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 あの人が「誠実」と「正義」なら、この小さな存在は。

貴方から名前を

「これは興味深い」
 漸く辿り着いたラボラトリ。包まっていたリンドウの外套から顔を出した小さな生き物を見た博士の第一声といえば、月並み過ぎるそれだった。
 感嘆の息を漏らしながら好奇を隠しもしないサカキを他所に、その開いているのかいないのかも怪しい糸目にじっと見つめられる側である当の生き物の方は見慣れない場所で見慣れない人物に至近距離で観察される居心地の悪さに尻尾を震わせるばかり。それでも、懸命に爪を引っ込め、口を閉じ、飛び掛っていかないのは一重に絶対の信頼を置くセンカが、牙も爪も剥いてはならない、と此処に至るまでに言い聞かせたからだ。
 向けられる視線の強さに警戒して尻が上がってしまっているのは、この際、咎めるまい。センカですら及び腰になる男が相手なのだから、仕方の無い事だろう。唸り出さないだけ上出来である。
「よくここまで連れて来れたね。アラガミを連れ込むなんて前代未聞だよ」
「おかげで俺の上着は新調しなきゃならないですけどね」
 嗚呼、毛玉を素直にセンカの腕に抱かせて置けばよかった、と今更ながらリンドウはセンカに飛び付きたい思いを必死に堪える幼子を見て思う。
 手法を分かっていてつついてくるサカキに肩を竦めて返した彼はいつもの指揮官用の外套を纏っていなかった。その代わりのように、苦笑しながら視線を向ける小さな毛玉の周りには爪に裂かれた茶色の外套が過去形で散乱している。最早、襤褸切れ。布巾にもならない。
 ようやっとラボラトリの前に辿り着き、センカの腕から毛玉を受け取った時のちょっとした騒動を思い出して、彼は息をついた。
 リンドウとセンカがどうやってこの問題を極東支部に持ち込めたのか。答えは至極単純。原始的な方法を使ったに過ぎない。要は、ただ毛玉をリンドウの上着に包んで持ち込んだ。それだけの事である。
 下手な小細工をすれば反対に怪しまれかねないと踏んだ二人は、ならば単純に丸めて持っていけば良いだろうと考えたのだ。裾の長いリンドウの外套にヴァジュラを包み、抱えてしまえば、ただの布の塊にしか見えない。問われたなら、汚れたから脱いだとでも言えば、いくらでも言い訳が出来る。一度怪しまれれば万事休すの危うい作戦ではあったが、結果は上々。暴れるかと思ったヴァジュラもセンカが抱え、宥めれば迎えのヘリにも乗れるというのはリンドウも驚く肝の据わりようである。支部内に入ってからも、時折、優しく撫でる手に安心していたのか、人間の気配に暴れ出す素振りは欠片も無く、随分、静かなものだった。――――が、大人しくしていたのもそこまでだ。
 ラボラトリの扉の前で、サカキに説明をしなければならないから、とリンドウがセンカから毛玉を受け取ろうとしたのが運のつき。硬い男の腕に渡されたのが気に喰わなかったのか、センカと離れたくなかったのか、それとも、我慢の限界が来てしまったのか。恐らく、有力なのは二番目だろう。突然、毛玉は爪を剥いて暴れ出した。小さいとはいえ、ヴァジュラの仔。我武者羅に暴れられれば、さしものリンドウも打つ手が無い。うっかり手から転げ落ちた暴れる布の塊がびりびりと頭を抱えたくなるような音を響かせながら床で弾んだのはまるで緩慢な映像のようだったと思い返す。
 引き攣った布の裂ける音。錯乱した毛玉の啼く声。駆け寄る銀色の燐光。同じく駆け寄る黒色の、思わず口から出た驚きの叫び。全てが一遍に起こったその場の混乱を沈めたのは、騒ぎを聞きつけたサカキがラボラトリの扉を開ける音だったというのは何とも間ぬけな話である。サカキ曰く、破いた外套から顔を出したまま転がる毛玉に駆け寄った二人の様はまるで子を案ずる父母のようだったと言うから、いらぬ羞恥までおまけで付いて、センカは先程からだんまりを決め込んだままだ。勿論、その隣でサカキの問いに答えるリンドウも、センカに対して医者も匙を投げる程の想いを抱いている手前、色々な意味で大変、居た堪れない。こちらもだんまりを決め込みたい所だが、立場上、そうする訳にもいかなかった。
 考える間に促されるまま進む会話。サカキはそういった、場を操る能力に随分と長けていると思う。年の功を感じさせるそれは恰も己の青さを指摘されているようで、けれど、そう思うこと事態が青い証拠なのだろう、と未だに想い人と満足に会話すら出来ない男は密かに拳を握った。―――悔しい。そう思う事が、酷く稚拙だと知っているから尚もどかしい。彼が相手なら、銀色も天岩戸を開くのだろうか。考えるだけで、みっともなく嫉妬に狂いそうだ。
 栓無い事を思いながら一通り顛末を話し終える頃には、尻を高く上げて毛を逆立てていた幼子も検査台の上にきちんと座するまでに落ち着いていて、リンドウは一先ず、安堵した。
