「で、どーすんだ、これ?」
実の所、社会的に重要な問題は何一つ解決していない。
黒い獣と銀の白雪とそこそこ毛玉
勿論、ヴァジュラを連れて帰るなどという事は出来ない。いくら懐いているとはいえ、アラガミとはあくまで人間の宿敵だからだ。人間の立場で判断するならば、この小さなヴァジュラは此処でオラクル細胞に還って貰わねばならない。しかし、リンドウ個人の考えとして、それが最善かといえば、困った事に、是と言い切れないのである。
さて、どうしたものか。件の毛玉はリンドウの神機をつつくのに飽きたのか、今度はつい先程までセンカの髪を弄っていたリンドウ自身に興味を示して、その膝に上っては転げ落ちるという非生産的な動作を繰り返している。何が楽しいのかはさっぱり理解出来ないが、得てして子供とはそういうものなのだろう。転げ落ちては、期待に満ちた目でこちらを見てくるものだから、戦意だの殺意だのというものは毛玉が三回程それを繰り返した次点で既に瓦解済みだ。
今まさによじ登ってくるこれは実に九回目になる。例に漏れず、転げて、一度弾んで二回転。爪は加減をしているのだろう。よじ登られても皮膚を傷つける事は無く、服が破ける事も無い。中々、良識のあるアラガミだ。こちらの言葉を理解しているのか、先程、刃に近づくなと言ってからは鋭利な部分への接触も避けている。賢い。
これが単なる犬猫であれば話は早いのだが、どこをどう見てもこの毛玉はヴァジュラだ。今はまだ小さくとも、その内、人より遥かに大きくなって大地を揺るがす咆哮を上げ、雷を吐くに違いない。
どうするべきか、答えは出ずに、出るのは溜め息だけ。きらきら輝く目で走り寄って来た毛玉の頭を、十回目は流石に付き合いきれない、とリンドウが掴み止めた傍らで、静かにその光景を見詰めていたセンカが徐に神機を手に立ち上がった。
かしゃり。無機質な囁きが歩み出す靴音に埋もれる。己が助けた小さな生き物に一瞥すらくれず、月明かりに照らされた場所を外れた彼の姿は夜の闇にふわりと沈んだ。
「おい、何処行くんだ?」
「帰投します」
平然と言い放つ銀色に、その背を眺める麹塵の双眸が見開く。
「そりゃ無いだろ。まだ何にも結論は出てないんだぞ」
この仔ヴァジュラをどうするべきか。結論は全く出ていない。方針すら定まらないままだ。確かに今回、リンドウが赴いた表向きの理由はセンカの回収であり、彼さえ帰還すれば一先ずこの件は落着という事になるが、残されたヴァジュラの処置も重要な事項である。このアラガミを生き残らせておく事でどれだけの利害が発生するのかを正確に判断しなければならない。
何より、瀕死だったという、このヴァジュラを助けたのは誰あろうセンカだ。助けるだけ助けて、あとは放って置くというのはどういう了見か。この世界は幼子が暢気に雲を追いかけながら生きていける程優しくはないと知っているだろうに。
離れて行ってしまった恩人を追いかけた小さな毛玉が細い脚に擦り寄っているのを眺めながら、リンドウは重い腰を上げた。
「無責任じゃないか?何か思うところがあって助けたんだろう」
立ち上がるついでに拾い上げる神機が硬い音を奏でる。刀身に付いた砂埃を軽く払ってやる間に流れるのが沈黙だけなのは、どう答えを返すべきなのか迷っているからだろうか。
助け舟をもう少し出すべきか、否か。正解は多分、後者。視線を合わせるべく向き直った男の靴底で砂利が鳴る。
