければ、この時代を生き抜いていけないのは確かだが、この鋭さは十五歳というには少々過ぎる気がするのは気のせいだろうか。
彼女の言う一匹狼は勿論、皮肉ではない。暦とした賞賛の言葉である。
他者と余計な交流を持たないという事は他方から見れば他者に左右される事が少ないという事であり、それは現在の状況下において最も重要な要素に他ならない。他に左右されず、客観的に冷静な判断を下している者。それがソーマであると彼女は判断したのだ。そして、それは決して間違ってはいない。コウタは安定を欠き、アリサは何かに意識を集中し、彼女が今、口にした通り、サクヤは――――エイジスへ向かった。個々が思い思いの行動をしているその中でソーマだけは忠実に任務を遂行し、最前線に立ち続けている。胸中はどうにしろ、彼が私情ばかりを優先している訳ではないのは確かだ。
しかし、碌な事はしないとは思っていたものの、まさか、エイジスに直接、乗り込むとは。度胸が過ぎる。
長い瞬きの後、答えを返し忘れかけたソーマの首が緩く横に振られた。ついでに開かれた口から零れるのは鉛の声音。
「……俺は知らない」
寧ろ、出かける前に言えというのだ、あの大根王子め。ふつふつと苛立ちが込み上がるのを堪えつつ腕を組んでみせる彼の耳に、聞かせるようなリッカの声が聞こえてくる。
「そっか…神機使いとはいえあそこは最重要機密区域だから大丈夫かなぁ…。入場記録の改竄…頼まれたからさ…君は知ってる事なのかな、と思って」
お節介だったかな。そ知らぬ顔で天井隅を眺めて言いながらソーマを見る彼女の目はお世辞にも暢気にしているとは言い難い。示すものは警告だ。――これは第一部隊が画策している事なのか。だとすれば代償が大き過ぎる。言外に伝わる危惧にフードの下の海原が刃を抱く。
彼女がこうして言って来るという事はエイジス潜入が第一部隊の企てた計画だと思うような何かがあったという事だろう。或いは、そうだと気付くのが遅かったか。
「…他の奴に言ったのか?」
サクヤがエイジスの入場記録の改竄を指示した事を。皆まで言わぬ問いに返ったのは、頷き一つ。
「アリサが訊いて来たよ」
その後は、聞くまでも無い。思わず、掌が片目を覆う。―――あの、馬鹿共。うっかり零れた獣の呻きに、巻き込まれただけのリッカの目が泳ぐ。
全く、言葉も無い。あの妙に生真面目で些か融通の利かない少女は先陣を切った女の後を追ったのだろう。リッカのこの様子では既に飛び出して行った後に違いない。馬鹿だ。馬鹿すぎる。否、確かに単独で乗り込むよりは良いだろうが、それにしてもこの状況で勝手に戦線離脱をするとはそれこそ良い度胸である。シオの存在を知る協力者とはいえ、入場記録の改竄をリッカに頼んだ事も被害を広げるだけの愚直な案と言わざるを得ない。何の根回しも無くこれだけ動き回れば、第一部隊が何か、隠さなければならない重要なものを隠していると公言しているようなものだ。
「ごめん…やっぱ止めた方が良かった?」
「……いや、無駄だろ」
「だよね……っと、ごめん、支部長室に呼ばれてるんだった。予定がずれるって連絡あったけど、流石にもう行かなくちゃ」
反省もそこそこに突如、思い立ったように踵を返してエレベーターへ向かおうとする彼女を、今度は引っ掛かりを覚えたソーマが呼び止めた。
振り返った少女の視線に返る、訝しげな青い光。
「支部長?」
「そう。何か…極東支部のスタッフの一部が支部長から呼び出されてるみたいだね…私もなんだけど…何かばれちゃったのかな?」
早い口調で言い置き、また片手を上げて去っていく彼女の背を眺め続ける事無く、顎に手を当てた彼は眉を顰めて思考を巡らせた。
極東支部の一部が呼び出されている。しかも、職種を限定しなかった彼女の口ぶりからするに、呼ばれる人間の種類は多岐に及ぶらしい。…神機使いは勿論、呼ばれているだろう。リッカが呼ばれるという事は一部の整備士も呼ばれている筈だ。整備士がいるならば研究者も然り。主立ったフェンリルの人間は呼ばれていると考えていい。問題は何の為に呼ばれるのか、だ。答えはその内、アナグラの面々が示すだろうが、示される答えの内、一つが特異点…シオの捜索であるのは想像に難くない。寧ろ、それが本題だろう。法外な報酬もおまけにつけるであろうから、俄かに支部内が騒がしくなる筈だ。しかし、それを考える程、リッカが呟いた、予定がずれるという奇妙な話が妙に気になる。急ぐ筈の召集が遅れているとはどういう事なのか。あの几帳面な男が「予定がずれる」などあり得ない。急な用事が入ったか。不測の事態に手を打たねばならない状況に陥ったか。後者であればサクヤのエイジス潜入が原因の可能性がある。
厄介な事にならなければいいが。思い、連鎖的に銀髪の少女を思い出したソーマは再び重い溜め息を吐いた。
徐に探った懐から取り出した端末の液晶を眺め、彼は、ぽつり、呟く。
「恨むなよ…俺の所為じゃねえぞ、大根王子」
胡乱げな視線を向けた先で鈍く光る無機質な文字が、アリサにはごめんねって言っておいて、と虚しく囁いていた。
-----
思いがけず長くなっているこの長編で、これが実はリッカさん初登場の回だったりします(笑)
当家の認識ではリッカさんという方は中々喰えない方だという認識があるので、キャラクター的には博士に程近い位置にいます。非戦闘員である分、知能派というか。物事との距離のとり方や捉え方が年齢より大人びている印象です。
そんなリッカさんはソーマさんの物理ダメージ付加の睨み(オイ、失礼)にも全く動じないというか、いなして返してカウンター攻撃できるくらいの人だと思っているので、今回は比較的人物を動かしやすかった気がします…多分。だって、書いたの○年前!!毎度毎度だけどもちょっとイロイロあって中々更新できなかったんですスミマセン。
さて、ソーマさんがガンガン貧乏くじ引いていますが、これからもドンドコ引いてもらいます。
だって、今、ソーマさん以外にストーリー進行役できる人がいないんだもの!!当家の新型さん戦線離脱中!
2015/03/02 |