あの人だけは呼べない。
それは呼べない、せめて今は
「コウタァアアアア!上手くいったぞ!」
「本当ですか!?やったー!」
ひしっ。エントランスに足を踏み入れるなり、感無量とばかりに感激を分かち合う男二人が抱き合った。飛び込んできたタツミの後に続くブレンダンとジーナもにまにましながらコウタとハイタッチなどしているものだから、事情を知らない面々には異様な光景である。
傍からその様子を見ているリンドウとサクヤ、ソーマにしても同じだ。コウタに「絶対に面白い事があるから部屋に帰っては駄目だ」と言われて時間を潰す事数時間。予想よりも遥かに遅く帰って来た彼等に理由を問う前に、この事態。意味が分からない。
今回の任務を提案したのは誰あろう、第一部隊新米偵察兵、藤木コウタである。前日の夜、密かにエントランスに集められた面々に彼は、センカを防衛班と任務につかせよう、と言ったのだ。突然の提案に首を傾げつつも、人当たりの良いコウタに比べ、お世辞にも社会性があるとは言い難い新型神機使いを気にかけていた第一部隊の面子が首を縦に振らない訳が無かった。かくして、防衛班まで巻き込んだセンカの社会性育成計画が始動したのだが――――実を言えば、第一部隊全員がコウタの計画を知っている訳ではなかった。
リンドウに、翌朝、センカを呼び出して欲しいと言い置いて、タツミ達と円陣を組んでしまったコウタは当日になってセンカ達が極東支部を出立した後も計画の内容を決して明かさなかったのだ。
狂喜乱舞する防衛班と新米偵察兵。必然、説明を求める視線は最後にエントランスに入ってきたセンカに向けられる。
「お、おかえりなさい…何かあっ…」
「知りません」
言葉を遮り、黙々と前を横切って行ってしまう銀色。サクヤの朱の双眸が見開いた。――――珍しい。彼が他人の言葉を遮るなんて。いつでも、どちらかといえば聞くに徹している彼が相手の言葉も聞かず切り捨てるなど、想像も出来ない事だ。傍らを見れば、同じく目を見開いたリンドウとソーマが立ち尽くしている。
本当に、何があったのだろう。何があろうと表情はおろか、気配も崩さない彼がこんなにも怒気を強くしているとは。彼にとって、相当、我慢なら無い事があった事は確かだろうが、対するタツミ達が大喜びしているは何故なのか。
唇を引き結び、心持、眉間を寄せたセンカが今にも踊り出しそうな一団の前で歩を止める。
「コウタさん」
いつもより幾らか低い声に、ごくりと誰かの喉が鳴った。
「これは、どういう事ですか?」
影が差す、白い面。背後で地鳴りが聞こえそうな迫力は常の彼では有り得ない様で、奇妙な雰囲気から一転、エントランスは緊張で満たされた。冷えた空気が辺りに漂っているのは気のせいではないだろう。押し潰すような、余裕を無くす圧力。
百戦錬磨のリンドウやソーマですら、半歩、後ずさった迫力を前に、しかし、コウタはあっさりと返して見せた。
「何って、センカ更生計画」
温度が数度、下がる。どこかで聞こえた悲鳴は運悪く、寒波に中てられた誰かのものだろう。
「…更正…?」
「うん。だって、ほら、センカって俺以外、名前で呼ばないじゃん!」
怒っているのはこちらの方だというのに、文句を垂れるような口調で返すコウタは益々、眉を顰めた銀色に人差し指を立てて示してみせる。次々と人が吹雪に中てられる中、平然と口を動かしていられるのは比較的、付き合いが深いからなのか、それとも単に彼が空気を読めないだけなのか。どちらにしろ、彼がある種の勇者である事は間違いなかった。
拍子を取るように立てた指を揺らしながら、流れるように言葉が続く。
「サクヤさんは曹長だし、ソーマも曹長でしょ。サカキ博士は博士だし、ツバキさんは教官。リンドウさんなんて名前どころか階級で呼んでるのだって聞いた事ないよ」
示される事実にサクヤは、あ、と口を開き、ソーマは別段、関係無いとばかりに目を逸らし…今日、この瞬間に至って漸く自分は階級すら呼んで貰えていなかった事に気付いたリンドウはしゃがみ込んで落ち込んだ。ぽとりと落ちる煙草の灰が哀愁を物語る。
確かにセンカが自分達を名前で呼んだ事は一度も無い。新しく配属されたばかりだから先輩相手に気を使っているのだろう、と思った事もあったが、それにしては呼び方があまりに余所余所しい気がして、呼ばれる度に何度か落ち着かない感覚を味わったものだ。毎度交わされる彼との会話がそれ程長いものではなかったというのも気にならなかった理由の一つだろう。名前を呼ばずに済むような言い回しを選んでいる。そんな所だ。事実、彼はそうして言葉を選び、並べているのだろう。
最早、顔を覆って部屋に駆け戻り兼ねない第一部隊隊長に哀れみの視線を送りながらコウタは言葉を続けた。
「だからさ、もっと親しい呼び方しても良いと思うんだ。特に第一部隊の皆には、さ!」
