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 どこの誰だろうと構わないって?何も知らない癖に良く言うね。
 そう言って嘲る自分が、一番、希望を望んでいる。

和やかな攻防戦

 ころり。些か硬い褥に横たわる隣で寝返りを打った小さな獣が、大股を開いて仰向けになる。すよすよと寝息を立てて眠る様は安心している証拠だろう。
 種族名しかなかったこの獣に名前をつけてやった後にサカキ得意の口八丁手八丁が予想通りの大勝を飾ったのはつい数時間程前の事だ。少々、強引な手法ではあったものの、極東支部の幹部連中にヴァジュラの保護を許可させたのである。すらすらとそれらしい理由を並べ立てて相手の言葉を悉く潰して行く手管は中々見もので、この時程、センカは彼が後見で良かったと思った事は無い。鮮やか、且つ、えげつない。アラガミの生態を知る利益を謳いながら言外で人類の存亡を秤に掛けて脅す様は隣に佇むリンドウですら顔を引き攣らせていた。怪談話の方がまだましだ、と顔を青くさせた上司が会議の終わりに密かに呟いていたのをセンカは知っている。
 反対するかと思っていたシックザールといえば、興味深げにこちらを見ていただけだったが、結局、何も言って来なかった所を見ると、黙認する、或いは、利用法を見出したのかもしれない。
 大切なものが出来るというのは、それだけ弱味が出来るという事に等しい。油断は出来ないだろう。無論、彼の前で気を張らない事など皆無だが。
 そっと手を伸ばして、前足の肉球に触れてみる。意外に柔らかいそこは触れられるとくすぐったいのか、うにうにと手が動いて、その仕草がセンカの頬を緩めさせた。
 こっそり自室に連れて帰るように。自室に帰ろうとしたセンカと離れ難くて、泣いて喚き出した幼子をシーツに包んで渡してきたサカキの言葉が甦る。癇癪を起こしたヴァジュラに暴れられるのは、流石のサカキも参るらしい。無理もないだろう。ゴッドイーター用にそれなりに丈夫に作られている筈のリンドウの外套を襤褸布にしてしまった前科がある。割れ物だらけのラボラトリなどすぐさま無残な姿になるに違いない。
 センカの腕に収まって漸く落ち着きを取り戻したレンギョウを言い付け通り誰にも見つからずに自室に連れて帰った――人口密度の高い支部内では奇跡に近い成功だ――彼が一番初めにした事は血でごわごわの幼子を洗ってやる事だった。気がつけば自身も返り血を頭から浴びたまま。お世辞にも気持ちが良いとは言えない。
 シャワー室に放り込んで洗い直す事三回。血の臭いを取り去り、柔らかなタオルで拭いた後の幼子はそれは綺麗な毛並みをしていた。
 ぷに。少し強めに肉球を押してやれば、にゅ、と飛び出す小さな爪。
 この部屋も、外で暮らしてきたヴァジュラにとっては見慣れぬ場所だろうに、連れて来られても暴れないのは好ましい。感じない筈は無い人間の気配を警戒しないのも此処が「人間の領域」だと理解しているからだ。賢い。その賢さはこの仔を生かすだろう。知識は武器だ。
 ころり。もう一度、寝返りを打ったレンギョウが、触れた白い手に擦り寄るのを感じながら、センカは静かに白藍を閉じて、ふと、思い出す。――――そういえば、リンドウが、もっと好きに物を言って良い、と言っていた。少し、考えてみても良いかもしれない。


 朗らかに笑う彼の人が、実際には見た目ほど朗らかではないのを思い知ったのはつい先程の事。ラボラトリの扉の前でリンドウは些か顔を青褪めさせた。
 この世界には絶対に敵に回してはならない人種があるというが、ペイラー・サカキという人物は正しくその種の人間だ。言葉が武器になるのを比喩でなくこの目で見てしまったのは最早、運が無かったとしか言いようが無い。
 そして、今、何故かその切っ先がこちらを向いている事に、男は今にも卒倒しそうな程焦りを感じていた。センカがレンギョウを連れて自室へ帰り、自分もまた自室へ戻ろうとしただけなのに、この展開は何の苛めなのか。良い事があった筈の今日の夢見がすこぶる悪かったなら、十中八九、この人の所為だろう。
 笑っている。とても良い笑顔だ。その背後から噴出すような黒い気配が無ければ。
「リンドウ君。一つ聞きたいんだが、いいかい?」
 何でもどうぞ。言葉は喉を通る前に掻き消えて、リンドウは引き攣った顔で一度だけ頷く。
 それを満足そうに見たサカキの指がかちゃりと眼鏡を直す音が矢鱈と大きく響き、更に顔を青褪めさせる黒髪の男を眺めて室内の空気が震えた。
「うちの子が好きかい?」
 うちの子。この話の流れで、うちの子といえば、センカの事だろう。サカキが、うちの子とは、それは、つまり。
「ご、ご子息でした…か?」
「質問に質問で返すのは感心しないね」
「…すみません…」
 ともすれば平伏しそうなリンドウに威圧感のある笑みを苦笑に変えた観察者は、いや冗談だよ、とひらひら手を振りながら返してやる。
 リンドウが問いかけてしまうのも無理は無い。子供一人いてもおかしくは無い四十七歳とはいえ、研究一辺倒なサカキに浮いた話など、これまで一つも無いのだ。それが突然、十六歳の少年を「うちの子」と言えば誰でも目を剥いて驚くだろう。勿論、サカキとてそれが分かっていて少しばかり意地悪をした。此処にセンカがいたなら冷えた瞳で場を眺めていたに違いない。最近のあの子は随分と感情が豊かだ。
 堪え切れなかった笑い声を漏らしてサカキの肩が揺れる。
「実子ではないが、センカは私の保護下にあるようなものでね。その関係で経歴にも詳しい事が書けないんだ」
 意味する所は、それ以上、探ってくれるな、と。妙に覚えのある感覚にリンドウは目を細めた。嘘は言っていないだろう。だが、知られるのは、好ましくないのだという明らかな拒絶。それはセンカが行うそれに良く似ている。成る程。確かにそう言われれば、二人の会話の気安さにも納得が行く。まあ、それが個人的に気に喰わないと思うのは自分の勝手な嫉妬だけれど。
 しかし、それなら、こちらも嘘や誤魔化しはしなくて済むかもしれない。寧ろ、する方が不利だろう。
「それで、話を戻すけれど…君はセンカが好きかい?」
 笑みを浮かべる観察者。保護者?上等。都合がいい。――――居住まいを正した男の麹塵が、レンズの向こうを見据えた。

