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 今はそれだけが標だ。

約束

 酷い現場だ。教会の中から聞こえるのは轟音に駆け付けたサクヤが叫び、錯乱するアリサが只管、謝罪を繰り返し、それを宥めるべく叫びを重ねるコウタの声。表ではそれすら飲み込む咆哮を上げる獣が焦燥を露に退避を急かすソーマの声を遮って飛び掛り、気付いた彼の刀身、イーブルワンが大気に鮮血を躍らせて風を薙ぐ。
 混戦というには戦闘に参加する味方が少なすぎるその現場は常日頃、重要視されている「統率」という言葉が、いっそ清々しい程綺麗に消え失せていた。
 酷い現場だ。もう一度、思う。
 廃教会から聞こえる会話から、どうやらリンドウは教会内に閉じ込められたらしい。逸早く教会に踏み込んだサクヤがアリサに状況説明を要求する言葉を漏らしていたから、この事態を引き起こしたのはアリサで間違いないのだろう。そのアリサも今は心身を喪失しているのか、聞こえる声音が何処か虚ろだ。パパ、ママ、ごめんなさい、と謝り続ける様子は普段の、どちらかといえば自信家な彼女からは想像も出来ない弱々しさがある。ともすれば、見えているものも違うかもしれない。コウタが必死に彼女を正気に戻そうとする声がする。
「サクヤ、お前は全員を統率、離脱しろ!俺はちょっとこいつ等の相手をしてから帰る!」
「嫌よ、私も残って戦う!」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい…!」
「しっかりしろよ!アリサっ!サクヤさんも、早く行こうよ!このままじゃ皆…!」
「おい!早くしろ!」
 廃墟に木霊する支離滅裂な会話。寧ろ、それは会話ですらない。酷い現場だ。叫び合う間にも涎を垂らした獣の咆哮が大地を揺るがせている。重々しい足音と爪がコンクリートを砕く音。響く悲鳴。肉を裂く音。…酷い現場だ。酷い、酷い、酷すぎる、現場だ。冷静なのは中に閉じ込められながらも総員退避を命じるリンドウと獣四匹を相手に立ち回るソーマ、同じくそれを相手にするセンカと教会内でリンドウの傍にいるだろうレンギョウくらいのものだろう。その中でもソーマは周りの混乱を目にして辛うじて平静を保っているに過ぎない。錯乱する者達を抱えての劣勢。酷い現場だ。
 シックザールが本当に狙ったのはこれだったのだろう、と弾丸で獣の頭を砕きながらセンカは思う。――――「任務中の事故に見せかけた雨宮リンドウの暗殺」。実行役は、アリサ・イリーニチナ・アミエーラ。だが、彼女の様子を見る限り、率先して加担したと言う訳ではないようだ。メンタルケアを受けていたというから、大方、それに乗じて何か暗示でもかけたのだろう。本人にその気が無ければ、疑われる事など無いのだから、リンドウがアリサに目を光らせる訳が無い。そうして、何も知らない哀れな子羊に引き金を引かせるやり方はいかにもあの男のやりそうな事だ。ソーマの言葉を借りるなら、実に胸糞悪い。
 右から飛びかかろうと姿勢を低くした獣に振り向き、向けた銃口に火を噴かせる。仰け反ったそれに一瞥もくれず、銀の燐光を散らしてまた正面を向いた彼の銃が今度はプレハブに登った白い影を向こう側へ打ち落とした。彷徨う事の無い銃口は次に左に。
 ここを、動くわけには行かない。近距離型ゆえに辺りを駆け回らなければならないソーマとは別に入り口の正面に立ち、一歩も動かず神機の引き金を引き続けるセンカの役目はこの場をこれ以上、乱さない事だ。目の前の群れを中に入れれば、その結果は容易く想像出来る。そうさせない為にも、センカはいつものように立ち回る訳にはいかなかった。
 只管に、撃ち、威嚇する。もう何発撃ったかも知れない神機は熱を帯び、まるで別の生き物のようだ。そんな幻想を抱くのは存外、余裕だからなのか、それとも、自分も少しばかり現実逃避したいくらいには混乱しているのか。定かではなくとも、この現状がいつまでも維持できるとは無論、思っていない。一刻も早く離脱しなければ皆が獣の腹の中だ。
「…ソーマ先輩。中で使い物にならなくなっている皆さんを回収して離脱して下さい」
 言って、刹那、合う視線。言葉は無く、襲う爪を避けて後退してきたソーマの足がくるりと踵を返して、擦れ違う瞬間、ぽん、と銀の肩を叩いてその姿が廃教会へと消える。続く、獣の顎を砕く銃弾の音。
 硝煙の香りの中、銀色の華奢な肩に手を触れさせたソーマには、あの場はセンカに任せても大丈夫だろう、と、根拠の無い確信があった。
 それは決して己が逃避をしたいからではなく、言うなれば、信用だとか、信頼だとか、そんな、自分には到底似合わない、馬鹿馬鹿しい感情の類だったのかもしれない。何にしろ、あの人間離れしている新型が数秒でこの世から忽然といなくなってしまうとは思わない。そう、数秒だ。数秒で全員を回収する。あのセンカがあえて汚い言葉で命令紛いな事を言ったのだ。初めて見る姿だが、彼も相当にイラついているに違いない。
 じゃりり。小石を鳴らして踏み込んだ先。山のように積もり、道を閉ざした瓦礫の前に、目当ての「使い物にならない皆さん」を見つける。天井が損傷している事からして、どうやら誤射が招いた惨事らしいが、悠長に観察している暇は無い。
「早くしろ!!離脱するぞ!」
「ソーマ!?センカはどうしたんだよ!?」
 声を上げたのは唯一、使えそうなコウタだ。丸く見開いた茶色い双眸を苦々しく一瞥して、ソーマは神機を構えたまま崩れた瓦礫の向こうへ叫び続けるサクヤの腕を掴んだ。
「…っ、アイツは外で食い止めてる。アンタも早く行くぞ!」
「センカまで一人で!?なら、尚更、嫌よ!私も…!」
「いい加減にしろ!!アンタが残っても死ぬだけだ!おい、お前もそこの新型を引き摺って連れ出せ!」
 センカが一人で外の群れを抑えている事を示す言葉に反応したのか、抵抗の弱まった彼女を引き摺り、同じくアリサを抱えたコウタに目配せをして薄暗い屋内から獣の息遣いが満ちる西日のもとへ向かう。瓦礫から離れて行くにつれ、暴れ叫び、抵抗を強めるサクヤの声で鼓膜が破けそうだ。彼女は既に自分が支離滅裂な事を言っている事すら理解していないだろう。ちらりと目をやる後続の、こちらとは正反対の静かさが嫌に背を冷やす。
 憔悴、というには自失し過ぎているアリサは言うまでも無く、使い物にならない。もがきながら引き摺られるサクヤも冷静な判断を欠いたままではアリサと同類だ。戸惑いを露にするコウタは前者二人と違い、多少は使えるだろうが、事態を打破するには足りないだろう。――――足手纏い二人を抱えての離脱。不利という一言では片付けられないこの事態に辛うじて「圧倒的」という言葉が付されないのは一重にリンドウとセンカの存在ゆえだ。その二人もいつまで持ち堪えられるか。
 焦りが、口の中を乾かせる。喉までひりつかせるようなそれと共に鼓膜で五月蝿い程叩き鳴らされる己の心音が酷く耳障りだと彼は奥歯を噛み締めた。
「私だって…私だって戦える!!」
 ただの駄々に変わりつつある金切り声に近い声音に最早、無視を決め込んで教会から足を踏み出した、瞬間。

