嗚呼、この人は「人」なのだ。
低温と高温の狭間で
笑っている、といえば、彼はいつも笑っている。しかし、それは微笑んでいる、という類の朗らかなもので、決して、大笑いだとか、馬鹿笑いだとかいうものの類ではない。万が一にでも、ペイラー・榊が馬鹿笑いなどしようものなら、ヨハネス・フォン・シックザールの見事な金髪が禿げ上がってもおかしくは無いと断言出来るが――――その「禿げ上がるような事態」が今、まさにセンカとソーマの目の前で起きていた。
「あははははは!き、君達…っ…本当に…ふふふふ、ははっ…け…傑作だよ…!!」
「いい加減にしろ!急患だっつってんだろうが!!」
腹を抱えて笑い転げる男に向けて、褐色の肌を赤く染めたソーマが吼える。検査台の上で沈黙したままのセンカは只管、羞恥と頭痛と身の内でのたうつ熱に耐えるばかりだ。身体を丸めて震える姿を捉えた青い双眸が焦燥を帯び、また吼える。繰り返すのはこれで三度目。いい加減にして欲しいものである。
ソーマに担がれてラボラトリの扉を開けた時のサカキの顔といったらなかった。
ぽかんと口を開け、ずれ気味の眼鏡がついに鼻から落ち、手からは纏めたばかりの点滴のチューブが盛大に床へ落ちる。僅かに見開いた細い糸目。戸口で華奢な銀色を荷物抱きしながら仁王立ちする青年を見つめ、たっぷり間が空いた後には間欠泉が噴出すかの如く観察者は噴出した。大笑いだ。彼が声を上げて馬鹿笑いする所など初めて見たセンカは、だるい身体をどうにか捻って漸く視界に端に捉えられたサカキの姿に、これもまた珍しく、目を見開いて驚いた。
勿論、暢気にしていたのはラボラトリに入り浸る二人だけで、比較的常識人の枠に収まるソーマは熱を上げて行く腕の中の存在を気にしつつ、顔を真っ赤にして吼えたのだけれど。
「ご、ごめんごめん…君達があまりに予想外な登場の仕方をするものだから…っ…」
ひーひー言いながら謝られても今更だ。思いはすれど、言葉に出来る気力も無い。霞みかけた視界の中で検査台に背を預けて座り込むソーマも疲労したようだった。
眼前の青いフードを見つめる白藍を遮るようにサカキの手が白い額に触れる。
「うん。立派な高熱だね。少し、待っていなさい」
瞬きで頷く様子に満足げに頷いたサカキを、つん、と袖を引いた手が止めた。
振り向いた先で見るのは不機嫌さを隠さない潤んだ双眸と、その傍らで袖を掴んだ細い手を意外そうにフードの下から見つめる青い瞳。喘ぐ唇から零れた言葉は一言。
「やぶいしゃ」
「…どこでそんな言葉を覚えてくるんだい?君は」
後で出所を聞かせてもらうよ。苦笑一つで暴言を流して離れる男は実のところ、この展開が面白くて仕方が無いに違いない。現に、彼の言葉には多少の呆れがあったとはいえ、大半が狂喜で構成されていたのだ。長い付き合いで、それが分からないセンカではない。
今まで暴言など吐いた事の無かった存在が、何処で覚えたのか、藪医者などと罵ってきた事はその感情の発露に興味を抱く者としては好奇の逸材なのだろう。この後はソーマとの間に何があったのか、何を感じたのか、根掘り葉掘り聞かれる筈だ。思い描くだけで重い溜め息が漏れる。
ゆるりと視界を瞼で遮り、また光を映して、センカはふとその視線に気付いた。――――長い白金の前髪を縫い、見つめてくる、青い双眸。
「……曹長…?」
座っている位置の所為だろう。青いフードを被った頭が直そばにある。いつも見上げている青い瞳が、今は近い。煌く髪の一筋一筋すら認識できる距離で、彼は呆然としていた。
曹長、ともう一度小さく呼びかければ、漸く、現実に戻ってくる彼の目が瞬く。
「…どうか、なさいましたか?」
「いや、意外だと…」
「?意外?」
鸚鵡返しするセンカに、ソーマは気まずげに視線を逸らした。言って良いものか、否か。彷徨う視線が躊躇いを表す。
センカという新型神機使いはソーマにとって理解し難い人種だったが、決して嫌な感覚を持つ対象ではなかった。ぼんやりしながら、けれど、任務は確実にこなすその性格。戦闘技術の高さ。何より、必要以上に近づいて来ないある種、排他的な性質は他人を拒絶する自分と非常に相性が良いのではないかとソーマは思っている。しかし、問題は言わずと知れた会話能力の低さだ。コウタが壊滅的だと評したそれは第一部隊屈指の会話能力の高さを誇るサクヤでさえ敵わなかった。ソーマをも超えるそれには誰もが両手を挙げるに違いない。無論、ここで逡巡する彼自身もその一人である。