仲間だろ?そう言って笑うコウタに期待の目が向けられる。視線の主は言わずもがな、第一部隊隊員。特に、落ち込んだ大型犬のような黒い影の視線が強い。
リンドウの心情云々は無しにしても、仲間に名前を呼ばれないというのは存外、寂しいものだとコウタは思う。近しい関係を望む自分には彼の紡ぐ階級があまりに冷たい呼び方のように思えて仕方が無かったのだ。勿論、彼にそんな気は無いだろう。彼は彼の領域を守ろうとしているだけで、同時に、他人が傷付かない方法を選んでいるだけだ。けれど、そうして離れた場所で独りで立っている様が、どれだけ他人を心配させるのか、彼は知らないのだろう。
もう少し。もう少し近くに来てもいいと思う。そして、それはきっと彼にとって悪い事では無い。
「ほらっ!試しにリンドウさんとか呼んでみろって!流石に可哀相だからさ!」
促して、数拍。抱えた神機を抱く力を強めるセンカの白藍が俯いた。――――考えている。どうするべきなのか。もう一押し。
「帰ってきたって事はタツミさん達からオッケー貰えるくらいには呼べたんだろ?じゃあ出来るって。難易度低い低い!」
リンドウを苦手とするセンカとっては実際にはかなり難易度の高いものだが、要はイメージだ。寒さも暑い暑いと言っていればどうにかなるものである。さて、もう一押し。
「リンドウさんが呼べたらサクヤさんとかソーマなんて楽勝だよ!勢いで出来る!合図してやるから言ってみろよ!」
無茶苦茶な事を言っている自覚は勿論、ある。しかし、此処で現実を振り返ったら負けだ。人生は勢いである程度どうにかなる、と誰かが言っていた。多分、ノルンのデータベースにあったのかもしれない。
ついに身を乗り出す衛生兵曹長と我関せずを装いながら視線がしっかりこちらを捉えている強襲兵曹長、期待に押されて立ち上がった隊長の喉が鳴る。
くるりと空気をかき混ぜる指先は指揮棒のよう。
「いくぞ…さん、はいっ!」
「……しょ、少尉…」
「はい、不合格!もう一回!」
落第の判子はタツミから。どうにも彼はこの調子が気に入ってしまったらしい。任務先で名前呼びの練習をさせられる間、何度、この言葉を聞いたか知れないくらいだ。暫くすると控えているブレンダンとジーナまで便乗してくるから性質が悪い。早めに、早めに終わらせなければ。しかし、これはどうにも口にするのが躊躇われた。彼を表すものだと思えば、階級ですら呼ぶのに抵抗があるというのに、名前などどうして呼べるのだろう?
ちらり。一瞥した先で期待の眼差しとぶつかる。―――駄目だ。逃げられない。あのソーマまでこちらを見ている。
「ほらほら、次いくぞー。さん、はいっ!」
詰まる息を飲み込んで、
「…たいちょう…っ」
「ぶっぶー。はい次」
今度の判子はジーナからだ。次はブレンダン辺りが出てきてもおかしくは無い。
少尉でも駄目。隊長でも駄目。しかし、譲れない一線として、彼の名前だけは呼びたくない。どうする。どうする。そもそも、何故、名前を呼びたがらないのか。人との距離を保ちたいからだ。何故、人との距離を保ちたいのか。それは、自分が「人」ではないから。しかし、昨日、それが欠片でも崩れてしまった。崩れてしまったという事は距離を保つ理由が無くなってしまった事を意味している。理由の無いものは受け入れるしかない。
きゅう、と抱きしめた神機の柄が肩に食い込む。鈍く身体を走る痛みは「自分」が「生きている」からなのか。
どうしよう。どうしよう。こんな事になるとは思わなかった。今日は第二部隊と任務を遂行して、それで終わりだと思っていたのに。顔が歪んでいくのが止められない。目の前のコウタの顔が、驚愕したようなそれに変わっていく。…自分は今、どういう顔をしているのだろう。きっと、コウタにそんな顔をさせてしまうような、酷い顔をしている。喉が引き攣りそうで、どうしたら良いのか分からない。それでも、距離を縮めたいと思う彼等は、何か常とは違う形で彼を呼ばなければこの場から逃がしてはくれないのだろう。
息を吸い、見つめた先に佇む黒色の、その合間から見え隠れする麹塵を一度だけ見返し、センカは視線を外した。
今、言えるのは、これが限界だ。
「………先輩…」
それは階級でもなく、役職でもなく、もう少しだけ、近いもの。
銀色の頭を撫でて苦笑したブレンダンの、もうこれくらいで及第点にしてらないか?という言葉が解放の合図だった。
何が何でもリンドウさんを呼びたくない新型さん。此処から全員を先輩呼びです。そして、最後の最後でブレンダンがまさかの頭タッチ。
しかし…今更不憫な状況に気付くリンドウさんってどうなんですかね…しゃがみ込んで落ち込んだ時にはそれこそ縦線も火の玉も背負ってるんじゃないかと思います。けれども、誰もそれを慰めてあげない第一部隊(ぇえ)
頑張れ、隊長。落ち込んだ大型犬オーラなら新型さんもちょっと構ってくれる…はず。
2010/12/22 |