「何度言わせる!下がれ!!」

 風を飲み、大気を痺れさせる――――唸るような咆哮。
 初めて聞くそれに耳を疑った彼等は、刹那、時を止めたかの如く、或いは、切り取られた静止画の如く、突然の静寂が支配する中、凛然と銃を構えるその後姿が己の見知ったものとはかけ離れているような錯覚を覚える。
 凪いだ風。舞う砂埃。長く細く大地に落ちる、一つきりの影。降り注ぐ橙の陽光に照らし出された仄かに炎の色を帯びる銀の髪。その毛先から舞い上がるようにちらつく燐光は煌く火の粉のようだ。肌に触れる空気すら冷え、痺れる痛みに心の臓までも引き攣る殺気の中、幻想的ですらある朧な光を帯びる彼の手の内の、殊更、硬質な金属の艶が酷く不釣合いに見える。
 思い、けれど、銀の背を見つめるしかない彼等は直に胸中で首を振った。――――違う。不釣合いなどではない。きっと、これが「烏羽センカ」なのだ。他者と一線を引き、決して踏み入らず、また、踏み入らせようとしないセンカ。その本質の一端。それが今、目の前の情景なのだ。
 振り返らず、退く事も無く、凶器を抱え、立つ。隣には誰もおらず、誰も望まない。たった一人の行軍。連れ添うものがあるとすれば、それは抱えた神機と纏う風だ。
 呆然と動きを止める世界で、冷えた大気の刃が生ある全てのものへ向けられる。ぴりり、引き攣る肌。
「貴方の役目は何ですか」
 静かな声音が己に向けられたものだとサクヤが気付いたのは、続く言葉が紡がれ始めてからだった。
「此処で話も出来ない低脳共に餌の足掻きを見せる事ですか。雨宮リンドウ少尉の命に背く事ですか。彼は何の為に貴方に部隊員の統率を命じたのですか。今、貴方の手にあるのは貴方の命だけですか」
 色の無い、無機質で平坦な声音が、殺気が、荒ぶる気を喰らい、捻じ伏せて行く。不可視の刃の如く身を切りつけて行く言葉に冷える己の指が、今更ながら、確かに神機を握っているのだと、そして、今はそれだけではないのだと知らせる。
 途端に、溢れ出す羞恥と後悔。まだ残る躊躇い。それを追撃するのは、氷の刃。
 振り向かないまま、けれど、確かにこちらへ向けられた咆哮が身を襲う。それは大気を引き裂くが如く。

「此処で犬死する事が貴方方の役目ですか!!」

 冷えた。直後、過去形で、そう思った。
 リンドウが統率を命じた時点で現場の指揮権はサクヤに移っている。既にこの手には神機と己の命だけでなく、自分以外の、ソーマの、コウタの、アリサの、そして、センカの命があるのだ。不測の事態に錯乱している場合では決して無い。己の我が侭を喚いている場合でも、無い。冷静に見て、この現状ではリンドウの言う通り、退避するのが最善策だ。それが例え、彼を此処に残す事になろうとそれ以外に選択肢など有り得ない。
 此処で犬死するのが役目か。答えは考えるまでも無く、否だ。ただアラガミの餌になる為にリンドウは統率を命じたのではない。仲間の生存を望むからこそ、サクヤに指揮権を移したのだ。――――それに、報いなければならない。それが今為すべき義務だ。
 ぐ、と握り直した神機ががしゃりと鳴り、前を向く、朱の双眸。まだ混乱は収まらない。だが、先程よりは頭が冴えている。問題ない。戦える。走れる。皆で生きる為に。抵抗を抑えていたソーマの手は、何時しか放れ、同じく前を見据えていた。
 見回す景色の、白い獣が犇めくその一部が、開けている。走り抜けるとすれば、そこしかない。奇跡の如く開けているそこは出来すぎた脚本のように回収地点へ続く最短の道筋だ。
「ヘリは呼んである」
