それは目を背けるよりも残酷な否定だ。
背中だけを見ているのはあまりに寂しすぎると誰かが啼いた
彼等がエントランスに足を踏み入れた途端、ざわめきが漣の如く大気を震わせ、直後、怯えを孕む静寂に凪いだ。何とも息の合った芸だ、と騒いだ一人であるタツミはそう思ったが、同時に、無理も無い、と内心で首肯もする。
ぴりりと肌に痛い緊迫は戦場でもなければ無いものだ。それが、寛大、温厚、気さくで知られる雨宮リンドウから醸し出されるものであれば、その恐ろしさは並のアラガミの比ではない。呼吸すら凍らせる気配。燃え上がるようなそれは真実、憤りに他ならない。いつもより丁寧に運んでいるようにも見える静かな足音が更にその怒りを浮き彫りにさせて、エレベーターまでの道のりにいた誰もが昔話にある割れた海のように道を開けて逃げて行く。蜘蛛の子を散らす、とは良く言ったものだ。これ程の怒気の前にあえて佇もうという者は一人だっていないだろう。
何が彼をこんなにも怒らせたのか。ふと目を向けたリンドウの後ろで、タツミは再度、驚く羽目になった。
印象は、赤だ。似合わない赤。否。彼がそうなっているのを少なくとも、自分は見た事が無い。明らかに負傷していると分かる肩に応急処置だけ施してリンドウの後ろについて帰って来たセンカの、その燐光を散らす銀色の髪が血に固められてしまっている。――――意外だ。誰もがそう思ったに違いない。何せ、期待の新型神機使いはろくに負傷した事が無いと専らの評判だったのだ。それが、今回はどうした事か。決して浅くは無い傷を負い、俯き加減で大人しく上司の後ろについて歩いている。その光景さえ、日頃のリンドウとセンカを知っている者からすればすぐさま卒倒出来る光景だったが、よくよく見れば、その白雪の如く白いセンカの頬は赤く腫れてすらいる。明らかに、容赦ない平手打ちを喰らったと分かる腫れ方だ。
それも含めて、何かあった、と思うには十分な空気。首を傾げる者が多い中、持ち前の洞察力で状況を判断したタツミは傍らで同じくその光景を眺めていたブレンダンに目をやり、視線で頷いた。
リンドウの執着とも言えるセンカに対する態度を考えればこの空気の答は案外、容易に導き出せる。
「謹慎だ」
エレベーターの前。徐に振り返ったリンドウの、いつに無く硬い声音が気味の悪い程静かなエントランスに響いた。向かい合う銀色は、俯いたまま。
「向こう一週間、一切任務に携わるな」
わかったな。冷たく言い置いて、開いた小箱の中に身を滑らせたリンドウの眼光が銀色を貫く。
閉じたエレベーターの扉を見る事も無く、ぽちり、と再度、昇降ボタンを押した銀色の背がいつもより小さく見えて――――ソファから立ち上がったタツミはやってきたエレベーターの中へ小さな背を押し込むと同時にちゃっかり後からついて来た相棒と共に箱の扉を閉じてエントランスの喧騒から逃れた。
「んで。リンドウさんと何があったんだ?おにーさん達に話してみなさい」
辿り着いたラボラトリで手当てを済ませた――驚いた事に彼は医務室ではなく、命知らずな事によりにもよってラボラトリで治療を受けたのだ!――センカを戸口で待ち伏せたタツミとブレンダンは、ちょっと話をしようか、などとのたまいながら隣の医務室へ彼を引っ張り込むなり、そう言って笑って見せた。
清潔なベッドに座らされ、ぱちくりと瞬きをする銀色はこの状況すらあまり分かっていないのかもしれない。何せ、展開があまりにも急だ。エレベーターに乗り、医務室がある区画まで来たのは予定の範囲内だったろうが、まさか治療後を待ち伏せされ、挙句に何があったかまで聞かれるとは思っていなかっただろう。
相変わらず、ぼんやりとこちらを眺める視線に僅かな戸惑いを感じ取り、ブレンダンは淡く笑みを浮かべた。
「リンドウさんがあそこまで怒るなんてそうそう無い上に、お前がそこまで傷を負うなんてそれこそ有り得ないからな。興味半分、心配半分ってとこだ」
「そういう事」
得意げに首肯するタツミに、説明が足りない、と小突くブレンダン。嫌なものは感じない。裏も無く、本当にそう思っているのだろう。だが、果たして、これは話して良いものなのか、センカには判断に迷う所だった。
どちらかといえば、これは私的な事だ。先輩達の気を揉ませるような事態では決して無い。
腫れた頬に張られたガーゼにそっと手を当てれば、甦るあの応酬。分からないから分かろうとするのだと、頼れと言ったあの人の声。――――分からない。理解出来ない。今回もサカキは何かに気付きながら、それでも何も言って来なかった。だから、この感覚は誰にも話していない。どうしたら良いのか、分からない。思えば、最近はこういった事が多い気がする。良くない傾向だ。こういう時、以前はどうしていたか。例えば、極最近は。
思い返して、嗚呼、そういえば、先日はサクヤに聞いてみたのだ、と気付く。
「え、と…あの…」
「ん?何だ、話す気になったか?」
笑みを浮かべてこちらに向く視線。飲み込みそうになる言葉を必死に喉に留めて、喘ぐように開く自分の唇。選びきれない言葉が呻きとなって零れそうで、それでは意味を成さないと己が何処かで声を上げる。これは、恐れか、戸惑いか。多分、両方だ。