「ええ、好きですよ。真剣に」

 偽るなんて馬鹿馬鹿しい。偽れるような時期はもうとうに過ぎてしまっている。姿を思い描くだけでこの胸を焼く想いをどうして偽れるだろう?今、此処で彼の保護者だという彼に反対されたとしても、自分はあの煌く銀色を手に入れる為の努力を惜しむつもりは無い。もぎ取った者が勝ちだ。
 流れる沈黙。見た目だけ和やかな場はその実、酷く冷えている。機械の振動音が静寂を壊しているのが無粋に思えた頃、息を吐いたのは、治らぬ幸せな病で胸を焦がす男の言葉を正確に理解した観察者が先だった。
「…真剣なら構わないけどね。あまり乱さないであげてくれないか?お嫁に行くには修行が足りなくてね」
「花嫁修行なんて夫の傍でも出来ますよ」
 間髪入れずに返って来た買い言葉にサカキの糸目が僅かに見開く。しかし、それも一瞬の事。すぐさま浮かぶのは苦笑。
「……あの子が君を苦手にしている理由が分かった気がするよ」
 これは手強い。彼の本気は中々怖そうだ。押しが強いの一言では済まされない言動。強引に踏み込もうとするそれは人と距離を置きたがるセンカには好ましくないものだろうが、既に淡い恋心を通り越したリンドウの熱情は獰猛な程、猛り狂っているのだろう。狩りを阻む邪魔者を見据え、ぎらぎらと瞳を光らせる男はどれ程の情欲の波と戦っているのか。白雪を捕らえに走り出す黒獣が舌なめずりする様を想像して、サカキは笑みを深める。――――センカ、もう少し頑張って逃げないと直ぐに捕まってしまうよ。いくら私だっていきなり、この人と一緒になります、なんて言って来られたら凹んでしまいそうだ。そうしたら、そうだね。ヨハンに酒に付き合ってもらおうかな。勿論、まだ嫁になんてくれてやるつもりは無いけれど、君が逃げ続ける限り、こちらが何もしなくとも暫くは周りが頭を痛める鬼ごっこが続くだろうから私は場外で見ている事にしよう。必死に逃げるセンカと、その後を必死に追いかけるリンドウ。それなりに面白い構図かもしれない。
 笑んだ吐息を零して瞬きを一つ。睨み合いは仕舞いだ。ぴりりとした空気がはじけ飛ぶ。
 いつかやってきそうな未来を思い描く観察者は引き続き含み笑いをしながら、今度こそ自室に戻るべく踵を返す黒獣を軽い声音で呼び止めた。
「ああ、そうだ。リンドウ君、一つ教えてあげよう」
 正直に宣戦布告してくれたお礼に、もう一つ種明かしをしてあげても罰は当たらないだろう。これを教えてやるのは非常に癪だが、少しあの子の考える事を教えてやっても良い、と思ってしまうのは一重に好転の可能性を追っているからに他ならない。全く、親心というのは複雑なものである。彼がセンカの全てを知った時、最悪に転がる可能性もあるというのに。
 刹那、胸を刺したのは、何だったのか。気付かぬふりをしたまま口を開く。
「連翹の花言葉を知っているかい?」
 勿体ぶるサカキに返るのは怪訝な視線。この分ではレンギョウが植物だという事も知らないに違いない。そう脳裏で呟いて、嗚呼、やはりあの子を嫁にくれてやるにはまだ早い、と思う。そういえば、少し前にも同じ事を思った。
 感じるのは少しの優越感。自分が教えなければこの男は想い人が幼子につけた名前の意味すら知らないのだ。
 見当もつかない、と見返してくる相手に、サカキの顔にはやはり笑みが浮かぶ。

「『叶えられた希望』だよ」

 或いは、「希望」そのもの。



未来の旦那が舅にご挨拶。「お父さん、俺に息子さんを下さい!!」……とまではまだ行きませんでしたが、まあ、「お父さん、息子さんを戴きます」くらいの宣戦布告にはなっているかと(笑)
対するお父さんは「君如きにはまだやれないね!」という姿勢です(ぇええ)
さて、何気に楽しかったのでまた書いてみたい旦那VS舅ですが、それはちょっと置いておいて。
竜胆の花言葉は「悲しんでいる貴方を愛す」がよく知られていますが、今回は連翹の花言葉の件もあって、「誠実」「正義」の方を使いました。
次は第一部隊に毛玉をご紹介です。

2011/03/16