 囁くソーマに一瞥をくれて、背後でアリサに肩を貸すコウタに目をやる。
「……走るわよ。いけるわね?」
 応えは期待していない。する余裕も無い。コウタが力強く頷いてくれた事だけが、この判断を正当化しているような気がして、サクヤは頭の中で自嘲した。
 情け無い話だ。年長者たる自分が、新人二人に勇気付けられている。汚名返上はいつしようか。…生きていれば、その機会はいくらでもある。そう、生きてさえいれば。
 再度の目配せは刹那。威嚇目的で上空に放ったレーザーの発射音を合図に四つの足音が奇跡の隙間を駆け抜け――――気付く。四つ?足りない。思った時には、遅かった。
 ずしん、と響いた地鳴りと共に奇跡が閉じられる。その白い巨体の向こうに見える、華奢な銀色。たった一人で周りを取り囲む獣を圧倒するその姿。
「センカ!?どうして…!」
 飛び出し、引き返そうとしたサクヤを、ソーマの手が捉えた。引き摺られた足が地面に擦れる。
「離して!センカが…!」
「アイツとは最初からこういう話だった。いいから行くぞ!」
 聞いた、その瞬間。思考が止まった気がした。それは己だけではなかったのだろう。傍らのコウタや自失していた筈のアリサでさえ、その瞳を見開いている。
 最初からこういう話だった、と言う事はつまり、こういう事態になった時にはセンカが囮となり、他の者を逃がす手筈になっていたという事だろうか?まさか。そんな筈は無い。何時の間にそんな事になっていたのか。そんな馬鹿な。駄目だ。頭が働かない。嘘だ。嘘だ。嘘だ。
「どういう、事…?だって、ただでさえセンカは病み上がりなのよ!?一人で離脱出来る訳…」
「来たら殺します」
 高く上がりかける声を遮り、凍える殺気が飛ぶ。今日は、どうしてこんなにも思考が止まるのか。呆然と眺める向こう側で、印象的な銀髪が薄い影を落とす白い横顔が見える。
「此処に残るというのなら、アラガミが貴方を喰らう前に僕が殺して差し上げます」
 だから、離脱をしろというのか。リンドウを残し、更には彼までも此処に残して。いくら人並み外れた能力の持ち主だとしても床上げしたばかりの彼にはこの役は荷が重過ぎる。だが、何とか持ち直したとはいえ、未だ戦意を喪失したままのアリサを抱え、四体のヴァジュラ種から逃げ切れるかといえばそれは不可能に近い。客観的に考えて、これが、この現状が、最善だ。
 冷静な思考が導き出す結論に返す言葉を失ったサクヤの、力の抜けた身体を押しやり、代わりに前へ出たソーマが柄を握り、鳴らす。視界に映すのは銀色。同じく銀色を視界に入れながら、最早、呆然というより愕然としているのは、背後のコウタとアリサだ。
 ソーマ自身、サクヤへああ言ったものの、決してこの現状に納得している訳ではなかった。今も、馬鹿野郎、クソッタレ、と叫ぼうとする己を押し留める事に全ての理性を動員している。しかし、どれ程、この手がぎしぎしと音を立てる程、刀身の柄を握り締め、飛び出しそうな脚が必要以上の力で大地を踏みしめていたとしても、衝動的に行動する訳にはいかない。このまま離脱すると、彼と確認した。彼もその為に動いている。けれど、だからこそ、これだけは言っておかなくてはならないと、思う。彼はリンドウとは違い、帰ってくるとは一言も言っていないから、せめて。
「…帰ったら、話がある」
 微かな囁き。それだけで、十分だった。弾かれたようにこちらを振り向いた白藍が、僅かに見開いているのが見える。少し開いた唇。和らいだ殺気。それが一瞬の暖かさを帯び、刹那、景色の色が――――変わった。

