mono   image
 Back

 怒鳴り合いをしたいんじゃない。話し合いがしたいんだ。
 静かに、静かに。

寂しい兎が月の下

「ほんっとーにヴァジュラだな」
 幼子ゆえか多少、厳つさの足りない顔はやはり人面だ。リンドウの赤い神機を興味深げに爪先でつついては鍔鳴りに驚いてたたらを踏む足も成獣と比べてかなり小さい。ふりふり振れる尻尾は細く、血の染みが目立つごわついた毛は洗えばそれなりに心地良さそうだと、許される位置まで銀色と毛玉に近付いた男はしゃがみ込んでそれを眺める。
 アラガミに幼生があるとは聞いた事も無ければ、見た事も無い。だが、目の前にいる小さな毛の塊は真にヴァジュラの幼生以外の何物とも思えなかった。学術的にはかなり貴重なものだろう。サカキが見れば喜びの舞でも披露してくれそうな珍品だ。
 はあ。漏れるのは溜め息。
「…センカ。これは俺でも庇いきれないぞー…?アラガミを助けるなんて前代未聞だ」
 傍らを見上げれば、柔らかな咎めを歯牙にもかけない白藍が毛玉を見つめて口を開いた。
「懲罰を受ける覚悟はあります」
 無機質な声音は偽り無くそう思っているからこそ硬いのだろう。彼は嘘をあまりつかない。自分に有利な事であれ、不利な事であれ、こちらが呆れる程、馬鹿正直に言葉に表してくる。その癖、大事な事は言わないでおくのだから性質が悪い。今回もやりようによってはタツミ達と上手く折り合いを付けられただろうに、あえて銃口を向けて威嚇までした。これではセンカの立場が悪くなるばかりだ。
 考える程、またあの時のように目の前が赤くなっていくのを止められない。駄目だ、と思いながら上がって行く音量に、銀色までが険を帯びる。
「懲罰云々の問題じゃないだろう。お前はもっとよく考えろ!他にも手があっただろうが」
「どちらにしろ貴方方がヴァジュラを救護する事など認めないでしょう」
「だから、お前は何でそう…!!」
 叫びかけたところで、己の声音の大きさに気がついた。――――風の唸りを飲む音量。これではあの時と同じだ。
 どうにも、彼絡みになると平静を保つのが難しい。気がつけば大音量で怒鳴り散らしている始末。格好悪いったらありゃしない。
「…あー…くそ…」
 落ち着け。落ち着け。深呼吸だ。しゃがみ込んだまま頭を抱えるリンドウに突き刺さる視線は二つ。一つは言いかけた言葉の先を警戒しながら待っていて、もう一つは突然、燃え上がり消沈した衝突の炎に目を丸くしたまま固まっている。
 ちらりと黒髪の隙間から見た毛玉の、少し柔らかそうな足が丁度、刃にかかりそうになっているのを見て小さく、危ないぞ、と言ってやれば、瞬きをしたそれは気付いたようにひょい、と、冷えた刀身から離れた。素直で大変、よろしい。その素直さをお前を助けた可愛い銀色にちょっとばかり分けてやって欲しいくらいだ。思いながら、本当の所は微塵もそんな事を思っていないのが末期が末期たる所以だろう。
 はあ。再度、溜め息。今度は先程より幾分、重い。
 思い出せ。確か、つい昨日辺りにコウタが言っていた。センカは対人能力が壊滅的だから言いたい事ははっきり言ってやらないといけない、と。そうだ。だから、兎に角、言いたい事というのは、