じっと言葉を待つ二人と血が染み付いた己の膝を視線で行き来する事少し。漸く紡げたそれは酷く小さなものだったが、静かな個室では短い距離を埋めるのには十分だった。
「……頼れ、と…言われて…理解が出来なかった、んです」
誰に、とも、何に、とも言わない。無論、センカとてこれだけで、状況が理解出来るとは端から思っていない。分からなくても良いと思う。それは、実に甘い考えで、明らかな逃避だと認識出来てはいるけれど。
小さな声音に、ふむ、と顎に手を当てたタツミが次には短く唸りながら言葉を紡ぐ。
「あー…つまり、お前がいつもの個人プレイの延長で無理して突っ込んで負傷したもんだから、リンドウさんが怒ったんだな?で、一発、お仕置きを貰った、と」
刹那、弾かれたように上がった顔が真っ直ぐにタツミを捉え、ぱちりと丸くなった白藍が瞬いた。――――驚いた。素直に。あの言葉だけで此処まで分かるものか。
蛍光灯の下で、ちら、と燐光を散らす銀色に笑うのはリンドウに似た黒と、やっぱり、と笑みを滲ませる灰色。
「どう見たって分かるぞ。リンドウさんは有り得ないくらい怒ってるし、お前はぼろぼろで、しかも謹慎と来たもんだ。それで『頼れと言われて分からなかった』っていえば、答は一つだろ?」
言われて、また銀色の頭が俯いた。手触りの良いその髪に手を伸ばし、くしゃくしゃにかき混ぜながらタツミは浮かべるものを苦笑に変える。
「まぁなぁ…俺やブレンダンは部隊が違うからあまりあれこれお前には言えないが、この間みたいな戦い方をずっとしてるってんなら、そりゃあ、リンドウさんだって色々溜まってくるさ。俺達はまだ数回しかお前と任務に行ってないといっても、あれはちょっと寂しかったぞ?」
「…寂しい?」
「おう」
前髪の下からそっと見上げてくる白藍が揺れている様は不安に揺れる小動物のようで、短く言葉を返しながら二人はやはり笑った。
コウタ曰く、センカは対人的なもの全てが壊滅的だというが、本当にそうだ。この無表情な受け答えはただ無愛想、というより、本当に理解できていないのだろう。理解出来ていないという事を理解している上で理解出来ない、と言うのだから中々、厄介な育ち方をしていると思う。これでは日常生活で苦労するに違いない。それは社会性が低い、などという言葉では括れない、根本的に植えつけられた性格だ。これを変えようと思うと、相当難しい。難しいが、変えられないものでは決して無い。
わしわしともう一度、銀髪を掻き混ぜれば、ちょっと鈍い弟が居たらこんな感じなのだろうか、と妙な愛着すら出てくるから不思議だ。
「お前が強いのはよく分かってるさ。でもな、お前一人が戦って、傷ついてるのを見ても俺達はちっとも嬉しくない。傷ついて、苦しくなったら、助けてくれって言って欲しいし、そうでなくても、最初から皆でアラガミに立ち向かいたいと思う。それが仲間だろ?お前一人で戦ってるんじゃない。皆で戦ってるんだ。誰かを犠牲にして勝ったって嬉しくないさ」
まあ、リンドウさんが言うのはもう少し違うものなんだろうけどさ。言いかけた言葉は瞬き一つで胸のうちに仕舞う。見るからに仲間意識とは少し違う執着を見せている彼の心情を勝手に伝えてしまうのも良くないだろう。その前に、彼自身、いい加減、己の気持ちに気づいて欲しいものだ。フォローも楽じゃない。
さらり。指の間から零れる銀色が煌く。
「呼び名の事だってそうだぞ?名前すら呼ばれないんじゃ端から信用されてないみたいで寂しいじゃないか。お前なんか知らない、仲間じゃない、って言われてるようなもんだ。それで同じ舞台に立ってみろ。見えるのは相手の背中ばっかり。寂しいぞー?」
無いように扱われる事程、虚しい事は無い。名前とはその個人を認識する大切なものの一つだ。それすら認識されていないのは存在を否定されているのと似ていると思う。勿論、センカにその気は無いだろう。しかし、対人関係の根本は信頼と信用、そして、存在の認識だ。名を呼ばない、という事は実質、彼はその第一歩を拒否している事になる。
彼に必要なのは、まず、その一歩の意味を知る事からだ。頭が悪い訳ではないのだから、順を追えば、必ず理解出来ると思うのは決して期待論ではない。
「…寂しいのは、苦しいですか?」
「ああ。苦しいな。だけど、今、一番寂しくて苦しい思いをしてるのは誰か…わかるよな?」
脳裏に誰かの姿を導く言葉に戸惑いを露わにしながら、そっと見上げてくる視線が揺れていて、嗚呼、これをあの人が見たら悶えて喜ぶだろうに、なんて馬鹿げた事を思ったタツミに罪は無いだろう。
引き続きぶちぎれているリンドウさんに謹慎を食らってしまった新型さん。フォローは優しいおにいさんズです。
タツミさんもブレンダンさんも説明上手だと思うので上手くフォローしてくれると思います。新型さんの事にはわーわーしてるリンドウさんよりもよっぽど冷静(酷)
新型さんはまだ色々、もやもや考え中です。
次はついにあの男が宇宙一あり得ない状況を打破(何)
2011/01/12 |