「おう、おかえり」
笑う貴方から、血のにおい。
うそつきのにおい
ウロヴォロス。その姿は山のようだという。数多のアラガミの中で最も巨大なオラクル細胞の結合体。
先の放送で「第七部隊が」そのアラガミの核の剥離に成功したというが、本当だろうか。笑いながらコウタ達と今日赴いたというデートについて言葉を交わすリンドウを見つめるセンカの双眸は腕に抱く神機の刀身の如く、細く冷えた。
ソファの中央に脚を組んで座する男の仕草に変わりは無い。強いて言うならば、身体の左側の動きが多少、ぎこちないくらいだ。見るに、ひらひら動かす腕の肘から先にその気配は無い。負傷は恐らく、左肩。目立つのはそれくらいか。その他で気になる箇所といえば、照明に照らされる漆黒の髪だろう。いつもより輝きを強くしているのは、少し濡れているからであり、それはつまり、頭から水を被らなければならない程汚れたという事だ。乾燥にまで至れなかったのは、こちら側の任務が予想より早く完了した所為か。
加えて、密やかに神経をじりじりと焦がしていく、空気に混じる「それ」。
「デート云々っていうか、女の子を俺達に紹介するのが先じゃないっスか?」
少しむくれたコウタの言葉で途切れた会話が、合図だった。――――するり。雲の上を歩くような足取りで、銀色がソファに座る漆黒へ歩み寄る。今まで、一音も紡がなかった彼がふいに動いた事に周囲から驚きの視線が飛ぶが、気にかける素振りは微塵も無い。
数歩も無い距離を縮めるのは、存外容易かった。
「…センカ?」
瞬く、麹塵。黒髪の合間から見上げてくるそれがあからさまではないにしろ、驚愕を孕んでいる。何事も無い風を装う男の態度に、尚、温度を下げたのは、白藍の双眸。
開き気味になった唇に引っ掛かっている煙草を流れるような動作で奪い、灰皿に押し付けた指先が逞しい肩に触れた時、今度こそリンドウの目が見開いた。
止める間も無くソファに乗り上げ、するすると、しな垂れかかるように男の身体に重なる華奢な銀色。細い腰が悩ましげにくねれば、ぎしりと悲鳴を上げるスプリング。組まれた男の脚を跨ぎながら、片の手でソファの背を抱き、もう片の手は触れた肩から鎖骨、胸までを緩やかに辿る。摘んだインナーのファスナーをじりりと下げる白い指先は娼婦が誘うそれに似て、しかし、睦言を囁くような甘さは何処にも無い。あまりに温度差のある行為。公衆の面前で行われるには淫靡すぎるその行為は、だからこそ誰も止められなかった。
首筋を擽る黒髪を小さな鼻先で退かされ、すん、と鼻を鳴らされれば、有り得ない程、近い距離で肌を撫でる銀色の吐息に、あらぬ場所に血が集まる。漸く喉を上下させて飲んだ唾液がやけに重く感じるのは、頭を擡げる浅ましい情欲までも飲み込んでいるからかもしれない。呆然とする頭の奥で男はそう囁く。
肌を掠る唇が、腰を抱け、と誘うようだと思った、刹那。
「血のにおいがする」
「っ!なっ…」
弾かれたように合わせた視線に絡むのは、氷の白藍。惹きつける色香はそのままに、双眸だけが凍てつく刃を抱くその様に、どくり。心臓が嫌な音を鼓膜で鳴らした。
持ち上がりかけた腕が凍りつき、艶めく唇から目を離せない。
「随分と、激しい淑女のようですね」
石鹸の香りに隠された生臭い匂いはセンカでなければ気付かないだろう。上手く隠されているが、「センカだからこそ判る」匂いが残っている。鉄のような、獣のような、荒々しい肉のにおい。吐き気がする程、馴染み深い、それ。――――間違いない。ウロヴォロスを屠ったのはこの男だ。「第七部隊」ではない。或いは、「彼が第七部隊」なのか。どちらにしろ、アラガミとデートとは随分、危険な趣味を持つものだ。或いは、洒落のつもりなのか。
すん。もう一度、鼻を鳴らせば、鼻腔に満ちる煙草の香りと生々しい血臭が、眼前で重く上下する喉仏に噛み付きたくなる衝動を煽る。
以前、サクヤにアラガミと自分の境目が判らないと言ったが、仲間意識があるかと言われれば答えは否だ。神機使いに対して、他のアラガミを屠られた事に対する恨みが込み上げるような事は無く、かと言って、屠られたアラガミに同情する訳でもない。牙を剥いてくるものは敵であり、それ以上でも以下でもないのだ。もとより、そういった感覚を理解出来ない身としては、仲間意識というものが何なのかそもそも判らなかった。
そう。判らない。理解が出来ない。今、込み上げている煮え立つ感覚が何なのか、自分は知らない。知らないものは理由にならない。理由にならないものは意味が無い。意味が無いものは抱くべきではない。…だから、むせ返るような血臭の中で笑う彼に抱くこの思いは「悪いもの」だ。ぼんやりと、そう判断する。
この牙を、収めなくてはいけない。これはただの勘違いだ。根拠の無い八つ当たり。何の、と言われれば、答えに窮するけれど。
犬歯を剥き、大きく口を開きそうになった身体を、センカはそっと目を閉じる事で押し留めた。代わりに、脈打つ鼓動を伝えるリンドウの胸の上に置いた手が拳を作る。触れる体温の、何て熱い温度。
数瞬の沈黙の後、ぎしりと再度、ソファに悲鳴を上げさせて、細い銀色は男の上から身を起こした。その白藍に映るのは、見開かれたままの麹塵。――嗚呼、やはり、この人は駄目だ。煙草の香りが頭の奥を痺れさせる。せり上がって来るこの感覚はどう名付けられるものなのだろう。
握った手の内で、ぷつり。生まれる鉄の匂い。爪の食い込む音。
「爪痕が膿む前に処置する事をお勧めします」
エレベーターへ向かう銀色は、その扉が閉まるまで振り返りもしなかった。
ラボラトリへのボタンを押して数秒後、蛍光灯の白い光がやけに眩しく網膜を焼く小さな箱が動き出してから、センカはふと思う。
彼はどんな状態で帰って来たのだろう。どんな思いで、帰って来たのだろう、と。
リンドウさんの仕事の早さには仰天しますが、やはりどこまで誤魔化せるんだろう、という話で…ウロヴォロスが相手なんだから返り血だって大変そうだろうに…。シャワー程度で落ちるんですかね?
しかし…内容的に見るとリンドウさんが珍しく良い思いしてる訳で……ちっ!いつも可哀相な癖に!!(ひどい!)リンドウさんのエンジンがかかってしまったら可哀相度が激減しそうですし…今の内に可哀相にしておいた方がよさそうです(だから、ひどいよ!)
2010/12/02 |