「おい、顔、青いぞ?」
そう言った上司に彼は答えた。
「問題ありません」
少し震えていた部下の声に、上司は気付かないふりをした。
隣の黒獣
とんでもない顔色だった。エントランスに入ってきた彼を見た時、思わず青と表現したが、それは紛れも無く土の色に近かったとリンドウは思い返す。
念の為、それと無く声を掛けてみたものの、結果はご覧の通り。掠り傷一つ無く綺麗な身体で迎えのヘリを待つ姿が答えだ。ちなみに、ここに到るまでの彼と自分の会話といえば、出発前に交わした、任務地は贖罪の街だ、そうですか、くらいのものである。初任務の時から何の進歩も無い。此処まで来ると反対に涙の一滴も出てこないから不思議だ。代わりといっては何だが、矢鱈と胸が寒くて仕方が無い。
何本目かになる煙草を懐から取り出し、紫煙を燻らせる。横目で見る彼の顔色は、芳しくない。
支部長室の前で別れた時まではそれ程、具合が悪いようには見えなかった。大して難しい会話をした覚えも無い。彼にとって分が悪い話を…まあ、多少はした覚えが無い訳でも無いが、それが原因で彼が此処まで顔色を変えるだろうか。答えは否だろう。以前の会話で遠からず、面と向かって話をしなければならない状況に追い込まれるのは予想できていたはずだ。聡い彼がこの程度で今にも死にそうな顔をする訳が無い。そうなれば、その後、彼が「おつかい」の為に向かった支部長室で何かがあったと考えるのが普通だ。勿論、何があったのかと聞いて易々と答えるような彼で無い事は重々承知しているが。
昇り、消えていく紫煙を気まぐれに、ふぅ、と吹き消して、リンドウは居住まいを正した。――さあ、ここからが本当の戦いだ。自分と、彼との攻防戦。
「センカ。少し、話でもするか」
まだヘリも来ないようだし。何気なさを装った男の声音に、荒んだ町並みを眺める細い肩が一度だけ跳ねる。
ゆっくりと振り向いた彼の淡い青に広がるのは警戒ばかり。まだ青い顔が儚さを助長する。きゅ、と引き結ばれた唇がこれから来るだろう詰問に僅かに震えているのを見て、男は困ったように笑って見せた。
ひらひらと振る手が男が座る瓦礫の陰へとセンカを誘う。
「まあ、そんなに警戒するな。別に取って喰おうってんじゃないんだからな。ちょっとばかり世間話をするだけだ」
世間話。要は他愛も無い話、という意味だろう。あまりそういう事に詳しくないセンカはコウタとの会話内容を思い起こし、辛うじてリンドウの言う「世間話」が「他愛も無い話」だと理解した。しかし、この男を相手にして本当にそういう話が出来るのかは疑問だ。
自分の隣を指差して隣に座るように促す男に眉を寄せ掛けた少年は、けれど、直に内心で首を振った。
今日は彼との取引の関係で此処に来ている。態々、リンドウが出るまでも無い任務に自分が誘われたのは、そういう事だ。自分に拒否権は無い。
これは「命令」。「上司」の「命令」だ。
かしゃり。言葉を飲み込み、神機を抱え直したセンカの小さな体が体格の良いリンドウの隣に収まる。鼻腔を擽るのは紫煙。独特のそれが、心臓が震える程、近い。
さて、何が来るか。この男の事だ。支部長と自分の関係を勘繰って来てもおかしくは無い。別段、自分の事で隠しておかなければならない事など無いが、一応、サカキから他言しないよう指示されている。どうするか。
昇る紫煙のように此処から消えてしまえたらどんなに楽だろう。そう考えたセンカの耳を心地良い音程が撫でた。
「…前にも言ったが、俺はあまりおしゃべりが得意じゃ無い。そんな訳で、まずはお前の好みとかでも聞いとこうかと思うんだが、どうだ?」
「………は?」
間が抜けたのだと、思う。生返事は決してふざけているからではない。彼にしては本当に、本当に、珍しく、素直に、驚いたのだ。
くるり。丸くなった白藍と少しばかり空いた口がそれを物語る。近い距離でそれを眺めるリンドウが軽く噴出しているのが別次元の出来事のようだ。
「おお、それは初めて見る顔だな」
そんな顔も出来るんだな、なんて暢気に言っている男が、やはり、理解出来ない。にやにや笑いながら、可愛いぞー、なんて言われても、困る。予測不可能だ。てっきり、この存在について聞いてくるものだとばかり思っていたのに。
折角、決めた覚悟の在り処を何処に置いていいのかがわからない。そもそもそれが必要であったのかすら、今のセンカには分からなかった。
嗚呼、本当に、この男は理解出来ない。出来ないが、今、胸に巣食う感覚がシックザールを前にした時のそれと同じかと言えば、きっと自分は、そうではない、と答えるのだろう。多少、安心してもいる。しかし、納得出来ないのも確かで…嗚呼、頭が混乱してきた。