センカの足元できちんと座って白藍を見上げている生き物が害になるかは実際、未知数だ。この生き物はとても賢い。やりようによってはこちらの戦力にする事が出来る可能性もあるだろう。戦力の増強が見込める。純粋な目を向けてくる幼子に対しての考えにしては、あまりに薄汚いものだとは思うが、生死を賭けたものに関して、人間と言うものはどこまでも非情になれるものだ。――――それはまるで歳若くして選抜され、戦場に送り出されるゴッドイーターを見る目に似ている。所詮は自分も指揮官の一人でしかないのだ。馬鹿馬鹿しい。こんな浅ましい自分が、輝く白雪を欲しているなんて。
脳裏で自嘲したリンドウの意識を、風の奏が浚う。
「…あの時、同じものに、見えました」
渡る声音は清廉なそれ。澱んだ感情を悟られまいと意識を戻したリンドウは表情を変える事無く返した。
「ヴァジュラが、か」
「はい」
問うまでも無く、彼が表すのは自分とアラガミの違いが分からないと語ったあの感覚だろう。長年、アラガミを屠り続けたリンドウには理解出来ず、反対に、胸に何かを抱える彼だけが理解出来る感覚。
淡々と足元のヴァジュラに目を落として唇から鈴の音を零すセンカの言葉を、リンドウは黙って聞いた。
「怪我をすれば血が流れて、死に瀕するほど呼吸が静かになって、生きている温度と音が消えていく。人間と違うものなのに、人間と同じように生きようと足掻いている。それの、何処が自分と違うのだろう、と…思って…手を出しました。出来心と言えばそうです。ですが、このヴァジュラが生きたいと思うなら、生きていなければならない、とも…思いました」
月光の中、訝しげに首を傾げた男の黒髪が緩やかに揺れる。
「…『このヴァジュラ』が?」
「はい」
生きている、とは、呼吸をし、鼓動を奏で、生きている温度がある状態だ。しかし、状況だけで「それ」が「生きている」と判断するのは間違っているのではないかとセンカは思うのだ。生命活動が滞り無くなされていたとして、「それ」ではない「それ」は果たして「それ」だろうか、と。
例えるなら、サカキがサカキであるように。コウタがコウタであるように。サクヤがサクヤであるように。ソーマがソーマであるように。アリサがアリサであるように。そして、リンドウがリンドウであるように、「それ」が「生きている」のは「それ」であってこそなのだろう。「それ」ではない「それ」は例え、生命活動がなされていたとしても、きっと生きているとは言えないのだ。それが人間であれ、アラガミであれ。
人間と関わる上で、センカはそう思いつつあった。――――だからこそ、確かに己の意思を持って生きようとしたこの暖かなヴァジュラは「温度の無い自分」とは決定的に違う。違う個体、というよりも、違う存在。ならば、「温度の無い自分」の傍に置くのは危険だ。
目を、伏せる。
「…だから、傍にいるのは好ましくありません」
「それで置いていくのか」
この際、脈絡の無さは咎めるまい。寧ろ、咎められない。彼は今、自分がどんな顔をしているのか気付いているのだろうか?柳眉を寄せ、瞼を俯かせて今にも儚く消えてしまいそうな顔をしている。
けれど、その今にも消えそうな綺麗な銀色は、砂利を踏み、静寂を壊しながら光を抜けて同じ闇に身を沈めたリンドウの前で、心を捕らえて放さない微笑を浮かべながら、あまりの儚さに息を呑むしかない男の胸を鈴の声音で引き裂いてみせるのだ。それは恰も触れれば砕ける硝子の刃。
「連れて帰れたとして、良い事にならないのは目に見えていますから」
それならば、自然の理に賭ける方がまだましでしょう。影の中で淡く光を帯びる白い肌に微かな笑みを咲かせて、視線は見上げてくる獣を捉えたまま。
正論だ。言い返せない。自分すら、今し方、この小さな生き物を虐使する事を考えていた。連れて帰ったとして、戦闘用か実験用として一生を終えるだけだろう。かと言って、このまま此処に残していけば、他のアラガミの血肉になるだけだ。どうする事も出来ない。どちらも、選べない。選ばせてやる事が出来ない。ただ、生きていたいという願いだけが指から擦り抜け、虚しく砕ける。
