早くしてくれ、不安で叫びそうだ。
エマージェンシー・コールはささやか過ぎて
この手が此処までがちがち震えた事がこれまであっただろうか。どこかでそんな事を思いながら、コウタはエレベーターのボタンを連打する。
早くしなければ。早く、早く、早く、早く!早くしないと、大切な友人が死んでしまう。思うほど、震えが止まらない。逸るばかりの気が身体まで震えさせて、いっそ、通気口にでも潜ってラボラトリまで行ってしまおうかと無謀な事まで頭を過ぎる。
あんな、あんな風に血を吐くのを見るのは二度目だ。だが、一度目はあそこまで酷くは無かった。雪に溶かされて量を把握し切れなかっただけかもしれないが、間違っても赤い絨毯を敷いたような血溜りにはなっていなかった筈だ。濃厚な鉄の香りもあそこまで濃くは無かった。正確に見なくても分かる。あれは下手をすれば致死量だ。触れた身体は酷く冷たかった。早く輸血を、否、先に止血を、嗚呼、その前にやはり適切な薬を!
「くそっ、くそっ、まだかよ!」
もう何度、このボタンを押したのだろう。そもそも、ゴッドイーターとラボラトリを繋ぐエレベーターが何故、こんなにも少ないのか。緊急時を全く考慮していない設計だとコウタは内心、唾を吐いて毒づいた。
箱の現在地は幹部区画。よりにもよって最下層。漸く誰かが乗降し、ゆったり動き出したランプがもどかしくて堪らない。最下層からラボラトリ、ラボラトリからベテラン区画、ベテラン区画から、ぽん。場違いな程暢気な音で新人区画に辿り着く。金属の軋む音と共に開いていく扉に潜るように身を滑らせようとして、
「うおっ!?コウタ!?」
「わわわっ、え、何…リンドウさん!?」
丁度、出ようと思っていたらしい長身の男に頭から突っ込んだ。――――黒髪に切れ長の麹塵。通った鼻筋に整った顔の男。我らが第一部隊隊長、雨宮リンドウだ。
あまりの勢いに気圧されたのか、咄嗟に押したエレベーターの開ボタンを指で沈めたまま目を丸くしたリンドウは青褪めたコウタに眉を顰めた。
「どうした?何かあったのか?」
「リンドウさんこそ、何で此処に…」
リンドウの部屋はこの新人区画の一階層下のベテラン区画にある。幹部区画から来たこの箱が乗せて来たのは確かにこの男一人で、けれど、箱は一度も止まらずに此処までやってきた。下層にあるラボラトリに向かうべくコウタが押したボタンは当然、下向きであって、リンドウがエントランスを目指していたのであれば箱はまず新人区画を通り過ぎ、上層を目指す為、焦れるコウタの前では開かない。此処で止まったという事はリンドウがこの区画に何か用事があったからに他ならないのだ。
しかし、今、此処で問答している暇は無い。一刻も早くサカキを連れてセンカの元へ戻らなければ。友人の苦しみを長引かせる訳にはいかない。
コウタは無理矢理、箱へと乗り込み、此処に用があるらしいリンドウを押し出した。
「俺はセンカに用が…って、おいこら、コウタ!?」
男の口から出た友人の名前に、コウタの目が光る。
「センカに用があるなら、一先ず俺にラボラトリに行かせて下さい!早いとこサカキ博士を連れて来ないといけないんですから!」
「はあ!?」
大口開けて驚きながらもすんなり外へ追い出されてくれたのは想い人の名前のおかげだろうか。途端、つっかえる脚の力を抜いた男が振り返る頃には逞しい身体は呆気なく箱の外。
「俺が来るまで部屋に入っちゃ駄目ですからね!レンギョウ、リンドウさん見張ってて!」
「ぎゃうっ!」
閉まり始めた扉から下された少年の号令を合図に、目当ての部屋から飛び出してきた毛玉がリンドウの頭に張り付くのを茶の双眸が見届け、がしゃん。遮られる光景。
何と言われようと、今、あれを見せる訳にはいかない。リンドウならセンカを悪いようにはしないとわかっているが、これはコウタが独断で公にできるようなものではないのだ。あの光景を見たリンドウが彼を問い詰めるのは明白――そうでなくとも問い詰めるだろうが――で、個人の領域への立ち入りを拒むセンカは当然の如くそれを拒むだろう。余計な諍いは起こさないに限る。話を公にしなくてはならないとしても、サカキが先導したと言えばセンカも反論の口を閉ざすはずだ。知らせるのはサカキに診て貰ってからでも遅くはない。
動き出すエレベーター。閉まった扉の向こうの、そのまた向こうで倒れ伏す友人を一人にしてしまう罪悪に目を閉じたコウタはきりりと爪を手のひらに食い込ませた。
