それは必ずしも悪い事じゃない。
雪解け水
悪い事をしただろうか。逃げ出すようにエントランスを飛び出して行ってしまったセンカを振り返り、そう、コウタは思う。
「でも、これでセンカがもう少し私達と打ち解けてくれたら、私は嬉しいわ」
「……そうかなぁ…」
両手を合わせて微笑みを浮かべたサクヤとは反対に、彼は浮かぬ顔でソファに沈んだ。
今回の事を後悔しているかと言えば答えは否だ。後悔どころか、自分以外をどんな形であれ、階級以外で呼べる望みが出来た事は喜ばしかった。しかし、三歩進んで二歩下がるとは古人は良く言ったもので、周りと彼が交流を深めた代わりに、これが原因で彼と自分の関係が離れてしまうのではないかと不安にもなる。
いつも冷静な顔を崩さない彼が浮かべた、今にも崩れそうな表情を思い出して眉が寄る。
「センカ、俺の事嫌いにならないかなぁ…」
「そりゃ無いだろ」
間髪入れずに返すのはリンドウだ。様々な衝撃――主に、今日に至るまで一度も名前を呼ばれなかっただとか、その辺りだ――から漸く立ち直った彼はゆったりとコウタの向かいに座り、煙草をふかしていた。心なしか、にやけているのが威厳を損なっている。
組んだ長い脚を揺らして笑う隊長に、新米偵察兵は唇を尖らせた。
「何でそう言えるんですかー。ていうか、リンドウさんは始めっからセンカに避けられてるから言えるんですよっ!」
自分達の友情に罅が入ったら、絶対にこの人の所為だ。理不尽な事まで思い始める自分は相当、不安らしい。それはそうだ。折角、ここまで築き上げた友情という素晴らしい建造物が綺麗さっぱり崩壊して空き地になってしまうかもしれないのである。当初からセンカの警戒対象であるリンドウには分からないだろうが、此処まで来るのにかなりの苦労を要した。名前を呼んで貰えるまでになったというのに、これで全てが終わってしまったら泣くに泣けない。
明日、どういう顔をして会えばいいのだろう。リンドウのように避けられてしまったらきっと落ち込んでしまう。
本当の事言うなよ、なんて言ってみせる上司の余裕を前に、ぷらぷらと脚をぷらつかせた彼の鼓膜をサクヤの苦笑が撫でた。
「センカだってきっと分かってくれるわよ。話は出来るんですもの。もっと話し合えば良いわ」
「でも、避けられたら、さ…」
彼は逃げるのがとても上手い。一度、逃げられたら再び捕まえるのは困難だ。言い募るコウタにタツミが顎を擦る。
「嫌がってるようには見えなかったぞ?ありゃ、戸惑ってるだけって感じだな。俺達の時もああだったし…」
「結局、俺達が粘り負けて先輩呼び止まりだしな」
言いながら笑うブレンダンはセンカを好ましく思っているらしい。そういえば、センカ自身も頭を撫でられた時、されるがままにされていた。早くも仲良くなったのだろうか。髪の色もブレンダンの方が少し濃いくらいで、二人が並んでいる様は見方によっては恰も兄弟のように見えるかもしれない。面倒見の良い兄と人見知りの激しい弟。ある意味、お似合いな二人。
自分も妹がいる分、兄弟というのは良いものだ、と断言出来るが、なんだか、面白くない。向かいを見れば、紫煙を燻らせるリンドウの顔も妙に硬かった。眉間に皺が寄っている。明らかな不機嫌顔。
ふう。紫煙を吐き出す様がまるで龍が火を噴くようだ。
「皆、名前で呼んでもらったんじゃないの?」
話題を逸らす目的があったのか、否か。不穏な空気を纏い始めた男二人を置いて問いかけたサクヤにジーナは気付かぬふりで肩を竦めた。
「名前プラス先輩ってとこですね。かなり硬い感じですけど」
ブレンダンが上手く説き伏せなければ今も旧市街で攻防を繰り返していたかもしれない。それくらい、彼は頑なだった。漸く、覚悟を決めて口から零した呼び名も小さな小鳥が引き攣った様なものだったように思う。