微細な表情の変化すら追いかける視線から逃げるように俯けた視線が、地面に静かに転がる石を捉える。
「………それで、良いんですか?」
「ん?何がだ?」
さも当たり前のように返される言葉はあまりに嘘が無さ過ぎて、センカは今度こそ顔を俯かせた。
「貴方は聞き出す事が出来る。先日の取引で、僕はその権利を貴方に与えてしまいました」
言いながら、思う。これは自虐だ。静かに先を促す男の牙を誘おうとしている。先日、彼が眉を顰めた行為を、違う形で再び行おうとしているのだ。
今の彼が望んでいるのは多分、こういう話ではない。きっと、もっと、単純な、例を挙げるなら、コウタが話しかけてくるような、そんな話を、望んでいる。聞きたい事があるだろうに、それを避けて来る。それは気遣いであるかもしれないが、センカには危険な行為のように思えて仕方が無かった。
からからから。風に煽られた小石が視界から外れて行く。
「貴方が僕に関して疑念を持っている事は理解しています。それなら、今回、この機会に、誰もいないこの場所で、それを問い質すのが通常ではないでしょうか」
あえて彼の気遣いを踏み躙るなど、自分はなんて薄情で嫌な生き物だろう。
個人情報の曖昧さ。支部長室への使い。何より、P53因子を投与されているからだけでは無い身体能力の高さに、彼が気付かない訳が無い。どれも疑われるに足るものばかりだ。隊長格がそれを見逃すとは考え難い。
「…俺が、チャンスを棒に振っている、と」
「はい」
短く肯定するセンカが、まるで、猛獣を前にした子兎のようだ。縮こまり、きゅう、と己の神機を抱きしめる姿が矢鱈と小さく見える。顔を俯けてしまった所為で言葉よりも如実に語る綺麗な瞳が見られないのは残念だが、僅かに見える唇の淫靡な艶がリンドウの意識を惹きつけた。意識してやっているのか、否か。答えは後者だろう。
着込んだ制服の襟から覗く白い首筋の色香に思わず喉を鳴らしそうになって、男は目を逸らした。
兎も角、今はこちらから逃げて行こうとする彼を捕まえてやらなくてはならない。
「…あー…なんだ。お前にも色々あるようで、勿論、それが気にならない訳じゃあ無い」
自分が今、密かに調べている事について、そろそろ相手が黙っていてくれなくなるのではないかと薄々、感づいていた。己のやっている事がどれ程危険な事かは判っているつもりであったから、何か不思議な手品のように現れ、入隊してきたセンカに疑惑の目を向けるのは必然だったと思う。おまけにセンカについていくら洗い直しても名前と年齢くらいのものしか出てこない。疑うなという方が無理な話だ。
ついに俺を始末しに出たか、と思ったが、当の彼はぼんやり確実に任務をこなす日々。寝首をかこうなどという気概がさっぱり見えてこない。こうして隣に座る今も、それが杞憂なのか、ただ機会を伺って大人しくしているだけなのか、見極めようとしていた。
ふう。空に向けて吹いた紫煙が渦巻く。
「お前が支部長と何か繋がりがあるのは確かだ。俺はそれについて徹底的に洗うつもりではいる。その上で、敵だと見なせば容赦はしないが…その前にお前をこちら側に引き込めれば形勢逆転だ」
夕空の視界の端でことりと首を傾げる銀色に、笑みが零れた。――――信じてくれとは言わないが、せめて、普通に会話くらいはしてくれないかと願うのは女々しいだろうか。
「過去に色々抱えてるのは誰でも同じだろう。無理に掘り起こすなんて、そんなデリカシーの無い男じゃないぞ、俺は?そもそも、そういうのは自分から話してくれないと意味が無い。誰と誰が関わってるか、なんてのは明らかにプライベートな領域だ。上司とはいえ、他人が土足で踏み込んで良い話じゃない。でもな、俺個人としてはそれは少しばかり面白くない訳で…それなら俺もお前のプライベートゾーンに置いて貰おうと考えた訳だ。だから、」
また空へと吹かれた紫煙を目で追いかけて、揺らめく湖面を静める事が出来ないまま、センカは男の声を聞いた。
「まずはお前の好みから聞いてみる事にした」
嗚呼、今更気付く。
上下関係だけを求めるのは探られるのを不快に感じているからではない。秘密を守ろうとするサカキの為でも、シックザールの為でも無い。他ならない、理解出来ない彼から逃れようとする自分の為だったのだ。
お嬢さん、ご趣味は…的なお見合いもどき会話(自覚済み)
どんだけ動きが遅いのか、当家の隊長は…。ですが、今回は頑張っております。兎に角、他の人と同レベル程度には会話がしたい二十六歳独身(…)まだ自覚していないというとんでもマジック。コウタさん達が仲良くしているのを快く思っている反面、面白くないとか…立派な嫉妬なんだぜ?
対する新型さんは警戒心丸出し。
2010/11/16 |