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 シンプルに生きるのは難しい。

斯くして、人は空のままではいられない

「落ち着いたか?」
「すみま、せ…ん…あの…近い、です」
 今更、気付いた。――――この体勢は一体、何だ。この瞬間まで気に留める余裕が無かったが、これは何かと危険な状態なのではないかと他人事のように漠然と思う。
 握り合うように合わせた掌の、指の先から滲む体温と唇を掠める吐息。視界一杯に映る男の黒髪がさらりと零れれば、悪戯な毛先がまるで僅かな距離をも無くすように白い肌を滑って行くこの距離を近いと言わず、何と言おう。寧ろ、近過ぎる。少しでも余計な動きをすれば肌が触れそうだ。サカキ相手ですら、ここまで近く顔を寄せた事は無い。あったとして、それは診療の際、仕方なく近付くもので、それ以上でも以下でもなかった。
 落ち着かない。僅かに身体に圧し掛かる体重と鼻腔に満ちる煙草の香りが男の存在を意識させて、センカは知らず、身を固めた。
 酷く居た堪れない気分になっている気がするのは彼がその麹塵に映す情愛の念を隠しもしないからだろうか。今も、その色や鋭さを具に観察出来る距離にある瞳は溶ける程の熱を湛えてこちらを見据えている。優しさと、熱と、押し殺した狂おしい程の恋情の気配がこの身を焼くようだ。
 きゅう、と触れる暖かな手に力が籠もる。
「近くに居させてくれ」
 ふいに恐れを抱きそうな程熱い瞳に距離を詰められて、センカは更に身を硬くした。そのまま、リンドウの唇が頬を撫で、耳朶を掠めて鼻先が肩口に埋もれる。恰も犬猫がそうするように、すりり、と頬に擦り寄り、彼は動きを止めて息を吸った。
「…血を吐いた、とか…勘弁してくれよ…」
「先輩?」
「このご時勢、一秒先で死んでるとか有り得ない話じゃないが…頼むから、体調の事くらい俺にも話してくれ」
 心臓が潰れるかと思った。くぐもった声音でぽつぽつ語る男の、何時に無く頼り無い肩が震える。首筋に触れる吐息。声まで揺らがないのは彼の意地だろうか。それにしても、頭に触れる手も、手を握りこむ指も震えている状態では平静を装う事など意味の無い事だろうに。思い、嗚呼、違う、とセンカは胸中で頭を振った。
 きっと、彼は本当に怖かったのだ。それは人の上に立つからこその恐怖だろう。己の下に誰かがいる事はそれだけで、その肩には己と、もう一人分以上の命が乗っている事になる。それを失う事がどれだけの無力感を味わうものなのか、ただ使われるばかりのセンカには想像もつかないが、何年も隊長の座につくリンドウは幾度もその経験をしたに違いない。
 血の臭いを振り切り、漸く辿り着いた自室で独り、消えた命を思いながら、未だ生き残る己を呪う。それはどんな痛みだろうか。彼の肩には一体、どれだけの人数の生と死が折り重なっているのだろう。想像しようとして、やはり思い描けない己に失望した銀色は静かに動きを止めた黒に頬を寄せた。
 ちらり。黒に混ざる銀の燐光が煌く。
「…すみません…任務に支障は無いと判断したので、報告すべき事でも無いと…」
「判断するのはお前じゃない。最終的に心配するのも、後悔するのも、それを背負うのも、残された奴なんだ」
 言われれば、正論に口を噤まざるを得ない。
 押し黙ったセンカに返されるものは酷く穏やかで、ともすれば安らぎに近いものだった。或いは、頬を寄せる彼の安堵の気配であったかもしれない。怒りでも、苛立ちでも、悲哀でもないものは不快では無く、ただ胸に寄せる戸惑いだけが形容し難いしこりを形成して空箱の筈の心を痛ませる。
 果たして、自分は何時からこれ程までに何かを感じるようになったのか。そして、何時からこうして人に影響を与えるような存在になったのか。シックザールからの任務を遂行するか、実験に使われるかしか無かった自分には考えられない事だ、と思う。そう考える事自体が、恐らく、シックザールには好ましくないのだろうが。
 頬に、首筋に、肩に、掌に触れる温度を意識の先で一つ一つ確かめ、小さく息を吐いたセンカの白藍がゆっくり瞼に隠された。
「…二度とやるな」
「はい」
 逡巡など必要無いと思うほど滑らかに滑り出た言葉が存外、重く感じたのは多分、それが他者と己を繋ぐものだからだろう。けれど、それが――――嫌ではないし、馬鹿馬鹿しいとも思わない。
 どれ程の時間、そうして目を閉じていたのか。時計の秒針の音だけが静寂の薄氷を砕いて割る時を過ごした二人の間に新たに生まれた音は、銀色の小さな声音だった。
「……あの時…」
 潜めたようなそれに閉じかけた目を開いたリンドウが身を起こそうとするのを、センカは力無く手を握り返す事で止める。
 今から話すこれは己にも、彼にもあまり良くない話だ。出来る事ならば、それ程大きな声で語りたくは無い。自分の事を隠したままでどれだけ彼の理解を得られるかは分からないが、致し方ないだろう。このままでいるのは不都合ばかりで良い事など一つも無い。
 ごくり。鳴った喉はリンドウに聞こえてしまっただろうか。
「…あの時、支部長室に居た僕と、先輩が鉢合わせたのは偶然ではありません」
「だろうな」
 推測するまでも無く、シックザール支部長の画策だ。そうでなければ、何だと言うのだろう。あの策士が大事な話の最中に予期せぬ来訪者を許す訳が無い。あれはセンカがあの場にいる時間に合わせてリンドウを呼び立てたのだ。二人が上手く顔を合わせるように。
