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 実家に帰ります、なんて、よくある話だろう?

魔法使いは魔法を使わない

 発熱。喀血。貧血。痙攣。これ程酷いのはいつぶりだろうと考えて、サカキはつい先程、薄らと目を開けた銀色の滑らかな額に手を当てた。手のひらから感じる僅かな熱は酷く冷えている癖に熱い。奇妙な矛盾に、彼はこの部屋に入ってから何度目かになる溜め息を吐く。
「馬鹿だね。どうして直にラボラトリに来なかったんだい?」
 言って、けれど、勿論、応えなど期待していない。期待できる状況でもない。今、彼の喉は無理矢理その道を通った血液でひりついているだろう。緩く開いた唇から聞こえる細い息。一通りの処置を終え、最も酷い状態からは抜けられたとはいえ、油断出来る状態ではないのは確かだ。
 ソーマが彼をラボラトリに運び込んできた一件以来、多少、血を吐く事はあったにしろ、倒れるまで体調を崩す事は無かった彼が瞬きすら緩やかにしか返せない程、憔悴するとは。何が彼をここまで追い詰めたのか。ヨハネスからの任務があった事はこちらにも情報として入ってきているものの、それは常と何ら変わりない事の筈。それが原因になったとは考え難い。
 眠りに落ちるのかと思うくらい緩やかな瞬きを返し、僅かに眉を顰める様だけで曖昧な応えとしたセンカを眺めながら、サカキの手は持ってきた薬を手際良く片付け始めた。
 持ってきた物のほとんどが既にセンカの身の中だ。血の巡りに乗り、細胞に染み渡っている事だろう。軽くなってしまった鞄が何処か虚しい。
「暫く任務は無理だよ。丁度、部屋の外にリンドウ君がいるから、私から伝えておこう」
「…せ…ん、ぱ…?」
 可哀相なほど掠れてしまった声が、まさか返されるとは思って居なかったサカキの身体を振り向かせた。その視界に映る白藍が、酷く見開いている。表現するなら、驚愕か、恐怖。
 動かない筈の身体を引き摺って伸びた手がサカキの服を握る。
「センカ?」
「や、で…す……帰っ…会、たく…な…」
 いやです。帰って。会いたくない。途切れ途切れの言葉から読み取れるものはそんな所だろうか。ともすれば引き千切ってしまいそうな力で、ぎゅう、と布を握りながら、がちがち震え出す幼子のような姿は今にも消え入りそうな儚さと潰されそうな怯えとで矢鱈と小さく見える。青褪める顔。歯の根が合わない程震える様は十六年の間で一度も、それこそ、大型種の群れに放り込まれた時でさえ見た事が無かった。
 リンドウの名を出した途端のこの反応。――――此処まで彼を追い詰めたのは、彼だ。或いは、彼に関する何か。
 元々、センカはリンドウに関する事で気を乱し易かった。それが戸惑いであったり、警戒であったり、憤りであったり、種類は様々だが、しかし、今回のようにリンドウ自身に対して怖れた事は只の一度も無い。しかも、これは随分と強い恐怖だ。それこそ、死を前にしたかのような。
 何にしろ、この精神状態は好ましくない。意識を切り替えた観察者は閉め掛けた鞄の中から鎮静剤の注射を手に取った。だが、これを使うのは最後の手段だ。言葉で沈静化出来ればそれに越した事は無い。そうでなくとも、彼の身体には沢山の薬を投与したのだ。既に負担になっているものをこれ以上、増やすわけにはいかない。
 嫌だ嫌だと喉を絞り、瞬きを忘れた零れそうな瞳で見つめてくる銀色の額に張り付いた光の筋を優しく払い除けてやりながら、彼はゆったりと服を握ってくる手に手を添え、褥の淵に腰掛けた。
「センカ、センカ。少し落ち着きなさい。何があったかは知らないが、君が思っているような事は無いと思うよ」
「ちが…っ…ちが、う…ちが…」
 今度は違う違うとしきりに繰り返す彼の、続く言葉を待ったサカキは直後、その細い目を見開く事になる。
 途切れた言葉がふいに明瞭になる瞬間。

