世界にたった一人。それはどんな気分だろう。
ひとりぼっちとひとりぼっち
陽光の柱が月光の柱に変わる。瞬く星の光すら明かりに変えて注ぐ様は実に清麗だ。
塞がった傷を一瞥し、小さな身体が整った呼吸に上下するのを認めたセンカは未だ塞がらない手首の傷に布を巻きながら密かに息をついた。――――目を閉じれば、波のように押し寄せる疲労。いつもは「少し力を注げば」直ぐに塞がる程度の傷が血を滲ませたままなのはその所為だろう。意識を保ったままでは自己を回復する事が難しいくらいには消耗してしまったのだ。どうやら力加減が分からない所為でやり過ぎてしまったらしい、とまた息を吐く。
結果から言えば、施した措置の経過は良好だ。深かった傷は塞がり、呼吸も脈拍も人間の基準で考えれば問題無い域まで回復している。後はこの子供が目を覚ますのを待つばかり。しかし、センカに残された時間はそう多くは無い。
ちらり。ヴァジュラの仔の傍らに座り込み、瓦礫に背を預けて眺めた壁の大穴の向こうに見えるのは煌々と輝く白い月。
此処に至るまでに外はすっかり夜の闇に包まれてしまったが、センカは一度も己の携帯端末に手を触れていなかった。つまりは、タツミとの約束を反故にしてしまった事になる。彼は捜索を出すと言っていたから、そろそろこの旧市街地に他の人間の気配がしてくる頃かもしれない。捜索、という名の討伐である可能性もある。
謀をするような男ではないとは思うが、万が一を捨てきれないし、捨ててはならないとセンカは己の神機に指を這わせた。夜気に晒されたあまりに冷たいそれは行いを咎めているようだ。同時に、近くの小さな命を屠ろうとする息遣いすら感じる。己の本質そのもの。
それに眉を顰め、冷えた指先を違う温もりに触れさせようとした所で、ぴくり。動いた毛の塊が目を開いた。
「あ」
微かな声に反応する幼い身体がみるみる目を見開き、近くに寄る血塗れの影を捉えた刹那――――爪の一閃。触れようと伸ばした白い手の甲に三筋の赤を描いて後ろへ飛び退く。静かな空気を低く震わせる唸り声。敵だと認めた相手に向ける眼光は幼いながら鋭く、尻尾に至るまでの全身の毛が逆立っている。
一瞬の出来事であるそれを何処か緩慢な映像で眺めながら、センカは先程とは違う息を吐いた。
「…目が、覚めたのか…」
良かった。吐息が口の中で音を転がす。
それだけ動ければ上等だ。貧血も解消されているようだし、身体を引き摺っている様にも見えない。ヴァジュラ特有の身軽な動きも生き抜くのに申し分無い。じりじりと下がりながら睨み付けて来るまで気がしっかりしているなら、これ以上、手を伸べてやる必要も無いだろう。何より、ゴッドイーターが来るまでに意識を取り戻せた事は喜ばしい。
一つ減った心配事に表情を緩めたセンカは、しかし、次の瞬間、再び瞳を鋭く細めた。突如、張り詰めた気配に、びくり、と飛び上がった幼子が更に後ずさろうとするのを認め、銀色が口を開く。
「動くな。…それ以上動くのは、駄目だ」
静かな声音を響かせる白藍が見つめるのは萎縮しかけた小さな姿ではなく、瓦礫の足元の、白い花だ。ヴァジュラの足の直ぐ傍でふわふわと揺れるそれはあと一歩でも幼子が動けば呆気なく散らされてしまうに違いない。月明かりの中でも可憐に咲くそれを人の行いで散らせてしまうのはあまりに忍びなかった。
「動くな」
もう一度、囁いて伸ばされた手が獣の身体と花とを割るように間に入り、そのまま、傍に寄る華奢な身体が花を守る如く瓦礫の傍に身を寄せる。ゆったりとしたその動きを、動作が終わるまで、小さな獣は言われた通りに動かないまま見つめていた。
敵であるものに背を向け、物言わぬ有機物に手を添えて目を向ける少年と、その姿を呆然と眺めるヴァジュラの仔。なんて滑稽な絵図だろうか。こんな図はアラガミと人との歴史の中で一度だって無かっただろう。厳密に言えば、此処にいる自分は「人」ではないけれど、それでも、屠り合う者同士がこうして傍にいるのは稀有以外の何物でもない。
こうしている間に、去ってくれれば良い、と思う。同属の血を被ったまま、不吉な臭いを纏う自分は幼子に取って警戒と畏怖と憎悪の対象以外には有り得ない。タツミの要請を受けたゴッドイーターが此処へ訪れるのも時間の問題だ。何より、「自分」の傍にいるのは色々な意味で良くない。今回は運良く命を拾えたが、本当に運が良かっただけなのだ。ああいった措置を取ったものの、実のところ、助かる保障は何処にも無かった。実験を施したのと同じだ。これからあの小さな身体にどんな副作用が起こるのか全く検討もつかない。