「…えー…だから…もっと自分を大切にしろ、と…俺は言いたい訳だ」

「は?」

 張り詰める程の険が、一気に抜ける。やはり展開についていけなかった毛玉が無邪気にことりと小首を傾げる様が何やら滑稽で、リンドウは言葉を紡ぎながら目線を逸らし、瓦礫の間に逞しく芽吹く緑を眺めた。
「まあ、つまりは、この間のアレもそうなんだが…」
 アレ、とはつまり、謹慎処分の原因になったシユウ討伐任務の際の衝突の事だろう、とセンカは思考を巡らせる。しかし、今更、終わった事を持ち出してくるのは彼らしくない。雨宮リンドウといえば、あまりそういう事に拘る人種ではないように思う。センカとしては相応の処分だと納得しているからこそ、いつまでも根に持つような真似はせずに任務に出ているのだし、リンドウとしてもそれは理解しているだろう。態々、蟠りを広げるような事はしなくても良い筈だ。あえて、それをしてくるのは、つまり、彼自身に何か必ず伝えたい事があるからなのかもしれない。
 項垂れて、大きな背を丸める男と真っ直ぐその情け無い姿を眺めている小さな獣のつぶらな瞳の対比に微妙な温度差を感じつつ、センカは言葉を待つべく、口を噤んだ。
 ごとり。白い手が未だ離さずにいた神機を床に寝かせる音が響くのと、横目でそれを認めたリンドウが話し始めるのは同時だった。
「…お前、何でもかんでも自分一人でやろうとするだろう。戦闘にしても、プライベートにしても。お前にも相応の事情があるってのは分かっちゃいるが、お前が傷ついてまで…てのはちっと違うんじゃないか?」
 ゆっくり、ゆっくり、殊更、静かに話すさまは、いつだったか、二人だけで任務に出た時に交わしたそれとよく似ている。一つ一つ言葉を選んで、けれど、率直に語られるそれは決して嫌ではない。
 黒い獣の傍らに膝を抱えてしゃがみ込み、響きの良い声音に耳を済ませる。
「どんな形にしろ、お前が傷ついて何も思わない俺じゃない。近くにいて守れないってのは辛いもんだ。そういう時は助けてくれって言って欲しいし、痛いって泣いてくれたって良い。もっと、好き勝手言って、頼って欲しいと思う」
 また彼を怒らせてしまうのだろうと思いながらもあの時、彼を激昂させた言葉を紡いだのは、一種、賭けというより、願いに近かったかもしれない。どう足掻いても、自分が伝えたい一番始めの事項はそれ以外に無かったのだから。
 もっとこうしたい、ああしたい、此れは嫌だ、あれは嫌だと言っても良い。そういう関係に近付きたい。望めるなら、それ以上にも。一番近くで、自己を大事にしない彼のささやかな我が侭を聞いてやりたいと思う。それこそが、二十六にもなって大人気無い自分の我が侭だ。
「…それが、先輩の伝えたかった事ですか?」
「そうだ」
 漸く戻した視線に合わさるのは、いつもの通りの白藍。それが少なくとも苛烈な負の感情を映していないというだけで、リンドウは知らず強張った肩の力を抜いた。奇妙な達成感と疲労感が指先を震えさせる。こんなに穏やかに彼と話せたのはいつぶりだろうか?もう遠い日のような気がしてならない。嗚呼、もう、この嬉しさをどう表現してくれようか。
 言葉を選んで、順を追って、そうすれば、伝わるからさ。そう教えてくれたコウタに、今度、何か奢ってやらねばならないと少しばかり浮かれた頭で考えつつ、視線は目の前で緩やかに開く艶やかな唇を追った。
「先輩」
 瞬く白藍が凪いでいる。囁きに似た静かな声音。依然、名前は呼んではくれないが、彼から話し掛けて来てくれただけでもかなりの進歩だ。少し前なら、話しかけてもらうどころか、視線すら合わせて貰えなかった。夢にまで見たかもしれない、穏やかな会話。その進歩は次の瞬間、大進歩に進化する事になる。
「何だ?」
 他の第一部隊が居たなら半眼で見ただろうリンドウの上機嫌な声音に、それは返ってきた。
「寂しかったですか?」
「へ?」
 率直な、それは、ある種、兵器のような一言。まさか、彼の口からそんな言葉が繰り出されるとは思ってもみない。――――寂しかったか。確かに彼はそう言った。寂しい、とはつまり、心が痛むとか苦しく感じるとか、そんな感覚の事だろう。
 呆然とするリンドウを置いて、センカの唇は尚も彼にとって殺人的な可愛さを含んだ言葉を紡ぎ出す。

「アリサさんが、僕を兎が項垂れているようだ、と言ったので…先輩もそうだったなら…すみませんでした」

 そういった思いをさせるつもりではなかったのです。少し項垂れた銀色の、細い首筋。
 嗚呼、こんちきしょう。こんな状況でなければ抱き締めて押し倒して海より深い口付けの二つ三つしてやったものを!
 がつん、と急激に頭を擡げて暴れ出す己の欲望を二十六年で培った理性で捻じ伏せつつ、葛藤をおくびにも出さない余裕の顔で誤魔化したリンドウだったが、据え膳喰わぬは男の恥。どうしても我慢できなかった不埒な手がふらふらと柔らかな銀色の髪に触れる。刹那、弾んで強張る肩。
 逃げられてしまうのではないかと指が震えたものの、羽根に触れる如くその一房を梳いてやれば溶けるように身体の力を抜く銀色が堪らなく愛しくて、口元が耐え切れずに弧を描いた。
「…寂しかったのは確かだが、お前もそう思っててくれたんなら少しは価値があったかもな」
 さらり。零れる月の色。触れるのは二度目になる。本当にこの銀色は柔らかい。触れれば最後、手放せない輝き。指を滑る銀の糸の一筋一筋に月光が滑り落ちる様が美しくてならないと思ってしまうのは惚れた云々だけが理由ではない筈だ。血に濡れてさえいなければ、それこそ月の如く燐光を放ってそこに佇んでいただろうに、赤に固められてしまった光が惜しい。
 帰ったら自室に連れ込んでシャワー室にでも押し込んでやろうか。大人しく頭を撫でられるままにされているセンカの姿が嬉しくて、そんな、それこそ信頼を裏切るふしだらな事を考えながら、暫くそうして髪を乱してやったリンドウは、そういえば今回も手袋をしたままだと気付いて苦く微笑んだ。
 いつでも彼と自分の間の事柄は時の巡り合せがあまり良くないらしい。けれど、今、こうして彼に触れていられるのは――――きっと、不憫な黒兎に月が同情でもしてくれたんだろう。



エロいリンドウさんも好きですが、大人気ないリンドウさんも結構好きだったりします。もっとわーわーしてればいいさ!(酷)
なんというか、書いてて小っ恥ずかしい距離感ですね…間に挟まれた毛玉がいなければお昼時間を飛び越えて、深夜番組になっていそうです。ありがとう、毛玉。君のおかげで夕方六時だ。
これで一応、仲直りですが……気付いてるか?実は問題は全く解決してないんだぜ…?

2011/03/01