それでも、やはりあのセンカをリンドウに見せるべきではないのだ。今は、まだ。
鼻先で閉じたエレベーターの扉を不審に思うリンドウの鼻がそれを捉えたのは、戦場で生きる者には慣れすぎた物だったからかもしれない。飛び出してきた幼子の纏う微かな鉄の香り。それはあまりに見知ったもので、リンドウは風に運ばれた穏やかとは言い難いものに思わず、幼子の塒に目をやった。
何故、センカの部屋から出てきたこの仔が血臭を纏っているのか。
「……なあ、レンギョウ。センカに何があった?」
部屋の在室ランプは緑。彼が室内に居る事は間違いない。けれど、先程、何やら大慌てでラボラトリへ向かったらしい己の部隊の新米偵察兵は入室してはならないと言う。果たして、何の権限があって彼がそんな事を言えるのか。扉に入室拒否の張り紙でもしてあれば別だが、見つめる鋼鉄の扉には植物繊維の欠片だって見当たらない。と言う事は、彼は室内で何らかの好ましくない事態に陥ったセンカに直接、他者を入室させてはならない、と言付けられた事になる。或いは、独断で現在のセンカを他者に見せるべきではない、と踏んだか。
どちらにしろ、目の前で頭と尻尾を垂れさせ、項垂れながらもリンドウが無体な事をしないよう、きちんと見張っているレンギョウの状態を見れば、保護者たるセンカが良い状態にないのは明らかだ。
はあ。零れるのは例の如く、溜め息。胸が急く。別れ際の彼があまりにおかしかったものだから来て見たものの、まさかこんな状況になっているとは露程も思わなかった。本当ならば、今すぐにでも踏み込んでしまいたい。そもそも、何かあるなら、誰かに相談でもすれば良かったのだ。例えば、そう、あの時、自分と会っていたのだから。
ぽつんと恐ろしい程の静寂に沈む廊下に佇まざるを得なくなったリンドウは苛立ちを紛らわすように頭を掻いて靴を鳴らした。
支部長室で出くわしたセンカは酷く顔色が悪かったと思う。まるで死人だった。だが、その後に部屋から出てきた彼はもっと酷かった。色が悪いなどと生易しいものではない。あえて言葉にするなら、あれは既に死人だった。今にも倒れそうな縺れた足と、焦点のあっているのだか、いないのだか分からない瞳。いくら、いつも茫洋としていると言ってもあのような有様は見た事が無い。自分と大喧嘩した時ですら、怒気に顔を歪める事はあれど、生ける屍のような顔など欠片も見せなかった彼があれ程までに顔色を悪くする事態とは一体、何だったのであろうか。
「訊いたとしても、言わないよな…」
それは予想ではなく、確信だ。そして、間違い無く当たるのだろう。
自販機の横をすり抜けて彼の部屋近くの壁に背を預ければ、ゆっくりとした足取りで力無く隣に座る幼子。不安げに見上げてくるその瞳に笑顔になりきれなかった苦笑だけを返して、男はとりあえず腕を組んだ。
「だーいじょうぶだ。コウタが博士を呼びに行ったんだ。何とかなる」
「ぎゅううぅ…」
今にも泣き出しそうな鳴き声。不安なのは、何も自分だけではないのだ。奇妙な感覚を自覚して、漸く、己も不安なのだと気づく。
日々、命のやりとりをしているゴッドイーターが、こういう事を思うのは滑稽かもしれないが――――嗚呼、漠然と、誰かを失うかもしれないと思う感覚というのは、こんなにも怖ろしく、不安なものだっただろうか。
自問しながら、男はふと投げた視線の先でエレベーターのランプが一階層ずつ上がってくるのを半ば途方に暮れた気持ちで眺めていた。
頑張れ、お兄ちゃんの巻(何)
あっちこっちに気を使わなきゃならないお兄ちゃんは大変です。唯一の味方は毛玉だけ。ああ、あとソーマさんとかもこの場にいたら上手く立ち回ってくれそうですね。いませんが(酷)
アラガミとぎゃーぎゃーやり合って死ぬならまだ「こういう職だから仕方が無い」で割り切れる部分もあるかもしれませんが、それ以外…例えば、こんな風に急病で、とか、不慮の事故で、とか…安全な筈のアナグラの中で誰かが命の危険に晒されたりすると気持の整理のつけ方とかが変わってきそうですよね。視に瀕していると理解する時の認識の仕方とか感じ方とかも違うんじゃないかと。
いつもの危機感と少し違うからこそ余計に怖いとかどうしたらいいのか分からないというのもあるんじゃないかと思います。
兎に角、頑張れ、お兄ちゃん!
2011/05/02 |