 冷静になれば、あのヴァジュラはセンカの言う事をよく聞く仔だ。滅多に噛み付いたりはしない。暴れたのは外が見えないままセンカから離されそうになったからで、今、そわそわしているように見えるのは早く彼のもとに戻りたいからだろう。よく堪えている。偉い。が、アラガミの褒め方はよく知らないから、とりあえず、後で頭を撫でてやる事にしよう。
 まずは専門家であるサカキからこのアラガミが危険では無い事を証明して貰わなければならない。アラガミを飼う――こう言っては失礼かもしれないが、他に表現のしようが無い――など、このフェンリルで出来るわけがないのだ。だからこそ、何かしらの理由がいる。彼にはその口裏合わせをして貰わなければならない。
 かちゃり、と小さな音を奏でて眼鏡を直す観察者は相変わらず掴めない笑みを浮かべて蒸気を吹くポットへと歩み寄った。
「で、つまりはセンカがこのヴァジュラと一緒にいたいから、その口添えを私にして欲しい、と」
「話が早くて助かります」
「しかし…君もよく馬鹿正直に報告したね。私以外だったら大変な騒動だ」
 ツバキ君だって君を許さないよ。言いながら、サカキは三つのカップに茶を注ぐ。ふわりと昇る湯気に興味をそそられたのか、毛玉の鼻がひくりと動いてそちらを向いた。
 差し出されたそれを受け取るリンドウが肩を竦めるその隣から、毛玉が尻尾を撓らせる検査台へ移動するのはセンカだ。その暖かなカップの中身を幼子に見せて、湯気に当たらせる様は母が子にものを教えるそれのようだ、と思う。――――良い傾向なのか、否か。悩む所ではある。
 リンドウが話した顛末はセンカの事情を知るサカキにとって興味深くも危ういものだった。
 アラガミを守る為に身を削る。人間側としては良い傾向ではない。しかし、内面の変化という観点で見れば、それは悪いものではないのだろう。人が善意だけを持てないように、或いは、悪意だけを持てないように、全ては相反するものを共に持ち、そして、全てにおいて理由がある。センカのそれもただ、傷ついた仔を助けたい、とそれだけのものだったに違いない。例えば、それが人であったとしても、犬猫であったとしても、その状況に当て嵌まったなら、きっと同じ事をしただろう。今回はそれがアラガミだったというに過ぎないのだ。大した問題ではない。それに関して、サカキはどうこう言うつもりも無ければ、告げ口する気も無い。飼いたいと言うならいくらでも保障して良い。そんなもの、いくらでも言いようがある。彼等がヴァジュラを此処へ連れて来たのは正しい選択だった。
 しかし、サカキが気にする重要な問題は別にあるのだ。
 リンドウが受けたタツミの報告によれば、ヴァジュラの仔は瀕死の重傷だったというが、サカキが見た所、目立った外傷は無いに等しい。毛をごわつかせる血を洗い落とせば傷の一つも無いかもしれない。驚異的な回復。不自然とすら言えるそれ。
 例えアラガミとはいえ、瀕死の重傷がたかが数時間で影も形も無くなるまでに癒やせるものか。無論、答えは否だ。「誰か」が「何か」をしなければ――――具体的には、「誰か」がヴァジュラの仔に「再生するに足るオラクル細胞を分け与えなければ」、蘇生は不可能だ。勿論、それだけで蘇生出来るかといえばそれもまた否である。様々な不安要素がある上、例えそれらを解決できたとしても、ただ細胞を与えるだけではそれには至らない。例えるなら、物語で言う治癒術を扱うような能力が必要になる。サカキが知る限り、「それ」が出来る可能性があるのは「彼」だけだ。
 ちらり。検査台に座る銀色に目をやる。乾いた血に濡れた細い身体。その白い手首の、赤が滲んだ布。後で話を聞かなければならない。あまり安定しているとは言えない彼だ。体調が崩れる可能性は否めない。元々、あまり強くも無いのだから自重はして欲しいものだが、今回のこれはメディカルチェックのフルコースで勘弁してやるべきなのだろう。叱るには理由が足り無い。
 検査台の一人と一匹に近寄る足音が微小な計器の稼動音を縫う。
「センカ」
 声をかければ、見上げてくる白藍。
「そのヴァジュラが『好き』かい?」
 この問いは、知っている、とセンカは思う。昔、植物を貰う前に掛けられた問いだ。更には、つい最近、リンドウにも問われた。
 緩く瞬く白藍が視線を落とし、湯気の立つカップにそっと触れてみては蒸気やら熱さやらに驚いて手を引っ込めている幼子を見つめる。
 嫌いではない。これは確実で、寧ろ、そう、多分、逆だ。じゃれてくるのは悪い気はしないし、触れた温もりも嫌ではない。胸にふわりと灯る暖かな何かは恐らく、人間的に言うなら「和んでいる」とか、そんな感情なのだろう。それは植物に触れる時のそれに似て、けれど、それとは少しばかり違う。しかし、限りなくそれに近くて、だから、きっと。
 そっと差し伸べた手に気付いた幼子が白い手のひらに頬を摺り寄せて甘えれば、じわり。滲む体温。――――嗚呼、そう。そうだ。これは、絶対。

