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 その蛇は言った。――――林檎をお食べ、愚かな人。
 彼女は言った。――――いらないわ、もう持っているもの。

蛇林檎

「やはり君達か。どうだろう、思い描いた楽園と違っていて落胆したかな?」
 白色灯に照らし出される眩い金髪。背に誇り高き狼の紋を負い、翻る、支部の長のみに許された白い外套。熟した洋酒色の双眸に嘲りの色を浮かべ、口元に皮肉を多分に滲ませた微笑を刻んだその男は天井近くからゆるゆると降りてくるリフトの上に佇み、まるで演劇の一幕を演じるかのようにわざとらしく両手を広げて低めのテノールを響かせた。
 顔を合わせる機会はそう多くなかったとはいえ、フェンリル極東支部に身を置いている以上、嫌でも目にする覚えのありすぎる顔に、全体像を現した広間の中央に置かれたサクヤとアリサの顔が歪む。
「支部長…やはりあなたが…これは一体どういう事ですか!!」
 高みから見下ろす男――――極東支部支部長、ヨハネス・フォン・シックザール。ソーマ・シックザールの実父であり、エイジス計画の提唱者にしてそれを隠れ蓑にしたアーク計画の実行者。
 その男が、このエイジスの惨状――期待する者からすればこれは嘆くべき惨状に他ならない――の評価を訊いて来るとは何とも皮肉な事だ。動揺を誘うにしても悪趣味だと言わざるを得ないが、これがこの男の本質なのだろう。外的な痛手を負わせるよりも内的な痛手を負わせる事に長けた知略の将。特攻戦術ではなく、外堀からじわりじわりと埋め、相手が気づく頃には仕掛けた真綿の縄がか細くなった吐息に最後の一絞めを加えている。それがシックザールなのだと、今更ながらに気づかされる。こうして訊いて来るものも、答えがわかった上での事に違いない。そもそも、動揺を誘うだけが目的ならば、答えなど端から期待していないだろう。
 案の定、サクヤの詰問を歯牙にもかけずに流した彼は煩わしさを払うように軽く手を振って笑みを深めた。
「彼はここに侵入する手筈まで整えていたのかね、サクヤ君?」
 彼、が誰を指すのかも最早、今更だろう。手管は透けて見えると暗に示して嘲笑う彼の言葉が逆立つ神経に針を刺す。
 振った手を些か大袈裟に煽り、流れるように米神に当てて見せる様は恰も舞台男優の如く。眉を少しばかり寄せ、けれど、口元が刻むのは変わらぬ微笑。これが、馬鹿にしている表情だと言わず、何と言うだろう。
 ぎりり、握る神機の、軋む柄。憤怒の核心にまた白々しい不可視の針が刺さる。
「実に惜しい…全く、実に惜しい人物を失ったものだ」
「戯言を!…あなたが…そう仕向けさせたのね!?」
 耐え切れず叫んだサクヤの声は思いの外、鋭く仰々しい広間に満ちた。だがそれも、依然、笑う男には効を成さないまま。
 仮に、初めの問いに正直に答えるならば、確信に限りなく近い予想の通りであったとしても、衝撃は少なくは無かった。まさか、と、潜入するその瞬間まで思ったのも事実だ。リンドウを疑ったのではない。人類の希望の正体を信じ切れなかったからだ。言うまでも無く、自分達が籍を置くフェンリルという組織は人類の防衛と保護を目的とした唯一の機関である。元は一、製薬会社であったとしても、築き上げた現在の地位と根付いた大前提は揺らぐものではない。その意識の中で戦ってきた身としてはエイジス計画が真っ赤な嘘で、本当に実行されようとしているのが名前も聞いた事の無いアーク計画なるもので、その首謀者がまさか、自分達の上司であるとは素直に考えられよう筈も無かったのだ。勿論、蒼穹の月から始まる一連の出来事の中、リンドウのレポートを見るに至るまでには疑惑は確信に変わっていたものの、真実と現実は違う。この目でしかと確認するまでは疑惑は疑惑の域を出られないままだった。
 それも、今は霧散している。残っているのは確信と嫌悪、不快感。そして、果てが無く、深い憤りだ。リンドウの死が、一連の事件の黒幕が目の前の男であるのは最早、疑いようが無い。