「あー…その、なんだ…」
唸る男を見つめる静かな瞳。
コウタ曰く、彼は会話能力が低いだけで会話自体は可能だという。実際、今日の任務でコウタは彼と見事に会話をしてみせた。結果がどうだったにしろ、そこに何かしらのコツがあるのは確かだろうが…不思議の代名詞とまともに会話が出来るのか。自身も会話能力が高いとはいえない自分には中々に高いハードルだった。
ごくり。喉が鳴る。
「…お前が、おっさんにあんな事言うとは思わなかったからな…」
あんな事。思い当たるのは、あれだ。藪医者。白藍が緩く瞬いた。
「検診を受けた直後に倒れたので、その兆候を見落としたあの人に苦情を言っただけです」
ゆっくりと上下する長い睫毛が、羽のようだ。指の一本すらまだ動かす気力の無い彼の儚い様はまるで溶けて消えるようで、あまりに心許無い。小さな声を聞き取ろうと動いたソーマの顔がまた距離を詰める。
「検診?持病か」
断定的な言葉に、しかし、銀色は、いいえ、とまた緩く瞬いた。
「製造過程での欠陥の齎す弊害です」
酷く人間味の無い言葉が青い瞳を見開かせる。確かに人の声で紡がれる、人を表さない言葉。それは確かに、センカを表すものであるはずなのに、ソーマにはそうと感じられない程、完璧な別次元の言葉だった。
声が、出ない。正確には、どう言えば良いのか分からないというべきか。
製造過程での欠陥の齎す弊害、とはセンカが生まれる際の、例えば、遺伝子欠陥だとかそういったものが齎す病だとか虚弱だとか、そういった類のものなのだろうが、そうと結論付けるには彼の言葉は明確に物品を表していて、どこか引っ掛かる。心の中の何かが、そうではない、と叫んでいる気がしたのだ。
凪いだ湖面の如く静かな双眸で語られる温度の無い言葉が何を指しているのか、聞けば答えてくれるだろうか。口を開こうとして、彼は直にそれを諦めた。――――諦めざるを得なかった。
「曹長の言葉で言えば、持病でしょうか」
す、と細められた白藍の、淡い微笑み。少しばかり困ったように浮かべられたそれがソーマの口を塞ぐ。
「すみません。まだ、感覚が理解出来ないのです」
この、自らに芽生え始めた人間的な感覚を理解するのは時間が掛かりそうだと、センカは思う。現に、今、以前の感覚のまま、ふとした拍子で紡いでしまった自己を表す言葉は確実にソーマを傷つけてしまっただろう。人間として振舞うのは、本当に難しい。けれど、それ以上に温度が無いと思っていた「もの」が己の温度に気付こうとする事も、難しい。
もし、自分の認識が間違っていないのなら、この言葉の意味を理解出来ないに違いない彼は、それでも、問い質したい思いを捻じ伏せてくれる筈だ。訝しく思いながら、それでも待ってくれたリンドウのように、彼は、温度がある「人」なのだから。
小さく息を吐き、座りなおしたソーマの頭が揺れる。
「そうか」
「はい」
短い言葉一つで伝えられるものは、一体、どれだけあるのだろう。
データでしか見た事の無かった存在が温度を持って目の前にいる事に妙な違和感を感じたのは、きっと、初めて話したあの日だけだった。
今の彼は、とても暖かい。
十八歳男子が十六歳男子を荷物抱きして仁王立ちで現れたら博士じゃなくても笑うと思うんだが、どうだろう?(何)
という訳で、ソーマさんにも病弱が発覚した新型さん。会話をしている最中の二人の距離がかなり近い設定なのは私の趣味です。はい。で、でもこの長編はリン主です よ !!
まあ、リンドウさんはひとまず置いておいて(酷)、ソーマさんも新型さんの不思議さには興味があるのでちょっと近付いて話を聞き逃さないようにしたりする訳です。今回は返り討ちに会いましたが、今の所、少なくともリンドウさんよりは親しいので任務だって一緒に行けちゃったりしそうです。
今の所の親しい人ランキング、まさかの大穴、三位の人・ソーマさん(ぇえ)
2010/12/16 |