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 入ってきた彼を見た時、ぞっとした。

同道巡って始めに戻り、

「特に何も報告するべきものは無かったと、そういう事か」
 冷ややかな視線が針の如く眼球目掛けて飛ばされるのはこの十六年、変わった事が無い。任務に成功しようが失敗しようが歯牙にもかけぬようなそれは他者には異質でも、自分には大気の窒素に似たものだとセンカはいつも諦めに似た思いを抱く。
「はい」
 短く返す銀色にシックザールは鼻を鳴らす嘲笑で返した。
「…お前にも少し悪知恵がついて来たようだな。ペイラーが色々入れ知恵しているのは知っていたが、近頃の行動はその他の者の影響か。人間の真似事などおこがましいとは思わないのか?」
 聴覚が、凍る。
 図星だ。咄嗟にそう思った。この男は報告しなかったささやかな出来事に気付いていて、あえてそれを掠めるような言い方をしている。悪知恵がついた、とはそういう事だろう。少し前までは秘密という言葉すら知らないような任務報告をしていたセンカが行った行為に不快感を露にする様は、冷えた鉄のように胸に凍傷を齎す。じわり、侵食するような冷たい痛み。――――問い詰められるか、仕置きされるか。ぞわりと蛆が背を昇る。レンギョウを連れて来なくて良かった。あの仔にまでこんな思いをさせる必要は無い。
 目を閉じ、感覚を研ぎ澄ませれば聞こえる息遣い。闇を開き、緩く瞬いて、引き結んだ唇に少しだけ力を込める。揺れる視界が、もう少しだけ持てば良い。あと、数分だけ。この部屋を辞するまで。
「申し訳…」
ありません。言う前に、背後の扉が開いた。
 そんな、まさか。他者に聞かせる訳にはいかない話の最中の来客など有り得ない。意味有り気に笑みを深めた男を刹那、意識の隅にやり、弾かれるように振り返った先。――――引き攣ったのは喉。目の前の戸口には、漆黒。切れ長の麹塵を見開かせ、佇む長身の、雨宮リンドウ。
「…せ、んぱ、い…?」
「センカ?お前、何で此処に…」
 呆然としているのはお互い様だろう。どちらも互いが此処にいるとは思って居なかった。殊、リンドウには信じられない光景である。何せ、前回、センカとこの階層の廊下で会った時、彼は「おつかい」だと言ったのだ。それが、今回はどうだ。どう見てもこの部屋の雰囲気は単なる「おつかい」ではない。肌に触れる重く張り詰めた空気。明らかな、支部長と新兵の密談。そうとしか思えない。何故、どうして、彼が。
 視界に映る彼の顔色はまるで死人だ。どこかで冷静な自分が囁き、そうして、嗚呼、そういえば前回の「おつかい」の後もそんな顔をしていた、と思い出す。
 視線を合わせたまま、瞬きすら忘れた沈黙を打ち砕いたのは、平然と涼しい顔を装うシックザールだった。
「折角、来て貰った所、すまないが…見ての通り来客中でね。少し外で待っていてくれたまえ」
 控えめな、けれど、確かな命令が音になれば、その下にいる者は従うより他無い。
 短く生返事を返して踵を返す男の視線が、扉に隔てられるまで外されなかった事に半ば絶望したセンカは再び訪れた静けさの中で崩れるように膝をついた。
 その背に、冷えた鉄が刺さる。
「リンドウと仲良しごっこをする前に己が『何』なのか思い出したまえ」
 化け物が。そう聞こえたのは、幻聴だったのか。


 飛び出した廊下で、多分、リンドウとは擦れ違っていたのだろう。視界の端に、酷く驚いた風の麹塵を見た気がする。しかし、気付いた時には自室に立ち尽くしていたから、或いは、それは夢幻であったのかもしれない。
 心配げな声を上げて脚に身体を擦り付けるレンギョウの体温が酷く遠い。
 見られた。リンドウに。一番厄介な人に。話の内容は聞いていなかったとはいえ、普通とは言い難い雰囲気には気付いたに違いない。あの人は聡い人だ。だからこそ、彼は初めて二人きりで任務に出た時、明確に宣言していた。「支部長との繋がりを徹底的に洗う」と。あの時には既に何かを掴んでいたという事だろう。それがシックザールの「あの計画」の方であるのは「センカ」の事を知らなかった事からも明白だが、今はわからない。「センカ」の方まで知っている可能性もある。
 それが、どういう意味を示すのか。ベッドの枕元に立てかけられた己の神機に目をやり、センカは内臓の温度が急激に下がるのを自覚した。――――あれが、こちらを向く。あの、リンドウの、赤い、赤い、赤い、勇ましい神機が、憎悪と嫌悪の眼差しと共に。波及するように、コウタが、サクヤが、ソーマが、アリサが。
「うぁ…あ…」
 悲鳴が、喉を潰し、呼吸すら止めて、凍る。知っている。これは、「恐怖」。そうだ。自分と彼等は違う。明らかに。言うまでも無く。言われるまでも無く。どう人間らしく振舞ってみようと、自分は人間では有り得ない。感じるこれは――――嗚呼、「絶望」だ。
 罅割れる程、冷えて行く身体の内。その中で突如、急激に温度を上げたものが食道から喉を通る苦しさに、センカの両眼が涙の膜を厚くして見開いた。
「あ、ぐぅ…ごぼ…っ!げほっ、ぅ…え…」
 唇を赤く妖艶に染め上げて、壊れた噴水の如く吐き出されながら気道を潰す血液の臭いが室内を満たして行く。床を打つ水音。赤い飛沫。倒れ込む身体の、重い音。がぼがぼと留まるところを知らない喀血にただでさえ青褪めた顔が死の影を纏い、力無く床の温度に触れながらも時折、勝手に跳ねる身体が恰も全身の血を絞り出しているかの如く吐血を促す。
「ぎゃあう、がうう!」
 突然、広がった目の前の惨状に動転するしかない幼子は声を限りに叫ぶばかりだ。その声すら、掠れ、遠くに聞こえ始めた時。
「センカー?明日の任務なんだけど…って、大丈夫か?なんかレンギョウがパニクってるみたいだけど……センカ?」
 ぱしゅ。鍵をかけていなかったのが幸いか。難なく開いた扉から入ってきた茶色の少年に希望を見たレンギョウは涙を散らして飛び付いた。
 ヴァジュラの泣き顔と声に驚きつつも、そこは流石、ゴッドイーター。ぐしゃぐしゃの顔で飛び付いて来たそれを笑顔で受け止めたコウタは、しかし、目に映った室内に即座にその笑みを凍りつかせた。比喩でなく己の血の引く音を聞く。
 薄暗い部屋の中。むせ返る、血の臭い。視界一杯の血飛沫の跡。叩けば水面が揺らぐような血溜り。その中心に輝く、銀色の。

「セン、カ…センカっ!しっかりしろよ!おいってば!!センカぁ!」



上げて落とすのが大好きな当家らしい展開です。こんなに苛めて楽しい子もいないでしょうね…シックザール支部長にはきっと私が乗り移っています(ぇえ)
話の内容までは聞いていないにしろ、勘のいいリンドウさんなら何が話し合われていたのかくらいは想像がつくかと思います。だからこそ、新型さんは彼が怖いというか…。
頭のどこかでわかっていても、今までの穏やかで賑やかな関係が一気に様変わりしてしまうのを怖れる事自体への違和感が混乱の原因です。感覚を掴みきれていない新型さんらしい体調悪化の理由。
で、こんな時に出てくるのはやっぱりコウタさん。頑張れ、お兄ちゃん。

2011/04/22