 睨む二人を見返すシックザールの目が、刹那、細く鋭さを増し、直ぐに元の笑みを浮かべ、それから彼は軽く鼻をならして返した。
「ああ、その通りだ。彼にはどうやら違う飼い主がいたようでね。噛まれる前に手を打たせてもらった」
 違う飼い主。リンドウが報告をする筈だった相手。恐らくはシックザールの敵だろうそれが誰なのかは分からないが、これまでの経緯を考えればおおよその予想はつくというものだ。自分達もある意味で最近、「彼」の「飼い犬」になった。
 しかし、噛まれる前に、とは実に滑稽にして皮肉にも程がある比喩だ。噛まれる前に手甲で武装して、且つ、空いた手で機関銃を握っているような者が使うような言葉ではない。
 湧き上がる嫌悪に益々顔を顰める二人を横目に、思わせぶりな溜息を吐くシックザールの言葉は続く。実に残念そうに。そして、実に煩わしそうに。
「…彼の行動は早すぎた。終末捕食の起動キーとなる『特異点』が見つかっていなかったあの段階では、まだアーク計画を知られる訳にはいかなかったのだよ」
 リンドウの行動が時期尚早過ぎたのはサクヤにも理解出来る。如何に計画が実行に移される前に暴かねばならなかったとはいえ、ああも強硬な手段には出るべきではなかった。無論、こうしてその「強硬な手段」の恩恵で此処に立って真実を耳にし、目にしている自分が言える事ではないけれど、それにしても、あと、もう少し。せめて、シオが見つかるまで大人しく出来ていれば、今、此処で陶酔する男の演説を同じように聞けていただろうに。
 導火線が長いとは言えない自分とアリサだけでは、広げられてひらひら振られるあの男の手を打ち抜かずにいるようにするだけで精一杯だ、と彼女は密かに胸中でごちる。耳障りな演説を嫌々頭に叩き込みつつ、ちらり、盗み見る傍らの少女の顔は既に害虫を見る時のそれになりつつあった。
 彼女の火が火薬箱に達するのが先か、それとも、自分が先か。気付いているだろうに、それすら滑稽な見世物として眺めている男は口を閉じようとはしない。滑り出すのは危機と引き換えの真実。
「アラガミが引き起こす終末捕食により、この星はやがて完全な破壊と再生を迎える。完全なる再生だ。全ての種が一度完全に滅び、生命の歴史が再構築されるその新しい世界に人類という種とその遺産を残すための箱舟…それがアーク計画だ。しかし残念なことに、新しい世界へ誘う箱舟の席は限られている。次世代へと繋ぐ限られた席だ。真に優秀な人間こそ座るべきだと思わないかね?」
 正直、反吐が出る。嘲笑さえ浮かべられなかった女は舌打ち代わりに皮肉を吐いた。
「で、それに乗るのはあなたとあなたに選ばれた人だけってわけね」
「適役が他にいるかね?」
 返る言葉は傲岸不遜。変わらぬ微笑に氷の眼差し。
 悠々と語られたそれは美しく、魅力的な話のようにも思えるが、アーク計画が彼の言う通りならば、要は、己の権限で一度、世界を終わらせるという、勘違いも甚だしい話に他ならない。この世界を、意図的に引き起こした終末捕喰をもって、生まれ変わらせようと言うのだ。残された人類も、アラガミさえも塵も残さず消え去った後、白紙の世界に、計画の枠に入れた、彼が言うところの「真に優秀な人間」が再度、降り立つ。全く、反吐が出る話だ。思わず、唾も吐いてみたくなる。犠牲の上の平和とはよく言ったものだが、犠牲の上の新世界とは全く、壮大過ぎるにも程があるというものだ。
 席が限られているという事は、数はそう多くはあるまい。リンドウが手に入れたあの名簿が、恐らくは計画に便乗できる人間なのだろう。思い返す名前の数は、この極東支部ですら全員が入っていたとは思えなかった。つまりは、今生きている人間は半数以上が新世界の礎となるのだ。
 神でもあるまいし。人間が人間を間引くなど人権を侮辱している。思う間に、彼の演説は漸くの区切りを迎えたようだった。
「さて、あの出来損ないがすべき仕事を私が担わなければならない事は実に業腹だが…仕方あるまい」
「……出来損ない…?」
 嘆かわしく声高に言って見せたシックザールの言葉に反応したのはアリサだ。目が腐るとでも言い出しそうな顔を緩めて訝しげに呟いた彼女を見下した男が、やはり胸糞悪い笑顔で答える。
