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 微かな脈。僅かな温度。確かな声。
 全てに叫ぶ。――――どうかまだ遠くへ行かないで、と。

獣王の懇願

 部屋に入って、始めに見たのは血の跡だ。おざなりに拭かれたそれは拭き取りきれなかった分が雑巾の跡を残して赤い筋を床に描いていた。まるで、隠滅し切れなかった殺人現場の血痕に似ている、と嘲りに似た思いまで浮かぶ。
 背後で戸の閉まる音を聞きながら、改めて感じる鉄の香りに刹那、眉を顰めたリンドウは通された殺風景な部屋を見渡した。第一印象は、生活感の薄い部屋。それが、物を動かした形跡を感付かせない程清潔に保たれているからなのか、生活導線がはっきりしすぎている故の事なのか定かではないが、もうこの部屋を与えられて短くないだろうに、この生活感の無さは少しばかり異常にも思える。反面、彼らしい、と微笑ましく思ってしまうのは既に己が末期だからだろう。
 こつり。初めて足を踏み入れる想い人の部屋を不躾に眺める男の、潜めた靴音だけが静寂の泉に水滴を落とす。
 床もテーブルも綺麗なものだ。棚にも無駄なものは無く、きちんと片付けられている。書物が目立つのは、それが趣味だからだろうか。台所には一人分の食器と調理器具が収められた籠があるから…意外にも自炊をするのかもしれない。そういえば、あまり食堂で姿を見かける事は無かった気がする。あるとすれば、自分が引っ張って行く時か、コウタ辺りが誘って連れて来る時くらい。成る程、こういう事なら説明もつく。
 一通り、見回し、目指すのは微かな吐息を奏でる褥。そのサイドボードに揺れる緑の鉢植えとグラスに生けられた紫の花に目が留まり、リンドウは淡く笑った。――――そういえば、植物が好きだ、と言っていた。忘れもしないあの微笑。あれを、もっと見てみたい。
 落とした視線の先で力無く褥に沈む青白い銀色を見つけてしまえば、その淡い光に近付こうと急いた足が寝息の傍らに辿り着くのに然程、時間はかからなかった。
 足音を消し、けれど、気配までは消さずに歩み寄るにつれ見えてくる異常な程のその白さ。ゆるりと閉じられた瞼。縁取る長い睫毛。滑らかな頬。布団から出された細い手。明かりを落とされた室内で、闇に浮かぶかの如く銀の燐光を放ちながら、薄れた生命の気配を僅かに開いた色の無い唇から漏らす様は死が枕元に立っているかのようだ。恐ろしい程の、艶美な寝顔。
 ぞっと、背筋に寒気が走る。――――生きているのか、と。
 サカキの話ではあまり精神的な負荷を与えず、安静にしていれば直に良くなるだろうという事だったが、本当にそうだろうか?このまま冷たくなっていかない保障が本当にあるのだろうか?センカと話をしてやってくれ、と言われて来たは良いものの、自分に何をしろというのか。彼と仲の良いコウタをレンギョウと共に無理矢理、帰らせてまで自分と二人きりにした真意が掴めない。精神的負荷を与えない、という意味ではコウタが適任だろうに、何故、あえて最も負荷を与えやすい自分なのか。
 思いながら、それでも、この任を任された事に喜びを覚えている自分がいるのも確かだ。
 鋼鉄一枚に隔てられ、顔すら見られなかったあの時、会いたくて会いたくて堪らなかった。苦しんでいるのなら手を差し伸べてやりたくて、出来れば、その声を聞きたくて。入室を許可された時は心配する反面、不謹慎にも舞い上がってすらいたかもしれない。
 それが、今は近付く事すら恐ろしい。触れて、冷たかったらどうする?
 反射的に半歩、踵を後退させたリンドウの胸に去来するのは真実、恐怖だ。身の内から侵食する冷気に指が震えたのは必然だった。いくら隊長の地位を頂いているとはいえ、仕事には慣れても人の死に向き合うには躊躇いを拭えない。それはこのアナグラの住人の誰もが同じだろう。皆が皆、慣れたふりをしているにすぎないのだ。そうして、耐え切れなくなった誰かが誰かの死に喚く時、目を逸らし、気が狂いそうな恐怖に背を向け、虚ろな痛みに蓋をする。誰もがそうやって生きている。この世界で生きる以上、誰もが避けて通れない暗い深淵。
 目の前の存在は有か無か。生か死か。一度、震えそのものを握り潰すかの如く強く握り締めた拳がゆっくりと開き、覚悟を決めた指が手袋をするりと脱いで白い光に伸ばされて行く。