「大方、目的は俺達の仲違いって所か?」
 言葉の代わりに返るのは緩やかに握り返す手の力。だが、それだけで十分だった。
 リンドウが思うに、センカの変化はシックザール支部長にとって好ましくないのではないだろうか。周囲に馴染み出した矢先のこの事態はセンカへの嫌がらせ以外の何物でもない。しかも、よりにもよって会わせるのが、己の周囲を嗅ぎ回っている雨宮リンドウだ。激しく仲違いをして、存分に殺しあってくれと言わんばかりではないか。
 そこで、ふと、思い出す。――――レンギョウを連れて来る時の、あの言葉。
「…お前が言ってた、殺せと言われたらそうするしかない、ってのはあの事か」
 刹那、びくん、と弾んだ身体。ずりりと離れようとする銀色を追いかけ、頬を寄せる。さらり。音を立てる銀と漆黒。触れるのは微かな吐息。
「………あの方に逆らう権限が、僕にはありません」
 遠まわしに肯定しつつ、己が第一部隊を裏切る可能性を示唆する内容はあの状況から大方の予想をつけていたリンドウにはさして驚くようなものでもなかった。緊張しているらしいセンカには悪いが、範疇内の事実だ。意外な事があったとすれば、センカが自ら、己の危険性を示してきた事だろうか。
 シックザールが殺せといえば、センカは誰であろうと刃の露にするだろう。いくら仲が良いコウタであろうと、サクヤであろうと、ソーマ、アリサであろうと関係無く、命令が下された時には、仲間の声など聞かず、一分の迷いも無く刃を振り翳すに違いない。しかし、それがセンカの信ずる絶対かと言えばどうやら答えは否のようだ。硬く、無機質な声音に滲む苦い響きから、その理由が心酔ではない事だけは確かで、だからこそ、意外に己の考えに頑固な面がある事を知っているリンドウからすれば、センカがあの男に従わざるを得ないと語るのは不可解なものだった。
 弱味を握られているのか。思えど、彼の言い回しを考えるに、こちらが考える程、簡単な話でもなさそうだ。
 訊くべきか、訊かざるべきか。逡巡して、リンドウは後者を選んだ。
「そうか」
「はい」
 溶けるように、力の抜けて行く身体が褥を軋ませる。
 どうやってもセンカはシックザールに逆らう事は出来ないのだろう。あの男の話題だけで身を固めるとは相当に根強い意識の拘束だ。それを考えるに、彼が自分を始末する為に送り込まれたと考えたのはあながち間違いではなかったのかもしれない、とリンドウは思う。
 夢のような触れ合いとは裏腹の、なんとも冷え切った現実。こうして手を重ね、体温を分け合いながら、けれど、全てを曝け出せる仲にはなれないもどかしさをどうすれば良いだろう。触れる体温はこの胸を焼く程、悦びを煽るというのに、この先、身の内に抱えた冷たい刃の切っ先が、互いの心の臓を抉り合わない可能性は否定出来ないのだ。
 いっそ何も無くなれば、細い身体をこの腕に掻き抱いて、延々とこの溢れ過ぎて持て余してしまう想いを彼の可愛らしい耳に囁き続ける事が出来るだろうか。そんな馬鹿げた思いを抱くようになったのはいつからか。そんなものはただの夢想でしかない。
 ぎしり。二人分の重さに悲鳴を上げる褥が、例えば、せめて、情を交わす時のそれであったなら。脳裏を掠めた夢物語に、男は歪めた顔で苦しげに笑って見せた。
「シンプルに生きるってのは、中々難しいな。どうしても、ごちゃごちゃと余計なものを抱えちまう」
 お前も、俺も、両手が一杯だ。今更、無垢にも無知にもなれない。知ったものが、或いは、知るべきものが多すぎて、ただ単純に求め合う事だけが出来ない。生きた年月がそうさせるのか、生きる環境がそうさせるのか。どう足掻いても、人は空のままでいる事など出来ないのだ。誇るべき経験という重みが、今は煩わしくて仕方が無いと思う。
 指を滑る銀色の清流を梳き、緩やかに閉じた瞼に口付けるこのささやかな行為を続ける時間が、自分達にはあとどれ位残されているのだろう。
 額に、米神に、頬に、鼻先に、首筋に、緩めた襟から覗く鎖骨に、そしてまた頬に口付けて、けれど、唇にだけは決して触れない。どれだけの色香に胸が騒ごうと、それだけはしてはならない、と己を戒め、また首筋に唇を寄せた男は銀に埋もれた。
 そうだ。忘れてはならない。――――今はまだ、狂気の刃を鞘に収めて抱えているだけに過ぎない事を。



ちょっと距離が縮んだ隊長と新型さん。…距離が有り得なく近い上に隊長がキス魔ちっくなのは当家の趣味です(ぇえええ)…ちっ。良い思いしやがって…!(酷)
シンプルに生きるのは難しい、というのはご存知、ゲーム中のリンドウさんの発言の一つだったりしますが、あれは中々名言であったな、と思います。特に、リンドウさんについては役職その他があったりして、支部長の思惑に踊らされてやれない所もあり…そういう意味でも深いと思います。生きてきた時間も多少、長い分、今更、何も知らないふりは出来ないよ、と。
セクハラに近い行いは心配と安心と溢れる愛故ですが、サカキ博士がいたら保安部を呼ぶ前に毒薬一杯なのは言うまでもありません。
新型さんについては少しだけリンドウさんの本気を理解してきたというか…「え、この人マジなんだ…?」みたいな意識です。色々享受しているのは敵愾心が無いのを確認しているのと、心配させてしまった事への後ろめたさから。
気付けばやっぱりすれ違っている不憫なリン主です(…)

2011/05/24