「そう、出来損ないだ。人外の化け物の癖に、ペイラーや君達と関わった所為で勘違いをしたアレは随分、小賢しくなってしまってね。ただでさえ出来も良くなかったというのに此処に来て適切な報告をしないばかりか、この私に嘘までつき始めて鼠除けの役すら出来なくなってしまう有様だ。嘆かわしい事だよ。除けられないならば駆除しておけと言っておいた筈だったのだが、ここまで役に立たないとは。アレの愚かさおかげで、本当に…そう本当に残念だが、君達二人はリストから外れてしまった」
 シックザールが苦々しさを隠しながらも嘲りと軽蔑は隠さずに語る、アレ、が、誰なのか。瞬時に二人は思考を巡らせた。黒幕の口から恰も物品の如く語られる、アレ。出来の良くない、アレが…アーク計画を探ろうとする鼠の駆除を命じられていたはずのその人物が愚かであったから、自分達はリストから外れた。言い方を変えれば、第一部隊と関わって何らかの変化をしたその人物がシックザールの暗殺命令を遂行せずに見逃したから、自分達はエイジスに潜入し、真実を手に出来た。そういう事なのか。そうだとすれば。そうだと、するならば。
 思い出す、何度も辿ったリストの名前の羅列。亡きリンドウと、ツバキと、ソーマ、コウタ、アリサ、サクヤ、他の、神機使いや技術者、家族。その、中で、たった一人、名前の無かった者がいた。
「まさか…」
 過ぎる、銀色。彼は言った。――――僕は手を「引かねばなりません」。圧力と強制を滲ませたそれが、もしも、シックザールの言う、愚かな行動であったのなら。
 しかし、水中の輝石を掴みかけた彼女達が答え合わせを求めるより、男の手が挙がる方が早かった。
「これ以上話す事もあるまい。申し訳ないが、君達にはここで消えてもらおう!」
 高らかな先制の響きが頭で理解する手間を省いて身体を操り、緊張した二人の腕が神機を構えて…けれど、それだけ。予想に反して静寂に沈んだ広間には鈍い機械音だけが不気味に這い蹲り、攻撃の知らせに神経を張り詰めさせた二人に襲い掛かるものは銃弾の一つも無かった。本来なら、男の指示に従い、セーフガードが襲い掛かってくる筈だが、無機質な殺気すら強張った頬を掠めてはこない。
 警戒を解かないまま、訝しげに視線を一巡させるサクヤに答えたのは、件の男ではなく、銀髪をかき上げて胸を張った少女の声。
「あら?残念ながら、残りのセーフガードは私が全て破壊しましたけど?」
 それ、ざまあみろ。目で語りながら誇らしげに顎を上げて髪を靡かせるアリサが思うのは真にそれだ。後手にばかり回ると思われては第一部隊の名が廃るというもの。どうやら私兵を侍らせるまでには至っていない黒幕から名誉挽回ついでの釣りでも貰おうかと、とりあえず、思いつく限り、目に付く限りのセキュリティを壊して回ってきたのは無駄ではなかったらしい。
 サクヤの救出がまるで危機に駆けつけた王子の登場のようになってしまった事も、間抜けな支部長がハンカチを一噛みでもすれば、コウタが好きそうで、且つ、ソーマがくだらないと一蹴するような正義の味方の土産話にでもなるだろう。
 十分な痛手を与えられたとふんぞり返って見せた彼女を一瞥したシックザールは、しかし、少女の思惑とは裏腹に笑みを崩しはしなかった。
「そうか、それは困った」
 やんわりと言ってのける彼の微笑は寧ろ、企みにほくそ笑んでいるようにも見える。罠にかかった兎を嘲り見下すような、小馬鹿にするような、微笑。それを訝るより、早く、再び開くにやけた唇。
「では仕方ないので、二人で殺しあってもらうとしようか」
 意図を図りかねる言葉を吐きながら不意に視線を下、後方へ向けた男につられて同じく視線を移したアリサは、階段をゆったりと上ってくる人影に息を呑んで顔を強張らせた。
 無精髭の目立つ壮年の男が翻す衣が少し汚れている。捲くった袖から伸びる褐色の腕は医者のそれにしては細くは無く、皮膚が厚そうな太い指で黒髪がはみ出すニット帽を直しながら熊の如くやって来る様は白衣を着ていなければ医者とは思わないだろう。口元にあるのはアリサが見慣れた微笑。今は背筋が凍るそれを浮かべて骨の太い肩を揺らす男の瞳が、色眼鏡の奥で穏やかというには陰湿な光を帯びて暗く光っている。
