それは、背徳を犯す時の感覚に似ていたと思う。
木漏れ日
「まずはお前の好みから聞いてみる事にした」
二人の間を埋めるように、風が駆ける。
何て馬鹿な男。そうやって彼はゆるりゆるりとこの首を絞めて行くのだ。噴出す如くに罵倒が脳裏を駆け巡るが、この鉄の面には嘲笑の一つも浮かば無い。
頭がかき回されているようだ。今日は本当に、何なのだろう。シックザールといい、サカキといい、この男といい、滅茶苦茶だ。何が楽しくてそんなものを聞いてくるのか、理解出来ない。個の感覚など、この身にある筈がないのに、執拗に彼等はそれを聞きたがる。
詰まる呼吸に身を丸め、抱えた神機に擦り寄る彼はそれでも、支離滅裂なこの日を乗り越えようと目を閉じた。紫煙の香りは恰も自分を此処に繋ぎ止める鎖のようで、聞こえるその声はまるで手足に穿たれる杭だ。
「俺は…まあ、見てわかるか。好物といえば配給ビールだが…同じくらい煙草は手放せないな」
知っている。サクヤが配給ビールを強請られたと言っていて、コウタはリンドウは煙草を吸い過ぎだと言っていた。
「ああ、そうだ。お前、この間、コンゴウ倒した時、鎮魂の廃寺に行っただろ。あそこ、俺と姉上とサクヤが小さい時に住んでた場所なんだよ。今じゃ見る影も無いけどな」
それは、知らない。リンドウについてのデータを見る事は無かったから、それは初耳だった。
「雪の中で戦うお前は綺麗だったろうと思うとその場に居なかった事が悔やまれて仕方ないが…ま、いくらでも時間はある。臨場感たっぷりに報告されて、尚且つ見なきゃ損とまで言われたら、こっちも妙に燃えてくるし。…という訳で、今度行く時は俺とデートだから覚悟しとけよ?」
ちょっと待て。
「……それは、コウタさんからですか?」
見なきゃ損だとか、何だとか。
「応。俺の言いつけを守ったなら、あの任務に行ったのはお前とあいつだけだろう?」
にやにやしながら言われると、何故だかこちらの腹が煮えてくる。とても珍しい現象だと自分で分析してみるが、最近はこういう事がどうにも多い気がしてならない。そういった時に関わっているのは大抵、目の前の男だ。
白い壁と、研究者と、薬しかなかった世界に彼が現れて、随分、ものを見る感覚が変わったように思う。それがサカキの言うように成長なのかは判らないが、こちらがその「変わった感覚」を味わう度、熱い何かが胸を抉るのだ。――――危険だと、思う。この感覚も、この男も。全てを知ったなら、全てが変わってしまいそうで、だから、いつでも自分は彼から離れたがる。無意識のそれは本能に近いものなのだろう。所謂、防衛本能。
黒檀の髪の合間から煌く麹塵が、暖か過ぎて、温度の無い自分にはあまりに熱すぎた。
「どうだ、こっちはかなり教えたぞ?お前の好みを教えてみる気になったか?」
鼻腔を擽る紫煙の香りに頭が痺れそうだ。くらりと眩暈を感じた身体が、己の熱を宿した神機を認識する。――自分の、存在そのものと言って差し支えない新型の神機。センカの中で全てを許される数少ない存在の一つだ。人を相手にする時のように自己と他の距離を測らなくても良い、稀少な存在。そして、同時にそれは、嫌悪の対象でもあった。
かしゃ。抱いた神機の温度はあまりに自分に近すぎる。そして、それは真理なのだ。
「……物は、使われるものです」
ぽつりと零れた言葉の脈絡の無さに、しかし、リンドウは口を噤んだ。砂を孕んだ風が銀色を撫でて、過ぎて行く。
「物に心はありません。使われているものが意思を持つ事に、どれだけの意味があるのでしょう」
アラガミと自分の境目。センカを縛する根底のもの。それが如何様なものなのか、「人」である雨宮リンドウという男には理解出来ないだろう。そして、それは決して知ってはならない事だとセンカは認識している。同じように、物が人間的な何かを持つ事はあってはならないのだ。