再度、擦り寄ろうとした小さな獣を制してその前にしゃがみ込んだ銀色を、男はただ眺めた。
「これだけ動けるなら、生きていける。僕は戻らなければならないから、お前を連れてはいけない。…お前を殺せと言われたら、僕はそうするしか無いから」
共に居れば、殺されてしまう。他の誰でもない、自分が裏切り、殺してしまう。利己的な思考で語り、幼子に言い聞かせる彼はその実、この獣を守ろうとしているだけに過ぎないように見える。突き放す理由の根底にあるのは例に漏れず、彼が抱える事情があるのだろう。それが、彼にこのヴァジュラを殺させる可能性を示させているのは間違いないが、逆らえない何かが何であるかなど、リンドウには知る由も無い。しかし、ただ単純に、そう、単純に考えて、傍にありたいと思う事はこんなにも難しい事だっただろうか。
答えは――――否だ。
かしゃん。ゆっくりと麹塵を閉じ、また開いた男の手が己の手中の神機を握り直す。
「よし。連れて帰るぞ」
「……え」
意味を成さない言葉を返したのはあまりに意外だったからか。弾かれたように傍らに佇むリンドウを見上げたセンカの、揺れた銀髪が微かに燐光を散らした。その視界に映るのは、いつもの笑みを浮かべながら頭を掻く黒髪の上司の姿。
「まあ、生き物の面倒は最後まで見る、ってのは常識だからなぁ」
そう言って、再び隣にしゃがみ込む彼は当たり前のように手を伸ばし、銀色の髪をわしわしと乱してくる。――――彼は自分が何を言っているのか分かっているのだろうか。連れて帰るというのは、つまり、彼にも危険が及ぶという事で。幹部である彼がその危険を知らない訳が無い。
「あの…」
「お前が何を考えてるのかは毎度毎度分からんが…こいつを大事にしたい、って思ってる事くらいは分かるぞ?…何の為に俺が今、来たと思ってるんだ?ただお前を責めて、引き摺ってでも連れ帰る為か?そりゃ、大間違いだ。お前が理由も無く物事を荒立てる奴じゃないってのは俺がよく知ってる。もう少し我が侭言ったって罰なんか当たるもんか。頼れって言っただろ?頼りにしてくれなきゃわざわざ俺が来た意味が無い。これ以上、俺に寂しい思いさせんなよ」
あー寂しい寂しい。寂しいなあ。嘘泣き混じりに言われては前科がある手前、出かけた言葉は飲み込むしかなくなってしまう。優しく頭を撫でて来る温もりが、気を落ち着かなくさせて、センカは擦り寄ってきた小さなヴァジュラに再度、目を向けた。意識は優しい手と声音に向けたまま。耳を撫でていく響きの良い声。
「心配すんな。何とかなるし、何とかしてやる。それから、」
言葉を切って立ち上がった彼に釣られて、上向けた視界に――――逆光の中で微笑む黒獣が見えた。
「こいつが自分と同じに見えたって言ってたが、どんなものだろうと、お前はお前だ。同じもの何てのは一個だってないんだぞ?それだけは自信持っとけ」
後から気付く事になる。それは初めて「自分」の存在を肯定された日だったと。
仲直りした隊長と新型さんがJr.の処遇について話し合う回ですが…思いがけずどんどん仲良くなっているようで…何これ、不思議現象(ぇ)きっとJr.効果ですね。和みは世界を救う!
今回、書いてて楽しかったのはJr.とリンドウさんの戯れ(?)ですね。冒頭から物凄く楽しく書かせていただきました(笑)リンドウさんの膝によじよじよじ登ってころころ転がる仔ヴァジュラとか可愛いと思うんだ!(それおまえだけ)
2011/03/04 |