 知っている。アリサにはとても馴染み深い人。そして、サクヤにはアリサという接点以外の無い、名前だけの男。
「オオグルマ…先生…」
「やあ、久し振りだねアリサ」
 優しさが冷たい。暖かさが凍る。声が足元に泥を注ぐ。纏わりつく錯覚に一歩後退したアリサと距離を詰めるように進み出たオオグルマの足が二歩、鋼鉄の床を進む。
「できればあのまま眠りについてくれればよかったものを…そんなに殺したり無いなら、また手伝ってあげようね」
 決定打だ。少女の脳裏で冷静な部分が過去についてそう判じた。――――先生は、否、先生が、自分にリンドウを殺させたのだと。最早、疑いに留める要素は何処にも無い。猫なで声で語るこの男が、復讐の銃口を捻じ曲げたのだ。そうして彼女は漠然と理解した。「二人で殺しあう」の意味を。途端に襲う、冷えた鋭い爪先に胸を内側から撫でられる感覚。
 彼が此処にいる。シックザールに呼ばれた。何の為に?答えは、そう、明らかだ。
 がちがちと震え始める指が手にした神機の引き金から剥がれ掛けたのは、多分、本能だったのかもしれない。
「なに…を…?」
 呟き、けれど、悲しいかな、遅れて事態を理解した彼女が戦慄く問いで時間を稼ぐ間は無かった。釘付けになった視線の先で、問いの意図を理解していた男が皮肉げに吊り上げた口端から、虫唾の走る野太い声が洩れ出でる。
 低い、耳に慣れた、悪魔の言葉。
「アジン」
 やめて。アリサは叫んだ。胸の奥底で。視界にちらつく、モニターに示されたリンドウの姿と、それを敵だと囁く声。
「ドゥヴァ」
 やめて。アリサは叫んだ。力の限り。明滅する意識に映る、切り替わるモニターの絵と、写されたサクヤの横顔。それを敵だと囁く声。
「トゥリー」
 やめて。アリサは叫んだ。声も無く。震える指。腕。吸われるように抜ける力。揺れる銃身。虚しく装填される銃弾の音。

 揺らいだ銃口は、サクヤを捉えた。

「アリサ!!」
 迷い無く向けられた銃口が、銃身の先が震えている。咄嗟に呼びかけたサクヤの目に映るアリサはあの日と同じだ。澄んだ冬空が木の洞の如く暗く淀み、半開きになった唇が今にも謝罪と悲鳴を上げて喚き出しそうなくらいに引き攣って痙攣している。見開いた双眸。恐怖以外の表情を落として歪んだ顔。彼女は正気か、否か。問うまでも無い。思い返すあの日も、こうして恐慌に溺れ、震えながら足掻いていた。
 そう。彼女は「足掻いていた」のだ。認識すると同時、鋼鉄の金網を擦った靴底が震える少女へ向かって床を蹴る。
「アリサ、貴方はもうこんな暗示になんて負けない!だって、あの時も、貴方はリンドウを撃ちはしなかった!貴方は始めから、こんなものに負けてはいなかった!」
 根深く息衝く復讐心に絡めて長年に渡って刷り込まれてきた暗示に抗うのは容易くはない。だが、アリサはあの日、憎い敵だと無意識下に強く刷り込まれてきた筈のリンドウを撃たなかった。彼女が撃ったのは「教会の天井」だ。決して、リンドウ本人ではない。結果的に彼を死に至らしめる事になったとはいえ、彼女が直接、手を下した訳ではない。それがどれ程大きな意味を持つのか、恐らく、アリサ自身ですら理解していないだろう。
 知らず、操りの糸を身体に絡ませた彼女が、暗澹に沈んだあの瞬間、たった一度だけ、戒めを振り解き、掴み取った自我の欠片。至宝に近い一瞬の奇跡は彼女が内に秘めた強さの、何よりの証明だ。瞬目のうちに湧き上がり、鬩ぎ合う意思と悪魔の甘言の合間で彷徨う事は、怖ろしく、不安で、心細かっただろうに、その中で、彼女は確かに「彼女」を見失わなかった。恐れ戦き、言葉も発せ無い程に震え、それでも抗い続けて、漸く、自分を掴んだ彼女が甘言に操られた弱者だなどとどうして言えるだろうか。本能に近い意味合いで刻まれた命令に背いたという事は即ち、それに己が理性が打ち勝ったという事に他ならず、その時点で、彼女は既に甘言の敗者ではないのだ。