けれど、これくらいで踵を返すような男ではない事は、彼の視線を受けるセンカ自身が一番良く知っていた。
紫煙が揺れる。
「…お前は人で、生きてるだろう」
ほら、戸惑いながらもこうして踏み込んでくるのが彼だ。それだけで意味がある、とのたまう彼に、お前に何がわかると喚けたら爽快だろうか?それでもセンカが男の胸倉を鷲掴まないのは一重に、そのやり方を知らないからだ。主張する自己すら無いのに、何を主張するのか。
「何か無いのか?トウモロコシが好きとか、読書が好きとか、実はコウタ並みにバガラリーが好きとか…何でも良いんだぞ?」
引き下がる気の見えないリンドウに今度は溜め息が漏れそうになる。いくら諦めさせようとしても無駄だと瞳が語っているから、今回は本当に見逃してくれないのだろう。
仕方無しにセンカは神機に目を落とした。
好きなもの。「センカ」が好きなもの。…駄目だ。考えた事も無い。データを閲覧するのは必要だからで、任務に出るのはそれが命令だから。食の好き嫌いは…特に気にした記憶も無い。プライベートといえるプライベートがあるかも怪しい自分に与えられる自由な時間は大抵、眠りに落ちているから、それが「好きなもの」だろうか。否。それは「必要な事」で「好きなもの」ではない気がする。どうする。判らない。どうする。
ターミナル。本。ベッド。モニター。台所。冷蔵庫。クローゼット。順番に部屋の中の物を思い描いて、記憶がベッドサイドを辿ろうとした時、ふと意識がそれらしいものを捉えた。
「それ」はサカキに貰ったものだったような気がする。データで見た「それ」をセンカがあまりに良く見つめるものだから、サカキが暇を見つけて「それ」を調達してくれたのだ。君の物だ、と言われて渡された時、初めて間近で目にする生の「それ」に酷く胸が騒いだのを覚えている。「自室」を与えられた時も、何も無い自分は唯一つ、「それ」だけを持って行き、今も「それ」は褥のそばでふんわり揺れている。世話は欠かさない。少しでも草臥れたように見えようものなら、手を尽くして持ち直させた。任務先でも僅かにこの世界に残る野生の「それら」を見てどうにか持って帰れないかと密かに思ったくらいだ。
そうだ。それだ。きっと、「それ」が好きなものだ。禁忌の芽吹き。けれど、抗えない。変えられない。――――緑色の、透かせば静脈のような命の筋が見える「それ」は、
「植物」
「んあ?」
間抜けな生返事が耳を掠めたが、気にする余裕は無い。何故、今まで気付かなかったのか。そうだ。それは「好き」という「感情」だ。知らないうちに持ってしまった意識が、染み渡る水の如く胸から全身に広がる。
「植物は、好きです」
その時の彼の顔を、煙草を咥えて呆けるリンドウは一生忘れないだろうと思った。
目の前で鮮やかに色付く光景に時間が止まる。仄かな熱に頬を染めて白藍を細める姿に、高鳴る胸の音すら意識の彼方に追いやられ、全てを奪われる如く感覚が銀色の燐光に囚われた。
リンドウの奥底を熱く掻き乱し、僅かに見開いた麹塵を捕らえ、放さないもの。白雪を輝かせる木漏れ日の清かさのように、淡く、柔らかな――――銀色の微笑。
おまえのえがおにずきゅんばきゅん(古いよ)リンドウ隊長は絶賛フォーリンラブ中です。
で。何度も言いますが、隊長はまだ無自覚です よ 。 奇跡の鈍感スキル。新型さんはそんなものどうでもいいどころか、自分の事で精一杯なわけですけれども。
新型さんが植物に興味を持った瞬間とかきっとサカキ博士的には無視出来ないものだったんじゃないかと…。いつか書けたら和み度が増しそうな気がします…。
ちなみに、新型さんはソーマ氏の事はデータで知ってましたが、リンドウさんについては全くノーマークだでした。
2010/11/16 |