止めてくれ。俺の知らない所で息を止めるな。
開かずの扉
私が出てくるまで入室しないこと。否を許さない眼光で影を縫われて、もう半時程になる。
部屋に引き篭もったサカキ以外の、締め出された面々は自室に帰る事も出来ず、呆然と陰鬱な空気に沈むしかなかった。壁に背を預けたままのリンドウと、右隣にしゃがみ込んで項垂れるコウタ。更にその隣に項垂れるヴァジュラの仔。何も知らぬ者が見たなら、通夜か峠の夜かと思うだろう。ぴりりと頬に触れる冷えた緊張が心の臓から身体を侵食するようだ。
半時前、コウタに連れられてやって来たサカキは常に無い焦燥を浮かべていて、リンドウは大層、驚いた。歩調を速める事など無いような彼が険しい顔で小走りしている所など初めて見たと思う。――――無理も無い。養子の一大事だ。これで突き放そうものなら、リンドウは処分を覚悟で彼を殴り飛ばしていただろう。だからこそ、焦りを露に彼が姿を見せた時は驚くと同時に密かに胸を撫で下ろした。嗚呼、これで大丈夫だ、と。何が起こっているかも分からない中、漠然とそう思ったのだ。
その安堵が過ぎ去って半時。まだ扉は開かない。
胸の痞えで煙草すら吸う気になれない男はもどかしさから目を逸らすかのように口を開いた。
「…お前、知ってたのか?センカの事」
刹那、上司を振り仰いだ茶色の瞳が数度瞬いて、また床を眺める。沈黙は一呼吸。
「……初めて、二人で任務に出た時……コンゴウを倒した直後に倒れたんです。血を吐いて」
「血!?」
思わず組んだ腕を解いたリンドウは己の麹塵を見開かせた。――――血。血を吐いた。それなら、先程の血臭もこの状況も説明がつく。つまりは、吐血して倒れた所を発見したコウタが大慌てでサカキを呼びに行った、と。そういう事だ。レンギョウが項垂れているのも血を吐いたセンカが心配でならないからだろう。
しかし、コウタが言う任務の後に提出された報告書にはそのような内容は一切無かった筈だ。任務で血を吐いて倒れたなど、報告してしかるべきだろうに。
無言で先を促した上司と床とを視線で行き来する少年の口がぽつぽつと語る。
「…あいつ、身体があんまり強く無いみたいで…何度か物凄い顔色悪い時もあって…あの日も出撃前に熱があったんです」
「そいつは好ましくないな」
「俺だって止めましたよ!……でも、どうしてもって言うから…」
その光景が目に浮かぶようで、リンドウは遠くを眺めた。隣で茶色が更に沈んでいく。
コウタの言う事は嘘ではないだろう。任務に厳格ですらあるセンカならば、たかが熱程度で、と思いかねない。実際、それで出撃しているのだから、強かさにも程があるというものだ。自分ですら同じ事態に陥った時には代役を頼むというのに、困った白雪である。
思いながら、その傍ら、彼の経歴の中に病弱の文字は無かった、と思い出していた。もう何度も見返し、今では暗唱出来るまでになってしまったセンカの、空白だらけの経歴。間違う筈が無い。確かに、体質に関するものは一切記載されていなかったが、彼に関する事だ。サカキが意図的に隠匿した可能性も否めない。事実、彼の後見がサカキだという事すら公式の文書には記載されていなかったのだ。
有力な理由としては、「知られては不都合だ」。それに尽きるのだろう。不都合な理由は、態々、戦力に欠陥品の札を貼っておく必要は無い、という所か。否。サカキがそう思うとは考え難い。ならば、他に何の理由があるのか。
ずぶずぶと鬱に沈んで行きそうなコウタを横目で一瞥した彼は密かに息を吐いた。――分からない。とりあえず、考えるのは後だ。
「はぁ……お前な、そういうものはきちんと報告書に書かなきゃならんだろうが。職務怠慢だぞ」
それは立派な処罰ものの隠匿行為だ。言外に告げる上司に、しかし、部下は沈み込んだまま反論した。
「…だって…サカキ博士が誰にも言っちゃ駄目だって…」
「博士が?」
やはりここでもサカキか。顎に手を当て、思考に身を浸す男を他所に、少年は続ける。