 種が無くば育つものは無い。彼女は始めから持っていた。大切なものを大切だと思える強さを、それを守りたいと思う強さを、そして、信念の元に闇に抗い、身に絡む糸を断ち切る強さを。
「そう、大事な人を守る強さを、持っていたのよ!!」
 懸命に抗った結末は朗らかなものではなかったかもしれない。後悔と、罪悪と、悲哀に満ちたものかもしれない。けれど、彼女が強さの種を持っていなければ、この結末はもっと違っていたのだ。
 リンドウが犬死にし、オオグルマの言う通りに彼女が永遠の眠りにつき、誰も何も知らぬままアーク計画が実行される。それがシックザールの描いた高尚な脚本であろうが、そんな悪趣味な――サクヤにすればそれは悪趣味以外の何物でもない――脚本は、今、この場に少しも再現されてはいない。
 今ある現実は、サクヤがエイジスへ辿り着き、セーフガードに殺される事も無くアリサと共に真実に直面している様だ。状況を構成する要素の一つが、アリサに芽吹いた強さであるのは言うまでも無い。蒼穹の月の後、サクヤが抱く漠然とした違和感を決定付けたのは他ならない病室でのアリサの証言である。自分達が本格的に動き出したのは、あの時からだ。言い換えれば、彼女が精神を歪める危険を冒してまで抗わなければサクヤはこの現場にすらいないだろう。
 その彼女が向ける銃口。見開いた目。戦慄く白い指先。それが、正気か、否か。顔を見て分からぬような仲間になった覚えはない。…少なくとも、サクヤはそう信じている。
 止まらぬ足音はともすれば無慈悲に装填された弾丸が炎を纏うまでの数えにすら聞こえただろうか。高らかなヒールの音を響かせ、光が噴出そうとする銃口へ正気とも思えない道を辿る女と、一歩一歩、近づく距離に悲鳴を凍りつかせながら後ずさる事も出来ない少女と、その様を優雅に眺める無粋な観客達と。悪趣味なのが誰なのか最早、指摘出来る常識を持つ者も欠いた空間に、直後、狙いを定めた一度きりの発砲音が目を焼く光と共に響き渡った。
 光輝が消えぬ内、堪らず歓喜の声を上げたのは温和な衣を払ったオオグルマ。
「ふはははは!血迷ったか、サクヤ!」
 色眼鏡の奥の両眼を見開き、顔を歪めて器用に大口を開けて笑う彼は常人が見れば数歩は後ずさったに違いない。決して上品とは言い難い笑い声を聞きながら、僅かに眉を顰めたシックザールは口元の作り物めいた微笑を片付け、片手を腰に当てて光の霞がゆるりと晴れ行く先に目を凝らした。
 確かな発砲音と微かに見えた軌跡は確実に女の胸を目指し、溢れた光輝はそれが命中した事を証明している。そもそも、向けられた狂気の銃口にあえて身を躍らせるなど愚かと言わず何と言おうか。あの距離では外す方が難しいというもの。自ら、アリサの狂気を助長する役を買って出たのか。思い、彼は己の早合点を嘲りで打ち消した。――――アリサの、絶叫が聞こえない。あれ程接近していたのだから血飛沫くらいは浴びている筈。そうであれば、視界を白く染める波の中、逸早く己の所業を理解した彼女がすぐさま世界が割れ落ちるような声の一つも上げている筈だ。それが、何も聞こえない。だが、確かに命中していた筈だ。
 耳障りな高笑いを意識の隅へ追いやり、光輝が溢れた瞬間を思い返したシックザールの双眸が、ふと、訝しげに細まった。
 当たっていた。確かに。それは間違いない。しかし、思い出せ。一瞬の光。溢れ、消えていく今の光。目の前のこれは「本当に白い」か。「淡い緑」ではないか。
 理解した彼が柔らかな新緑の光に佇む二人の影を見つけるのと、高笑いを飲み込んだ無粋な男が無様に驚愕するのは同時だった。
 だらり、弛緩した腕を垂らしたながら、それでも手放せない神機に指を引っ掛けて浅く息をする少女を抱え、ヒールを力強く金網に擦らせた女の朱の双眸が業火の如く苛烈に煌く。
「何!?」
 悪役も月並みばかりでは三文芝居にも劣る。観客も飽き飽きだろう。この程度ではオオグルマの地位も程度も知れるというものだ。シックザールもこの男が「此処まで役に立たないとは思わなかった」に違いない。
