観察はお互い様。
連れ込み夫と連れ込まれ妻
リンドウの部屋は存外、綺麗だと思う。否、綺麗、という表現は少々、語弊があるかもしれない。当て嵌まる言葉を捜すなら、彼らしい、と言うべきか。
足を踏み入れ、まず印象に残るのは収集品の如く所狭しと並べられた酒瓶だろう。無色から琥珀に青竹、深緑。窓を模したモニターに映し出された夕日の橙に照らされた色とりどりのそれらは同じ間取りの同じ雰囲気の部屋を彼の色に染め上げる。中身が入っていない物も見受けられるのは、それが彼の気に入りであり、確かに収集品だからなのだろう。雑多に並べられているように見えて、何一つ壁を向いているラベルが無いのは大雑把にみられがちな彼の内なる性格を現しているようだった。
意外に几帳面といえば、整えられた褥とサイドボードの書物や床の綺麗さもそうと言える。流石にコウタ程、室内が荒れてはいないだろうと予測していたとはいえ、この整然さを改めて認識した時は動じる事の少ないセンカでも目を瞬かせた。
勝手に掃除が入ってくれる訳でもない支部の自室。必然、部屋の管理は己でしなければならない。管理といえど、掃除と洗濯、整頓くらいのものだが、多忙を極めるゴッドイーターの中でそれすら出来ない者がいるのは事実である。非番の日に床掃除から水回りの掃除、溜まった洗物の洗濯、散らかった資料の片付けなど疲れ切った身体に鞭を打つ行為であるのは言うまでも無い。家事も立派な力仕事だ。
センカ自身はまだ新兵である故か息が詰まる程多忙という事は無いが、隊長たるリンドウは別だろう。部隊の管理から上層部への報告書の作成、勿論、人並み以上に任務もこなし、報告をする。その中でここまで綺麗に出来るというのは素直に尊敬出来る、驚くべき事だった。何でもそつなくこなす長身の美丈夫。しかし、暇を見つけては家事に精を出す見目麗しい隊長殿、というのも中々滑稽な光景だと、二度目にこの部屋を訪れた時にそれに気付いたセンカは密かに溜め息をついたものだ。
すう。手元の書類を仕分け、溜め息ついでに吸い込んだ大気に濃い煙草の香りが染み付いていて、センカの顔には知らず、怪訝なそれが浮かんだ。
以前、煙草は手放せない、と豪語した通り、手が空いている時には必ず紫煙を燻らせている男の部屋は一歩踏み込む前からその香りで満ちていると判るほど濃いそれに満たされている。リンドウ自身を象徴するような香りはセンカが仕事を終えて自室に戻っても残滓のように纏わりついて離れないものだから、たまりかねたセンカが一度、書類整理の間だけでも禁煙を申し出たくらいだ。もっとも、それも口寂しくなったリンドウがセンカに戯れの口付けを強請るまでの数時間の間だったけれど。ぷつん、と何処か理性が吹っ飛んでしまったかのような勢いに危機を覚えたセンカが近付いてくる男の唇に煙草の箱を押し付けたのは今でも青褪める思い出である。
すう。もう一度、吸い込む空気。煙草の香り。任務の間中ですらリンドウ自身から香るそれは最早、センカの中で確実に雨宮リンドウを象徴するものの一つになっていた。
処理を終えたらしい書類を回収し、減った紙の山を再び高くしてやる。手元で入れ替わった書類は――正しく署名済み。このまま担当部署へ提出して良いだろう。違う書類には注釈が付けられている事からも彼がきちんと目を通している事が分かる。
仕事には手を抜かず。リンドウという男はそういう男だ。頃合良くはいったコーヒーを台所に取りに行きながら思う。デスクワークが苦手だと言いながら机に向かう横顔は到底、そうとは思えない。穏やかな麹塵の双眸が鋭く細まり、笑みを刻んでいた口元が引き結ばれる様は雄々しい美しさに満ちていて、それだけで胸を高鳴らせる者もいるだろう。キーボードの上を走る指先。さらりと流れる少しばかり痛んだ黒髪。時折、ペンを取り、走り書きながら考え込む仕草。全てが整っているように見えるのが憎たらしい。
しかし、人の根本というのはそう簡単には変わらないものだ。
