誰にも届かない君の声を聞いた。たった一人、俺だけが。
狼は白雪の声を聞いた
「目的のヴァジュラは討伐したけど、今回はこの周辺の警戒も任務の内だから、まだ気を抜いちゃ駄目よ」
言いながら、廃教会の方角へ向かうサクヤの背を連れ立って追う。荒んだ風に艶やかな黒髪を靡かせる彼女を先頭にソーマ、コウタと続き、殿にセンカ、レンギョウ。
砂利を小さく奏でる彼等の耳に届くものと言えば、唸る風音と転がる小石の協奏くらいのものだ。先程まで大気を痺れさせていた咆哮が消えた今、獣の足音も、荒い息遣いも聞こえない。今日はこのまま旧市街を何事も無く巡回し、帰投するのだろう。――――と、そう思っているのは彼等だけだ、とセンカは脳裏で呟く。
彼等は気付いていないが、この地区に近付いてくる気配は一つや二つではない。既にこの背を密かに狙っているものすらいる。センカの様子に気付き、ちらちらと見上げてくる幼子もそれに気付いているのだろう。尻尾の先が真っ直ぐに天を突き、些か毛を逆立てている。唸り出さないのは静かに目線でそれを諌めたセンカの指示に従っているからだ。集まりきる前に離脱出来れば、それで良い。無理に事を荒立てる必要はないだろう。
緩く瞬いた隙に身を乗り出しかけた背後の白い影を睨み、小さく囁く。
「…下がれ」
低い声音は氷雨の如く。遠くで目に見えて慄いた獣の影がビルに潜るのを認め、彼は息を吐いた。
センカ自身、任務後に同地区に留まるのは好まない。血や喧騒の気配を嗅ぎつけた他のアラガミが集結する可能性があるからだ。その可能性についてはフェンリルも承知だろうに、この任務では「討伐後の周辺の警戒」も任務内に入っているのだという。…澱んだ気配のする話だ。指示を下したのは明らかにシックザールであるから、何か裏があるのは間違いないだろう。そうでなければ、誰が貴重な神機使いをアラガミの餌にくれてやるものか。こうしてサクヤ達が「一見、何事も無く」警戒をしていられるのも一重にセンカの威嚇あってこそだ。その威嚇も、対象が増えれば、或いは、誰かが均衡を崩せば呆気なく無に帰す。咆哮一つで壊れる静寂の条件はあまりに厳しい。
考えるまでも無く、シックザールが再三のリンドウの訴えを退けてまでセンカを今回の任務に組み込んだ理由はこれだ。第一部隊をこの場に留まらせたいのなら、戦闘後に集まるアラガミを制圧出来る存在が必要不可欠であり、そして、それは現在のアナグラにおいてセンカ以外には有り得ない。問題は何故、この場に部隊を留まらせたいのか、だが…。
意識が思考に沈みかけたところで、再度、ビルに潜っていた影が蠢く。舌なめずりする気配が向くのは銀の背中。その不躾な視線に氷の針を返し、彼は低く返した。
「下がれと言っているのが分からない程、貴様は低脳か」
殺気を飛ばさず、声音だけで圧を加えるのは彼等が――或いは、彼女等が――殊、殺気には敏感だからだ。分別のある者、食欲だけに囚われない個のある者程、不用意に飛び掛ってきたりはしない。だが、相手が殺す気ならば話は別になる。無用な争いを増やしたくなければ、互いに刺激しないようにしなければならない。それは人間にしてもアラガミにしても、同じだろう。
しかし、これもいつまでもつか。先程まで一体だけだった威嚇の対象は既に二体に増えている。始めの一体がそろそろ痺れを切らせてきてもおかしくは無い。いざとなれば自分が彼等を逃がす役を負う事になるのだろうが、それでは秘匿扱いされてきたこの身を暴くようなものだ。果たして、それは本当にシックザールの思うところなのか。…否、第一部隊との仲を裂きたいならば、任務中の事故に見せかけて彼等を屠って来い、と言われる方が遥かに現実的だ。しかし、それでは「ソーマ」をこの任務に就かせる意図が分からない。データで見る限り、ソーマはシックザールの、失っても構わない優先順位の最下位に位置する者の筈。それを考えれば、彼が今回の任務の本当に意図する所を知っているとは考え難い。
密かに、溜め息を一つ。考える程、呼吸に含まれる溜め息の比率は多くなる。意識は背後の影に向けたまま、傍らの幼子を見返し、ふと頬を刺す視線に顔を上げて――――青いフードの下から光る海の色と絡んだ。いつから、見ていたのだろう。重々しい刀身を構えながら、肩越しに振り返る彼の探るような視線がこちらを向いている。
白金の髪の隙間から覗く深海の双眸。少しばかり細められたそれを一度、瞬き、彼は歩む速度を緩めた。突然、歩調を緩めた彼を訝しげに見るコウタに顎で先行を示し、頷いて先を行った茶色い影を見送った青い長身がゆっくりと小さな銀色に並ぶ。
「…お前、そんな真似が出来たんだな」
前方を見据えたまま紡がれる、静かな囁き。
気付かれている。それ程、声高に言っていたつもりは無かったが、まさか他の者にも気付かれてるのか。僅かに顔を顰めて見上げてきた白藍を一瞥して再び前を向いたソーマはセンカの内心を読んだかの如く言葉を続けた。