無責任すぎる。分かっている。だからこそ、このまま去って欲しい。何も知らないままであれば、次に巡り会った時、何の躊躇いも無くその命を屠る事が出来るだろうに。
差し込む月明かりの中、吹き込む微かな風に揺れる花を眺めて項垂れたように俯くセンカの手に生き物の吐息が触れたのは、その時だ。―――――裂かれ、血を流す手に触れる温い息。先程まで傍らで花に気をやるセンカを眺めて静かにしていたヴァジュラの仔が白い手に守られた花を覗き込んでいた。
嗅いでいるのは血の臭いか、花の匂いか。ふんふんと小さな鼻が鳴っている。感じる気配の中に敵意は無い。あるのは、ただ興味深いものを探ろうとするそれだけだ。あれだけ毛を逆立てていた獣がこんなにもあっさり警戒を解くとは思わなかったが、それは多分、見慣れない生き物が何を守ろうとしているのか知りたい好奇心が勝っただけの話だろう。
爪を引っ込めた前足を白い手に乗せて花を覗き込む幼子は暫く鼻を鳴らし、ぱちりと瞬きをしてから依然、血塗れたままのセンカを見上げた。
触れた手が、互いの熱を伝えている。
「……踏んでしまえば、直ぐに死んでしまう。怖がらせたなら、悪かった。もう、何処か遠くへ行った方が良い」
どう伝えればいいのか分からないが、コウタもサカキも言わなければ分からない、と言っていたから、多分、これは正解だ。ヴァジュラが人語を解せるかは未知数でも理由を言わぬよりは道理だろう。幼子にまで無言が通用するとは思わない。
眉尻を下げて言う銀色に、瞬き二つほどの間を置いた仔は応えの代わりにその頭を布が巻かれた細い手首に擦り付け、己が描いた赤をちろりと舐めた。
「がう」
すりすりすり。腕の中に入り込み、砂埃だらけの膝にまで擦り寄る。これに驚いたのは、センカの方だ。
「え、あ、あの、」
「ぎゃううぅ」
戸惑う銀色を他所に膝を上って、返り血が乾いたぱりぱりの頬に甘えた声を上げながら鼻先を擦り付けるヴァジュラに、ぼんやりとした白藍が丸く見開く。有り得ない。同属の血の臭いをさせるものに気を許すなど考えがたい事だ。
だが、思考が止まったのも頬を舐められるまでの一瞬。――――こんな事をしている場合ではない。時間は切迫しつつある。
いくら仔とはいえ、ヴァジュラはヴァジュラ。相応に重みのある身体が折角、守った植物に倒れ込まないよう、その身体を持ち上げ、傍の床に静かに降ろしたセンカは見上げてくる双眸を、真っ直ぐに見返した。
大丈夫。通じる。このアラガミは「話が出来る」。息を吸えば、冷えた空気が喉から肺へ渡る。
「よく聞け。もう此処に近寄ってはいけない。早く何処かへ行け。離脱しないと…」
ゴッドイーターが来る。言葉は、続かなかった。息が喉奥で詰まって動かない。
呆然と声を無くしたセンカの前で、白い手に擦り寄る小さな仔の目から落ちた雫が一つ、床の色を変えた。項垂れて、震える尻尾。小さな声。頼り無い姿。――――嗚呼、忘れていたけれど、この小さな生き物は縋れるものを無くしたのだ。死の淵を彷徨い、生き長らえた今は、きっと不安だけがその胸にある。大きすぎる世界の、その中で、例え、同属の血に濡れていたとしても危害を加えてこないセンカは確かに救いだったのだろう。
今更、分かる。差し込む月の光の中、たったふたり。
「そうか…お前も、ひとりぼっちか」
ぽつり。落ちた言葉に、獣が寂しそうに一声鳴いて縋った。
こういう本編からちょっと逸れた話を書くのは楽しいです。ヴァジュラJr.(仮)、きっと可愛いぜ?まあ…あの人面がちょっとネックではありますが…それも可愛いです よ ? きっと。
場所は…多分、分かると思いますが、例の廃教会です。あそこ、結構好きなんですよね…あのステンドグラスの透過光がたまらん。文才と語彙力的な問題で表現し切れていないのが非常に残念です。もっと勉強しろって事ですね、はい(ぇええ)
ヴァジュラJr.については…子供らしい順応力の高さを目指しました。あと、小さいからこそ大きく感じるものもあるでしょうし、目に映るものに対する警戒とか…急に変わった状況からのちょっとした逃避と、再認識するときの唐突さとか。そういう信用出来るものが出来るまでの不安定な感情の切り替わりを目指してみたり。
新型さんも似た所があるのでひとりぼっちがふたり。でもふたりぼっちではない、と。きっとお互い信頼し合えるようになったらふたりぼっちです。
次回は旦那なのに出番が矢鱈と少ないと評判の不憫担当・隊長殿がご到着(ひどい)
2011/02/19 |