「またアナグラで会いましょう」

 細く笑む空の色と、艶やかな唇が弧を描くこの瞬間は、嗚呼、なんて鮮やかな情景だろう。ふわりと舞い上がる羽の如く柔らかで、幻よりもおぼろげな、今にも消えそうな淡い微笑。砂埃に晒される、触れれば脆く砕けそうな細い身体に、月光を集めたかのような煌く銀の髪。星の如く舞う燐光。
 それらを視界の端に焼付け、彼等は走り出した。背後で吼える獣の声が、脳を揺らす。踏みしめる砂利の嘘臭い感触。壊される穏やかで柔らかな美しい瞬間。畜生。畜生。畜生。畜生。夢であればいい。夢のわけが無い。畜生。畜生。畜生。迎えのヘリが奏でる爆音の中、すすり泣いたのは誰だったか。
 またアナグラで会いましょう。――――耳に残るその声だけが、今、彼等を動かす全てだった。



色々、願望が混ざっている話ですね。一番書きたかった箇所の一つで、この場面は「もっとしっかりしてくれよ」という人が死ぬほど多かったので、叱責入ってます。
ソーマさんは少しまともだけど決定打には欠けるし、コウタさんも同じく、アリサさんは最早、言う必要も無く、一番しっかりしてなきゃならないサクヤさんは自分の事で手一杯で本来の任務・義務を忘れてるとか話にならない、と。もっとしっかりしてくれよ、本当に。という願望を此処で発散です(笑)
実際、指揮権がサクヤさんに移った後、皆の命が乗っかっているのはサクヤさんな訳で…此処で的確な指示をしないのは任務放棄であり、リンドウさんの意思にも背く行為だと思う訳です。無論、リンドウ隊長はそんな事を望んで統率を命じた筈ではない訳で…正直、本当に、あそこで犬死するのが役目じゃないだろ、みたいな。
それは他の面々にも言える事で、戸惑うばっかりじゃ一般人と変わらないですし、皆、命張って仕事してるなら間違っても、子供の駄々を捏ね散らかす場面では無かった筈じゃないかと思います。
でも、何か、その場限りの希望でも無きゃ立ち直れないのも確かなのは分かるので、また会える約束だけはする新型さん。
それが本当になるか、嘘になるかは、また別の話ですが。

次から捏造入っていきますよー。

2011/07/04