「他より多少、耳が利く。俺だけだ。他の奴らは気付いてない。…まあ、お前が言うまで俺もアレの存在には気付けなかったが」
ちらりと後ろに目をやり、まだ気配を明確に察知できない、と潜めた声音で言う。無理も無い。それ程にまだ遠い距離だ。あの威嚇の囁きも「少しばかり特殊な方法」で話しているからこそ、此処からでは姿すら見えない彼らに伝わっている。人間にとっては微かに何かがいると分かっても、それだけだろう。例えるなら、風で転がる小石がある程度の認識。それをアラガミだと認識するには気配が遠く、薄すぎる。
返すのは、躊躇いを少し。
「……刺激するのは得策ではありません」
「分かっている」
何事も無く離脱出来るなら、今はそれが最善策だ。歴戦の神機使いとて、何体ものアラガミと長時間、対峙し続ける事など不可能に近い。寧ろ、無謀と言って良い。人数がいたとしても、死亡率は格段に上がる。
ソーマとて、この異常さには気付いていた。サクヤも口には出さないにしても、同じだろう。些か、強張った背が戸惑いを物語っている。コウタはその戸惑いを感じ取って警戒をしている、という所か。こちらが警戒をする前に威嚇を繰り返していた一人と一匹は言うまでも無い。
籔を突いて蛇を出す真似をする程愚かではないが、しかし、最悪の事態は想定しておくべきなのだろう。
「…もし、戦うことになれば、」
「僕が食い止めます。先輩方は迎撃ではなく離脱を優先して下さい」
僅かに眉を寄せ、低く呻くように零した言葉を遮った声音に、青い瞳が即座に振り返った。
詰まった息を吐き出せずに言葉まで詰まらせたソーマを、冷静な白藍が見返す。
「問題ありません。通常任務から逸脱した難度のものではないと判断します」
凪いだ双眸。硬質な物言い。言ってから、己の言葉を辿り、嗚呼、違う、と緩やかに首を振って淡く微笑んだ彼に何時かのラボラトリでのそれを重ねたソーマはやはりあの時と同じように口を噤んだ。
「…すみません…え、と…そう、慣れて、いるので」
選ぶ言葉を人間的なものに変えて、彼は困ったように微笑む。ぎこちないその笑みは無機と有機の狭間で揺らぐ機械のようで、酷く違和感がある。彼自身も自覚しているのだろう。申し訳無さそうに乾いた大地にやった視線が居心地の悪さに彷徨っている。
自分が言うのも何だが、こういう時の彼はとても人間的だとソーマは思う。普段、感情の色が無いと言っても過言ではない彼がこうして戸惑い、努力する様は間違ってもその辺りの物品と同じではない。彼自身はそれを消化しきれない食物のように身体の中で持て余しているようだが、悪いものではないと認識しているようだ。
こういった仕草を比較的頻繁に見るようになったのは、いつ頃からだったか。事ある毎に己を物品として表現する彼の、こうした変化すらあのヘビースモーカーの齎したものの一つなのだろうと考えると、実の所、大変、癪だ。しかし、口に出せば認めているようで…それも癪だと苦虫を噛む。
見据える先で揺れるサクヤの黒髪とコウタの茶髪。次の角を曲がれば廃教会の入り口だ。一先ずはそこでこの地区を一周し終わった事になる。任務は完了。帰投の為、回収地点に向かう事になるだろう。
先に曲がった彼女達の背を追いながら、言葉に出来なかった言葉を何とか形にしようと噤んだ口を開いたソーマの声は――――サクヤの驚愕に飲まれた。
「どうして同一地区に二つのチームがいるの!?」
直後、追いかけた先で目を見開いたまま佇むリンドウとアリサを視界に入れた彼等の動きが刹那、止まる。
俄かに張り詰めた空気の中で、ソーマだからこそ気付けた小さな声音が呟いた。背後でじゃりりと砂利が鳴る音が鈍く鐘を打つ心臓を掻く。
「……こういう事、か…」
僅かな身動ぎの後に続いたのは、銀色が密かに鳴らした、迎えのヘリを呼ぶ端末の音。
それすら、ソーマ以外が気付く事は無く。
ソーマさんと新型さんが内緒話。耳の良いソーマさんならちょっとした囁きくらいなら拾えます。きっと。
アラガミを威嚇する新型さんなんて初めて見ちゃったソーマさんは少し驚いて、でも、「ああ、こいつなら出来そう」くらいの認識で順応しています。最早、新型さんが何であっても気にしない勢いですが、だからといって、敬遠する訳でもなく、無茶苦茶な事を言い出す新型さんを心配してみたりもします。実は熱い男、ソーマさん。
威嚇する時の新型さんの口の悪さは相手に舐められない為、というか、相手を圧倒する為のそれです。レンギョウに対する時もそうですが、敬う相手と対等、或いはそれ以下の相手とを明確に分けています。
つまりは、敬語を使われている相手は敬われてはいる訳ですが、決して、対等ではありません。そう考えるとコウタさん辺りは非常に不憫です。
2011/06/12 |