 笑い出したい衝動を堪え、先に彼が口にした台詞を脳裏で吐いたサクヤは片手に気を失ったアリサと神機を抱え、片手を振り上げた。手にしたのは、スタングレネード。
「お生憎様。回復弾よ」
 言うが早いが、遠慮も加減も無く床に叩きつけたそれが柔らかな光弾とは比べ物にならない鋭さで視神経を刺激する。――――抜かった。驕りが鼠を逃がしたと悟った時にはもう遅い。次に見えたのは空の広間。
 未だちらつく光を幾度かの瞬きで漸く払ったシックザールは視界から消えた二人の神機使いが影を落としていた場所を当たらぬ視線の矢で射抜き、苦々しげに舌を打った。
 よもや開発させた回復弾が裏目に出ようとは。いつか実用されるものであったとはいえ、開発を遅らせるべきであったか。神機使いの保身の為のそれが計画の妨げになるとは想定の範囲外であったと言わざるを得ない。確実な成果を求めるのであれば少なくともアリサに回復弾の使用を認めるのではなかった。予定を変えるつもりの無い計画の遂行に支障は無いにしても、此処で彼女達を逃がしたのは計画を妨害される可能性があるという意味で大きな痛手だ。
「……面倒を増やしてくれる…」
 センカといい、このオオグルマといい、此処まで役に立たない者はただの屑でしかない。塵だ。否、こうして苛立ちを抑えて次なる手を考えている最中にも失態の弁解をし続けるオオグルマよりは調度品として多少は熊より見目が勝るセンカの方がまだましか。あれは言い訳出来ない代わりに弁解もしない。ペイラーの元に行ってもそれだけは直らなかったようだ。或いは、直す気が無かったのか。
 ペイラーとて所詮は自分と同じ学者である。自分が収集したい情報の妨げになるような性格の育て方はしないだろう。何処までも「観察対象として優秀」なように育てるに違いない。或いは、最低限の環境だけ与えて放置するか。生活については常時、記録と報告をさせていたからある程度は知っているが、フェンリルに正式に籍を置いてからはそれも数える程だ。何にしろ、あれが第一部隊に入ってからの様子の評価は自分と彼とで完璧な対極だろう。…そういう意味では、傍から見ればあれも板ばさみの哀れな備品かもしれない。
 長く瞬き、そう思う。見上げる天井の、歪な球体が微かに蠢いた気がして、彼は微かに口元を緩めて吹き込む海風に金髪を靡かせた。
 彼女達が此処へ来たという事は当然、計画の対象者名簿も保持しているだろう。この周辺を嗅ぎ回っていれば自ずとあれの歪さも感知するに至る。そう睨んでセンカの事を匂わせてやったが、思った程の効果は得られなかったようだ。敵視まではいかずとも決定的な距離と諦めを与えられればそれで十分であったというのに。全く、どいつもこいつも。思わず、品の無い言い回しが零れそうになる。
 まあ、それもあと少しの事か。思い、奇妙な腹立たしさが煮えるものではない事に些か不快感を燻らせながら、シックザールは高くブーツの踵を鳴らして脳裏で終局を迎えつつある予定表を広げた。


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小っ恥ずかしい演説を披露するシックザール様の回。おかげで大根王子ことサクヤさんとセ○ム王子ことアリサさんが新型さんの正体に気づきます。

今回の何が難しかったって、苦手中の苦手である動きのある場面が矢鱈多いってことなんですよ!ええ!難産過ぎて困った覚えしかない!!おかげで読み返しはしてないので(オイ)誤字脱字があったらぜひとも教えて下さいませ…(泣)

オオグルマ先生についてはめんどうくさ…ゴフンゴフン。厄介だったのでチョイ役中のチョイ役扱いです。ゲーム本編では結構重要(?)だったんだけどなぁ。私には荷の重い中年でした。
え?本音?ダンディでない中年に用は無い(キリッ!)

アリサさんのトラウマと暗示については作中で示したとおりの考え方です。ゲーム中もサクヤさんの言うとおりだなぁ、と思うところもあったのでそのままにしました。
王子カップル好きよ?うん。うちの女性陣は皆男前!!!

2015/11/03