「…好き、です」

 小さな囁きに、黒獣は僅かに目を見開き、観察者は嬉しそうに笑った。
「そう。じゃあ、名前をつけてあげなくてはいけないね」
「名前…ですか…」
「そうだよ。君にも『センカ』っていう名前があるだろう?このヴァジュラにも『自分』をあげなくては可哀相だ」
 銀髪をくしゃくしゃ撫でながら言うサカキに刹那、首を傾げかけて、センカは一つ首肯する。成る程。確かにそうだ。このヴァジュラには「個」があるのだから、「個を識別するもの」をまずあげなければならない。己が「センカ」であるように。
 膝に昇ってくる幼子を抱き上げ、暫く考え込む。
 名前。どうするべきか。当然の事ながら、生まれてたかが十六年の自分には名付けの経験などあるはずも無い。個体を識別するものなのだから適当なものは駄目だろう。例えば、一号とか二号とか。失礼にも程がある。そんなものは個の無い物につけるものだ。どうするべきか。フラスコ。試験管。アンプル。バレット。神機。テーブル。視界に入るものはどれもこのヴァジュラの名前には適さない。
 何かいいものは無いか。探し彷徨う視線がふと、一箇所に止まった。こちらを見て瞬きをする黒い髪の、長身の男。このヴァジュラを助けた事を許してくれた人。頼れと言った人。寂しいと、言った人。
「何も思いつかないかい?」
 思考に割り込んだ声音に、彼は緩慢な動作で首を振った。その唇が開く瞬間、口元が淡く笑みを刷く。
「レンギョウ。レンギョウにします」
 胸に抱いて、頬を寄せれば甘えてくる温もり。ぺろりと頬を舐められ、今度こそ小さく吐息で笑ったその様が余程、珍しかったのだろう。前に佇むサカキとリンドウが目を見開いて驚く気配がする。それがまた少しだけおかしくて、センカはごわついた毛に鼻先を埋めて弧を描く口元を隠した。
 こんな感覚は、きっと悪くない。目を閉じて思う。

 あの人が竜胆なら、この腕の中の小さな存在はそれに叶えられた連翹だ。



マスコット誕生(ぇえ)
漸く此処で名前が出てきてこっちも楽になりました。いくらなんでも毛玉毛玉言ってるのは可哀相だと思っていたもので(笑)マスコットがいないとどんどこ暗くなりそうなこの長編…もっと和み要素が必要です。
リンドウ隊長と新型さんと毛玉で擬似家族!!(なにぃぃい!?)100パーセント私だけが楽しい展開万歳!!(…)

2011/03/08