 果たして、無骨な指先が触れた細い手は――――人の温度を宿していた。

 刹那、歪んでしまった顔は、泣き顔にも見えただろうか。込み上げる安堵。温度に触れる面積を増やしたくて、握れば砕けてしまいそうな華奢な手を骨ばった手で包み、握る。生きているにしては少し低い温度の手に、己のそれを分けるように。或いは、その存在が消えないように。
「………せん、ぱぃ…?」
「…センカ?」
 起きたのか。口の中で溶けて消えた言葉に、気付けばこちらをぼんやりと眺めていた白藍が緩く瞬いて返す。頷いて返さないのはまだそこまで体力が戻っていないからだろう。唇も潤っているとは言い難い。けれど、目を開き、唇を動かし、声を奏でる姿は確かに「生きている」彼の姿だ。
 焦がれた清流の声音は渇き、掠れていたが、それでもリンドウの胸の内の怖れを霧散させるには十分だった。
「良、かった…心配したんだぞ…」
 崩れるように腰を下ろした褥が軋む。手は繋いだまま。放す気には到底なれない。
「…何で黙ってた…?」
 思いがけず零れた低い声音に、びくり。手の中の白が跳ねた。見れば、静かだった白藍が零れんばかりに見開かれている。途端、浅くなった呼吸で忙しなく上下する胸。
 小刻みに震え出す手にリンドウは血の気を引かせた。まずい。
「おい、セン…」
「申し訳、あり、ませ…支部長室、で……!」
「落ち着け!」
 逃げを打とうとする手を握る手に力を込め、必死に起き上がろうとする細い肩を掴んで硬い褥に沈める。
 呆気ない程、容易く沈められる身体に乗り上げるまでに至らなかったのは抵抗が然程強くなかった事と、下手に体重を掛ければそのまま砕けてしまうのではないかと思ったからだ。細い細いと思っていた身体は思った以上に華奢で、細すぎる手首はぽきりと折れてしまいそうな程。首など、片手で捕らえられそうだ。これで己の数倍もある獣と相対しているというのだから、この世とはなんと慈悲の欠片も無いものか。
 爪を立てる事も忘れた硬直する指。するりとその白魚の間に己が指を滑らせ、優しく手のひらを合わせてやる。感じる、微かな血の流れ。
「落ち着け。大丈夫だ。俺が言ってるのはそうじゃない」
 違う違う。そうじゃない。大丈夫。低く、柔らかく、染み込ませるように耳元に唇を寄せて囁けば、吐息の触れる距離で困惑に揺れる白藍が強張ったまま一つ、瞬く。
 支部長室。彼が怯える原因。何故、あの場に幹部でもない新兵如きが居たのか、問い詰められると思ったのだろう。リンドウの脳裏にあの瞬間の死人のようなセンカの顔が過ぎる。あれがセンカにとって、若しくは、リンドウにとって、例えば生死に結びつく程に良くない事なのだとすれば、怯えるに十分足るものだ。支部長側につく者とそれを探ろうとする者。展開によって敵対する可能性も否めない。一度、手を取り合おうとした者同士が殺し合うなど、少なくとも、リンドウには想像もしたくない悲惨な末路だった。
 陰鬱な未来から目を背けるように男はちらと煌く銀髪を梳き、米神に、眦に、額に唇を寄せて囁く。大丈夫だ、違う、そうじゃない、と。それは自身の妄想を断ち切る為のそれであったかもしれない。
 肌理細やかな白い肌を覆う黒い影は恰も艶事の最中の如く蠢き、重なったまま、宥めるよりも愛しむ口付けが怯えとは違う吐息を銀色から引き出して離れた。
「俺が此処に来たのはお前を問い詰める為じゃない。本当に心配だっただけだ。信じてくれ」
 唇が掠める距離で真摯な色を宿した麹塵と戦慄く白藍がかち合う。浅い呼吸の中、優しく囁かれた言葉を緩やかに理解した白藍がゆらり、揺らいで彷徨いながら、小刻みに震える唇が開き、閉じ、また開き――――結局、紡げなかった言葉の変わりに、細い指が無骨な手をぎこちなく握り返した。

 合わさった手のひらから、とくり、とくり、脈の音が二人分。



隊長VS瀕死の新型さんの巻。初めて入る新型さんのお部屋が物珍しいとはいえ、隅々までガン見するとかこんな時でも隊長は素敵に変態です(酷)
此処に来て漸く、新型さんの食生活の真相を知るリンドウ隊長。しかし、当の新型さんが撃沈中なので、もしかしたら死んじゃうんじゃないかと不安になってみたりします。
アナグラの皆さんは隊長を含め、結構、賑やかな感じですが、それはそう取り繕ってる部分も少しはあるんじゃないかなぁ、と。あの人が死んだ、とか、この人が死んだ、とか、聞くのが常の職場で正気を保つにはある程度、現実逃避的な思考も持っておかないと保たないんじゃないかと思います。ですが、いつまでも見て見ぬふりなど出来る筈もないので、こういう、死にそうなんだか死なないんだかわからない、曖昧な時に余計に恐怖や不安が吹き出してくるんじゃないかと。でも、それに慣れてしまっている部分もあるので、すぐに蓋を出来るとか。
で、そんな不安に脳内わーわーしてるリンドウさんに対して、支部長に苛められた新型さんは神機でぶった斬られるんじゃないかと、こちらもわーわー。
必死で宥める隊長がどさくさに紛れてベッドに乗り上げちゃったり、新型さんを押し倒しちゃったり、挙げ句にちゅーしたりしてますが、双方共に決してエロい意味で接触している訳ではないので、セーフです(え、何処が)

ちなみに、唇にちゅーだけはしてないですよー。そこまで良い目はまだ見せてやらねぇ!(何様!)
どっちにしろ、博士に見つかったら新薬実験にお付き合いさせられる事間違いなしです。

2011/05/21