そして、ここに空気の読めない男が一人。
「おどおどしながら『タツミ先輩…』なんて……あれはある意味凶悪だったなぁ…」
「ウゼェ」
夢見心地で虚空を見上げたタツミの言葉を不機嫌なソーマの声が叩き斬った。
一目散に逃げ込む先が主治医のもとだというのも、つくづく芸が無い。けれど、そこ以外に自分が逃げ込める場所など無かった。
モニターに映し出されるデータに目を通しながら薬を用意するサカキはまだ何も言ってこないが、しきりにこちらに視線を向けて問いかける間を計っている。問いかけて良いものか、迷っているのだろう。ラボラトリに飛び込んだ時の彼の顔は珍しく、とても驚いていたから、自分は相当に酷い顔色だったのかもしれない。或いは、酷い表情だったのか。
両手で包んだカップの中で、ゆらり。茶が揺れた。まるで己の内側のようだと思う。それも、なんて抽象的な表現だろう。
コウタに酷い顔を見せてしまったと理解している。無意識とはいえ、人に見せるべきではない顔だった。ブレンダンが宥めてくれなければきっとあの場で崩れていたに違いない。そこに至らなかったのは不幸中の幸いだ。後悔ばかりがある内側がしくりと痛む。彼が、それ程、気にしていなければ良い。
ゆらり。また一つ、揺れる水面。まだ、主治医は何も言って来ない。
漸く落ち着き始めた思考でカップの中身を一口啜れば、喉を通る温もりが随分と長く自失していた事を物語っていた。
「………何も、お聞きにならないんですか?」
問い掛けに刹那、止まる指先。薬棚を漁る男はこちらを振り向かないまま。
「…聞いても良いのかい?君の顔色はまだあまり良くないようだけれど」
図星だ。思考が冷静さを取り戻してきたとはいえ、まだ頬も指先も冷たい緊張を孕んだまま動きを硬くしている。カップに触れる手のひらに伝わる筈の温度もまだ現実味を帯びていなかった。
カプセルをいくつかに、錠剤をいくつか。アンプルと、注射器。出しては紙袋に詰めていく慣れた手。
「今回は無理には聞かないよ。そろそろ私も子離れしなくちゃいけなくなりそうだからね」
サカキの目の前で検査台に腰掛ける彼は、大分、当初の印象とは違っていた。硝子球の如く色の無かった瞳が感情を映し、単調だった声音が緩やかな高低を成す。日に日に薄くなっていく無機的な雰囲気。今は人間的な印象の方がはるかに強いと断言出来る。何より、この部屋に飛び込んで来た彼の顔は間違いなく無機物と表現出来るようなものではなかったのだ。
彼がその変化をどう思っているにしろ、もうこの場所へ戻る事は無いだろう。そして、彼もどこかでそれを理解している。
「君はもっと色んな事に触れて、覚えていかなければならない。それが人であれ、事象であれ、良い事であれ、悪い事であれ、ね」
見上げてくる無表情な白藍の瞳の奥に揺らめくそれは、不安だ。それを見る度、嗚呼、自分は彼に必要なのだと再認識していた愚かな自分を、そろそろ改めなくてはならない。
「だから、センカ」
それを伝えるのは、私ではないよ。
そう言った観察者は少しだけ寂しそうに笑った。
そして、思う。――――彼がこの先、人として生きて行く事を、どうか邪魔されないように、と。
色んな意味でちょっと失敗してしまった新型さんが離脱した後のエントランス組と、当の新型さん。
コウタさんは友情にひびが入らないかとびくびくしてますが、先輩呼びしてもらったリンドウ隊長は余裕の笑みです。…そこ。生温い目で見ない!(…)
他の面子…サクヤさんは単純に喜んでいて、ソーマさんは気にしていないふりをしています。
で、ラボに逃げ込んだ新型さんはお父さんに諭されて更に悩む羽目になる、と。
2010/12/30 |