「支部、長室で…会いました…」

「なんだって…?」
 支部長室で会った、とは、言わずもがな、リンドウの事であろう。必死に言葉を紡ぐ彼は、ヨハネスからの個人的な任務の報告の場にリンドウが鉢合わせ、現場を見られたとそう言っているのだ。――――漸く、合点がいく。理解出来た。彼がこんなにもリンドウを怖れている理由が。彼はヨハネスとの関係を怪しまれた自分がリンドウに敵視されるのではないかと怖れているのだ。当然だろう。以前、彼等が二人で任務に出た際、リンドウ自身がセンカとヨハネスの関係を訝しげに思っている、と語っていたらしい。敵対するか否かの微妙な位置関係。その天秤が決定的に片方に傾く要因が出来てしまっては、怖れない訳が無い。
 最近はコウタ達だけでなく、その最も警戒していたリンドウとも良い関係が築かれそうだっただけに、刃を向けられるかもしれない、或いは、向けなければならないかもしれない事態はセンカにとって絶望に値する事態だっただろう。
 無論、リンドウがセンカの報告の最中に支部長室に現れたのは偶然ではない。十中八九、ヨハネスの手だ。目的は、今のセンカを見れば一目瞭然。錯乱しかけた綺麗な子供が、あまりに可哀相な襤褸のようだ。
「……センカ」
「や…で、す……や…っ…」
「センカ。聞いておくれ」
 センカ、センカ、センカ。数度の呼びかけに、少しずつ光を取り戻す瞳が虚ろに見上げる。
 可哀相な襤褸人形。直してくれる存在は、きっと自分ではないのだろう。サカキは堪え切れなかった寂しさを笑みに交えた。
「センカ。よく聞いて欲しい。リンドウ君は君が思っているような事はしないよ。今、外にいるのも、君の具合が悪そうだったから来てみただけだと言っていたしね。それは嘘ではないと私は思う。まあ、今頃、君の体質の事をコウタ君から聞いていると思うから、その分は少しばかり怒られるかもしれないが、きっと、それだけだ」
 嘘ではない。実際、コウタに引っ張られてセンカの部屋の前にやって来た時、訝しげにこちらを見てきたリンドウはそのように説明して来た。続いて、質問してこようとしたのを無理矢理、捻じ伏せて締め出したのは自分だ。もう半時と少しになるだろうか。
 静寂に水滴を落とす秒針の音を聞きながら、そんな事を思う。
 このまま、時間を長引かせるのは可能だ。センカの、安定したとは言い難い体調を理由にサカキが面会謝絶を貼り出せば誰一人として逆らえないだろう。それこそ、公衆の面前で海よりも深いセンカへの想いを滔々と語るリンドウですら、だ。しかし、それで事態が解決するかといえば、否である。明らかな誤解を解くには時間ではなく、多少なりとも荒療治が必要な時もあるとサカキは知っていた。
「だから、センカ。彼と話をしてみないかい?」
 返るのは、彷徨う視線。震える手。
「で、すが…」
「大丈夫だよ。彼が傍迷惑なくらい君の傍にいようとしているのは君も知っているだろう?」
 それはもう、伝説だと巷は囁いている。明らかに暗黒伝説に近いものだが、それすら、娯楽にしている輩がいるというのだから全く、フェンリルは娯楽の方向性をもう少し考えた方が良いのではないだろうか。渦中の人物の片割れが己の養い子――と言うには少々語弊があるが――だと知った時の何とも言い難い感情と言ったら無かった。流石の自分も机に手を突いて深い深い溜め息を零したものである。
 それでも、そこそこに良い関係を築けていたようであるから、あえて口を挟みはしなかったものの、センカの心を乱すなと忠告した後のこの状況。これで怯える彼に刃を向けようものなら、あの男、最新兵器の一発や二発は覚悟せねばなるまい。
 密かに心を決めた観察者は物騒な計画を笑みの下に押し込め、殊更、優しく微笑んで見せた。
「彼が無体な事をしてくるようなら、蹴り飛ばすなりして私の所へ帰っておいで」
 そんな事は有り得ないと思うけどね。部屋から閉め出す直前の、酷く不満げで心配そうな男の顔を思い出しながら続く言葉を飲み込む。そこまで親切に教えてやる程、自分は優しくない。優しくないから、感情の波の中で足掻く可哀相な子にも救いの手を差し出してやれないのだけれど、彼は既にそれを知っているから、きっとこの手を放すだろう。
 口を閉ざし、答えを求める観察者の視線の先で俯いた銀色が、少しの逡巡の後、予想の通りにそっと白い手を離した。



一方その頃、なラボラトリ親子。お父さんがスパルタです。
何というかサカキ博士は優しいふりして打算的な人だと思っているのでどうしても優しい言葉が偽善染みてしまいますね…本気の優しさと嘘の優しさが自分でも区別つき辛いような感覚です。本人も「あれ?これって本気で心配してんの?」みたいな気分になっていると思います。色々、混在していますね。新型さんもある意味同じですけれども。
何はともあれ、何気にとっても心配しているらしいお父さんはリンドウさんで新兵器を試す気満々のようなので、隊長は暫く背後に注意した方が良いかと思われます(笑)
次は漸く旦那が初・新型さんの部屋(ちょ、変態くさいよ!)

2011/05/17