mono   image
 Back

 どちらも変わらない。

蝶の籠渡り

 ヨハネス・フォン・シックザール。フェンリル極東支部、支部長の椅子に座る男であり、ペイラー・サカキ博士の友人。御歳四十五歳。
 アナグラの者達が知っているのは精々、その辺りだろう。勿論、彼が研究員であった事を知る者が居ない訳ではないが、その数は多くは無い。
 センカがそれを知っているのは、一重に彼がシックザールに生かされている立場だからだ。公にはし難い特殊な関係。そういう意味では、リンドウがセンカに鋭い観察眼を向けるのは正しい行動だった。
「倒れたそうだが、体調はどうだね?」
「問題ありません」
 返る答えに満足げに頷く金髪の男は至極、楽しそうに頬杖をついて、銀髪の一筋から白い首筋、細い腰、爪先までを舐めるように眺める。彼に会うたび、気持ち悪いと思うのは多分、生理的なものなのだろうとセンカは思う。自分にその、「生理的なもの」が存在するのかというのは疑問だが。
「もう、辞して構いませんか?」
 出来れば、早くこの部屋を出たい。息が詰まる。吐き気がする。珍しく自己主張する様を今の上司が見たなら、目を丸めてどういう事だと問い詰めてきそうだ。嗚呼、そういえば、その上司ともこの後、対峙しなければならない。先程、会ってしまった彼は逃がす気が欠片も無さそうだった。先日の取引で逃げてしまった手前、今回は手加減してくれないだろう。気が重い。今日が早く終わってしまえば良いのに。
 無駄に言葉を並べ始めた思考が焦燥を訴える。耳奥でごうごう鳴るのは引いて行く血の音。
 白い肌に少しの青を混ぜ始めた銀色を、男はさも愉快な面持ちで再度、眺めた。
「君に選択権があるとでも?」
 逸れる視線。
「…いいえ」
 世界が回りそうだと、思う。だが、此処で倒れたとしても、廊下に蹴り出されて仕舞いだろう。力を入れた両足が戦慄く。
 くすりと笑った男の吐息が矢鱈と大きく聞こえたのは、多分、錯覚だ。
「冗談だ。任務に戻ってくれたまえ」
 小さな唇から安堵の息が漏れたのは気のせいでは無い。
 ふらりと凍結から解き放たれた蝶の如く扉へ向かうセンカの歩調は、常よりいくらか速かった。


 ちょっとばかり苛められたのだろう、と予想がつくくらいには、酷い顔色だと、戻ってきたセンカを見たサカキはずれた眼鏡を押し上げた。
 手が離せない自分の代わりに彼をヨハネスのもとへ行かせたのは、いくらその書類が他者に預けるには重要すぎたからとはいえ、軽率だったかもしれない。何より、最近、少し安定を欠いているセンカを、彼が苦手にしている相手に会わせたのは失敗以外の何物でもなかった。
「大丈夫かい?」
 問いかける声に返る反応は、あまり良いとは言えない。無言で頷くセンカに渡した水のグラスは滑り落ちそうな様子で頼り無く細い指に包まれている。
「この後、リンドウ君と任務だと言っていたけど…」
「っ!それについては、問題ありません!」
 弾かれたように顔を上げた彼の目が揺れている様を見て、サカキの首が傾いた。――――珍しい、表情だ。焦燥を剥き出しにした表情。高く上がった声。安定を欠く代わりに人間的な感情を表し始めた彼は酷く脆く見える。戸惑いと躊躇いが齎すものなのだろうと思っているが、それにしてもこの反応は気になる。
 中身が減る気配の無いグラスをするりと取り上げ、傍らに置けば、センカの肩が目に見えて強張った。
「…リンドウ君と何かあったのかい?」
 逸れる視線が、語る。
「問題ありません」
「嘘だね」
 遮られて、今度は瞼に隠れる瞳。経験上、これはこれ以上話したくないという彼の意思表示だ。
 ならば、と男は話題を「似たようなもの」に変える事にした。
「リンドウ君が嫌いかい?」
 ぴくり。微かに跳ねた肩で返った曖昧な答えにサカキは目を細める。
 どうやらセンカは雨宮リンドウという男が苦手らしい。嫌い、ではなく、苦手。どう答えを返すべきか思案している姿は嫌悪や畏怖を感じているようには見えないから、それは確かに「嫌い」に分類されるものではないのだ。しかし、苦手といってもそれは彼がヨハネスに感じている苦手意識とは違う部類のものなのだろう。単純で、漠然とした感覚。食べ物で言うなら食わず嫌いがしっくり来る。ヨハネスに対するそれは食べて不味かったから苦手だ、という、それだ。
 目の前で唸り出しそうな彼には悪いが、これは中々、楽しい話題だと思う。
「ソーマには何も感じなかった?」
「…曹長、ですか?」
「そう。データでしか見た事が無かっただろう?実物はどうだった?嫌な感じがしたかい?」
 楽しげに言葉を紡ぐ男に首を傾げながらも、彼は先日、初めて会った実物との短い時間を思い起こした。
 こんな事をサカキが聞いてくるのは自分の精神状態を診る為だろう、とセンカは理解している。連日、安定しない数値に眉を顰める主治医はそれが精神的なものだと思っているらしい。無論、任務の疲労によるところもあるが、血を吐く程、昼夜構わずアラガミを屠っているかといえば、それは無い。
 ぽつり、ぽつりと小さな唇が音を奏でる様を、男はゆったりと眺めていた。
「…嫌な感じは、ありませんでした。ただ…」
 切った言葉の後を続けるべきか、迷う。彷徨う白藍を見つめるサカキはソーマと任務に出た時からこの話を聞きたかったようだから、逃げるのは難しい。だが、この感覚を言葉にすれば彼から緩いお叱りを受けてしまいそうだというのも検討がつく。言うべきか、否か。けれど、答えは初めから決まってしまっているのだ。
「ただ?」
 静かな促しに、センカはやはり耐えられなかった。

「ただ、自分とは…あまりに違うと、感じました」

 冷徹を装う彼はとても人間的だ。触れれば、こちらが溶ける程、熱い温度を持っている。もっと、そう、「もっとこう」だと思ったのに。
 声帯が震えた、刹那。今更、何かが削げ落ちているのに気付いたような感覚が胸を襲う。押し潰される錯覚。或いは、それは窒息死する寸前の凍える寒さであったかもしれない。
「センカ」
「すみません、時間です」
 再度、問いかけようとしたサカキの声を遮り、銀色の蝶は再び逃げ出した。

 嗚呼、引き止めようと伸ばされたその手と笑いながら窒息させる視線の、どこが違うというのだ!



リンドウさんと別れた後の新型さん。結局、サカキ博士もシックザール支部長も、新型さんにとっては同種じゃないか、という話。
文中にある通り、新型さんは中立派の若干、支部長寄りの位置にいます。いる、というか、いさせられている、というか。微妙なものではありますが、博士も承知の上で接しています。あえて、第一部隊寄りに促さないのが博士クオリティ。そして、心配と優しさで伸べた手も勘違いされて逃げられてしまうのも博士クオリティ(ぇえ)擦れ違う父子万歳!(…)
そして、次から漸くまた未来の旦那希望者のターンですよ。

2010/11/11