「俺、センカが任務の後に必ずラボラトリに行ってるの知ってて…それで、身体、あんまり強く無いんじゃないか、って思ってたんです。まさか、こんなに酷いなんて思ってなかったけど…センカが倒れた時、何も出来なくて、どうしようって思って…サカキ博士なら何か知ってるんじゃないかと思ったから、任務先から端末で連絡してエントランスのカウンターまで来て貰ったんです」
成る程。それなら納得が行く。幹部を通さず直接、ミッションカウンターからサカキを呼び出したのならこちらに報告さえしなければ顛末を知られる事は無い。たとえ、彼を呼び出した事が知れても、専門家の意見を聞きたかっただの何だの、それらしい要件を並べ立てれば誤魔化せる。後は、コウタがセンカを運び込む際に他人に気付かれずにラボラトリまで辿り着ければいいだけの話。それが存外簡単に出来るというのは既にリンドウ自身、レンギョウの件で立証済みだ。小さな毛玉と人一人とでは勝手が違うだろうが、実際、上司を含め、誰にも気付かれなかったのだから、コウタは実に上手くやってのけたのだろう。流石、偵察兵。見込みがある。
再度、腕を組んで先までと同じ体勢を取り、しかし、まだ紫煙を吸い込む気にはなれなかった。ちらり。一瞥する扉は閉ざされたまま。
「…それで、今回、お前がレンギョウに俺の見張りまで指示してラボラトリまで飛んでいったのは同じ事態が起きたからか?」
問いながら、立てた予想を確認をするそれは断定以外の何物でも無い。抗うつもりの無い少年も少しの逡巡の後、静かに頷いた。
視線で理由を促してくる上司の目から逃れるように更に頭を沈ませ、口を開く。
「……今のセンカを見たら、リンドウさん、絶対にセンカを怒ると思ったし…でも、ほら、センカって自分の事訊かれたりするの嫌いだから…また二人が喧嘩しちゃうんじゃないかって…」
「まあ、間違って無いだろうなぁ」
彼の言う通り、何も分からないまま血を吐いて倒れ伏すセンカを見たとして、自分が冷静でいられる自信はあまりない、とリンドウは自覚している。
自分の忍耐や理性が思ったよりも脆いというのは彼と関わり始めてから知った事だ。殊、センカに関する事には一瞬で目の前が弾け飛ぶ自信がある。コウタの予想が現実になる確率は寧ろ十割を超えていると言って良い。そうなれば、先日の任務の一件が再び、勃発するのは明白だ。話の内容を聞くに、コウタはそれを避けたかったのだろう。こうして頭を冷やす時間を捻出するとは、何とも出来た部下である。おかげで、彼との溝を深くする事にならずに済みそうだ。
淡く笑みを浮かべた男の手が煙草を忍ばせた胸ポケットを彷徨い、それだけに留まる。まだ吸う気になるには胸が重い。
「別に怒ったりはしないから安心しろ。寧ろ、あのままセンカを任されてたら、それこそどうなってたか分からんからな」
焦る程、彼は逃げて行ってしまうから、近付くのはゆっくりで良い。そうして、気がつけば吐息が触れる程近くに居られれば、きっとこの上ない幸せだ。けれど、それでも、己の中の欲が、もう少しくらい歩み寄っても良いんじゃないかと思うのは、やはり自分が焦っているからなのかもしれない。
ぼんやりと見た彼の部屋の扉は依然、ぴたりと閉まったまま。
「……まだ、出てこないな」
「…そうですね」
他人から知らされた彼の秘密に少しだけ痛んだ胸に、男は無理矢理、知らないふりを決め込んだ。
追ん出された隊長とお兄ちゃんと毛玉で待ちぼうけの図。
まるでお通夜のようですが、まだ新型さんは死んでおりません よ ! で、知らされる衝撃の事実(?)リンドウさんは内心「病弱なんて聞いてヌェー!」とわーわーしてるんじゃないかと。だって履歴書にも書いてなかったんだもん、みたいな(…)そんな隊長のわーわーさを予知・感知したコウタさんは優秀だったと言わざるを得ないですね。君がリン主の仲を救ったよ…!
しかし…いい歳した大人と少年と毛玉がしょんぼり廊下に立ってる図というのは…こう…「あれ?お前ら何か悪い事して干されてんの?」みたいな…(色々ぶち壊しだよ!)
2011/05/12 |