最早、黒に近い茶褐色の液体が波打つサーバーを片手にやってきたセンカに向けて、男の口から言葉が発せられたのはもう何枚目かになる書類に署名を終えた後だった。
「センカ」
「駄目です」
「…いや、俺、まだ何も言ってないんだが…」
げんなりと凛々しい顔を少しばかり落胆した様子のものに変えたリンドウは先までの雰囲気が嘘のようだ。それに無視を決め込み、センカは慣れた手つきで中身のほとんど入っていないカップにとぽとぽと液体を満たして行く。
「休憩はまだ先です。せめて今日中にこの山を終わらせなければ任務にも支障が出ます」
「今日中…ね…」
摘み上げる山の先端は机の上と言う名の地上から優に五十センチはある。これでも減った方だが、これを今日中というのは拷問に近い。もとより、机に噛り付いているよりアラガミに噛り付いている方が性に合う男の事。書類の処理など出来る事ならやりたくないのが本音だ。更に本音を言えば、想い人が近くにいるのだから、紙切れの相手よりもそちらの相手をしたい所である。シャワーも完備された部屋の中。準備万端な褥の上で少々、無体な事だってしてみたくなるのが恋に落ちた男の正常な思考だろう。しかし、そこは難攻不落の銀の白雪。完璧に予定を管理してくれる彼はリンドウの欲望を欠片も出させない。否、出す前に叩いて潰している、というべきか。
それでも、こうして同じ部屋で、何だかんだと言いながら己の仕事でもないのに手を貸してくれるのはこの上なく嬉しい事だとリンドウは思う。それだけで、舞い上がれるのだから、惚れた方が負けだというのはあながち間違いではないのかもしれない。
淹れたての香りを暖かな湯気と共に飲んだ男は気の抜けた笑みを浮かべて傍らに立つ銀色を眺めた。
あの日から、比較的素直に己を表現するようになった彼は浮かべる表情すら柔らかくなったように思う。からかえば憮然とした顔をし、他愛も無い世間話の中では無表情ながら穏やかに言葉を返す姿は少し前までは考えられない事だ。彼も彼なりに歩み寄ってくれる気になってくれたのだと思うと緩まずにはいられない顔が更にやに下がる。自覚しているだけに、部下から冷えた瞳で指摘されても痛くも痒くも無い。
今も自分を机に縛り付ける変わりに何かと世話を焼いてくれる女房役が可愛くて仕方が無いのだ。
「……何ですか。気持ち悪いです」
「熱視線を送るくらい良いだろう。本当ならベッドに連れ込むかデートに連れ出したいのを堪えてるんだ」
充電に協力してくれ。座するリンドウはサーバーを持ったまま佇むセンカを上目遣いで見上げる。
あの日から二人で同じ任務に就いた事など一度も無かった。折角、二人の関係が改善したのだから、意気揚々とデートに連れ出したい所だが、その矢先のこの仕打ち。エントランスでセンカを口説いてからのツバキは何かと容赦が無い。悪意満載の雑務処理は十中八九、姉上殿と幼馴染殿の防衛策だろう。次々と送られる書類に何故かアナグラのトイレ設備云々が紛れている事がそれを裏付けている。
まあ、兎に角、この紙の山を撃破しない事にはセンカとのデートは夢のまた夢だ。人間は総じて現金なもの。ご褒美があれば何でも出来る。
「さて、もう少し頑張りますか」
もう一口、美味い苦味を啜って机に向き直った男に、透明な声音が、その言葉はそれで既に三回目です、と溜め息をついた。
紫煙の香りに溶けた悩ましげなその吐息を聞き、今度は男が、その溜め息はそれで既に十二回目だ、と笑って返せば、銀色が憮然とした顔で口を噤んだのは言うまでも無い。
実は結構、必死に堪えている隊長を誰か褒めてあげて(何)
ツバキ御姉様に物凄い怒られた隊長は一応、自重しているようです。…まあ、毎回、こうして新型さんを攫っては自室に連れ込んで共同作業(?)しているんでしょうけども…。新型さんもいきなりベッドインを強要されたりしないと何処かで分かっているのでそこまでは容認です。
…でも、気付いてるか…?この二人、この時点で既にほぼ名前呼びだけで会話が出来ちゃう熟年夫婦なんだぜ…?
2011/04/08 |