そうして、このお話はおしまい。
カーテン・コール
突如、現れた「それ」は教会の壁の上部を彩るステンドグラスに開いた大穴に立ち、差し込む橙を背にしていた。――――霞む眼を焼くような、斜陽を弾く銀の羽。纏う光の縁を少しばかり炎の色に染めたそれが鳥よりも軽やかに、蝶よりも儚く輝き、はためいている。
一目で「人」ではないと判る影を最早、ぼんやりと眺めるより他無いリンドウは血の池に身を浸したまま、緩く瞬いた。
男だろうか。女だろうか。どうやら人型であるらしい「それ」の、果たしてあるかどうかも分からない性別は華奢な体躯からだけでは判別するには至れない。だが、逆光に微かに見える服は自分がよく知っているものであるような気もする。よく、見たものだ。少し大きめの、サイズを間違えたんじゃないかと首を傾げたその上着。けれど、長い袖からちょこりと顔を出す白魚の鼻先があまりに可愛らしくて、想いを自覚する前から悶えていたのを覚えている。…その「彼」の影によく似ている気がするのは、気のせいだろうか。それとも最期に世界が都合の良い、素晴らしい幻覚でも見せてくれているのか。
足を止めたヴァジュラ種が同じく光を見上げている前で「それ」は一度、大きくはためかせた翼から銀の燐光を散らし、恰も羽根そのものの如く、音も無く教会の床に細い爪先をつけた。
「それはコレの獲物だ。消えろ」
幻想的ですらある着地の後に紡がれた言葉はまるで氷のようだ。光が眩しい。顔はまだ見えない。銀の羽がステンドグラスに照らされ、今度は虹に輝いているように見えた。
ずしん、と再び足音を響かせた黒い巨体が地鳴りと共に離れて行く。大気を低く振動させる唸りに、反射的に動いたリンドウの指がずるりと血溜りを掻いて滑った。――――良くない。駄目だ。あの細い身体でヴァジュラ種に単身、挑むなど、無謀以外の何物でもない。重なる、「彼」の影。
霞む視界に閉じそうになる瞼を懸命にこじ開けて、また血溜りを掻いた指先は、しかし、二、三度、非生産的な行動をしただけで呆気ない程、簡単に力尽きた。指を赤黒く染め、己に血を吐かせるだけの、無意味な行為。情け無いその姿に些か辟易としてくる。
僅かに上げた顔を再び血に沈めた彼は、表情らしい表情を浮かべられないまま、対峙する二匹――果たしてそう表現していいものかは不明だが――を眺めた。荒く息をつき、薄く濁り掛けた麹塵を呆然と向けるしかないその先に愛しい銀色と同じ色がある事が、嗚呼、奇跡のようだと思う。そして、その奇跡は信じられない事に「彼」と同じ音を紡ぐのだ。
「十分な分け前はあっただろう。あとはコレのものだ」
消えろ。影の中、微かに見える唇が静かにそう奏でる。記憶にあるものよりも幾分か冷えた、殺気の籠った声音。流れる僅かな風にすら凍える冷気を纏わせて放たれたそれに、佇む黒が慄いた、と認識した、刹那、風を巻き上げ、微動だにしない銀色の燐光を乱して飛んだ巨躯が、はためく羽を飛び越えて壁に開いた穴に潜った。外界の橙に消えた闇の色が、ずし、と着地した音を聞き、リンドウの瞼は殊更、重くなる。
分け前、とは考えるまでも無くヴァジュラ種の腹の内に消えた神機と腕輪の事だろう。素晴らしい喩えだ。そうして、残ったこの身は銀の奇跡の糧となる。――――傾向があるとはいえ、本能で捕食対象を選定する事が多いアラガミがこうもあっさり退いたという事は少なくとも、この場に残り、こちらを見つめている「それ」はあのヴァジュラ種よりも強く、捕食対象とするにはあまりに割に合わないという事だ。その相手に、血に伏するばかりに成り下がった自分が敵う筈が無い。
諦めは、死の沼に半身を浸しているからか。遠くなる意識を未練がましく現世に繋ぎとめようとする己の本能に呆れながら、リンドウは細い息を吐いた。吐息に揺れた血溜りが、面積を広げている。
ヴァジュラ種に挑むように尻尾を立てて立っていたレンギョウは何時の間にか、視界から外れていた。何処へ行ったのだろう、と思うより早く、緩く瞬いた先に佇む銀色が一度、羽ばたき、そして、響く靴音。言葉以外で聞く「それ」の音はだからこそ、地に伏す自分に聞かせているのだと彼に自覚させた。
こつり。眼前で止まる、音。
「何をしているんです」
やけに鮮明に聞こえたそれは矢鱈と不機嫌だった。まるで苛立ちを抑えているようだ、と動かない頭でぼんやりと思う。
本当に、この奇跡の声は「彼」にそっくりだ。きっと、「彼」が今の自分の姿を見たなら、同じ口調で、同じ事を言うのだろう。思いながら、最期の奇跡に耳を澄ませる。
「生き残れと言ったのは貴方でしょう」
そうだ。
「生きて帰れと言ったのも貴方でしょう」
そうだ。
「まだ死ぬ訳にはいかないとも言っていたでしょう」
そんな事を言った気もする。
「この様は何ですか」
おお、厳しいな。
「貴方にはする事があるのでしょう」
勿論だ。
「…死にたいのですか?」
それは、違う。――――大気に伝わらない言葉が、ひゅう、と喉を締め上げた。
そうだ。嗚呼、そうだ。違う。死にたい訳じゃない。もっと、もっと、もっとする事がある。まだ伝えていない、伝え切れていないものも沢山ある。それは、つい先程まで目を背けていたこの世界への未練だ。嗚呼、そうだ。まだ、する事が沢山ある。まだ死にたくない。まだ、死にたくない!
俄かに身体を支配する力が筋肉を軋ませ、ずるりと動いた腕が床に手を付く。力の入らない脚を引き摺り、漸く膝を付き、けれど、血のぬめりに滑った爪先は二足での直立を阻んで、うつ伏せていた彼を仰向けにさせるに留まった。
転がった視界に映る、天井のシャンデリアが揺れている。まるで無様な自分を嘲笑っているかのようだ。でも、そう、まだ、死にたくない。
また一歩距離を詰めて覗きこんでくる「それ」の顔は、やはり逆光で見えなかった。
「人間に『これ』を試した事はありません。リスクが高く、生き残れる保障すらありません。運良く生き残ったとしても、どうなるのか検討もつかない方法です」
何を言っているのか。それは、つまり、この状況をどうにかする方法があるという事なのか。麹塵が瞬く。濁り始めたその瞳を焼く、銀色。
「まだ、生きているでしょう。選んで下さい」
賭けるか、朽ちるかを。
アラガミが提案する方法に安全な方法などありはしないだろう。一つが解決したその先にあるものが平穏だとも思わない。だが、だからといってこのまま無様に朽ち果てるのが己の是とする所かと言えばそれは断じて否だ。生き残る。それが大前提の未来。そもそも、腕輪の故障による侵喰がこの身を既に蝕んでいるというのに、何を今更、未練がましく人間という種族に拘る必要があるのか。要は、人以外の何かになってでも生きる可能性に賭けるか、それとも、この場で生に緞帳を下ろすかの二択だ。他人に生き残れと指示してきた自分が選ぶ道は一つしかない。そう、生きてさえいれば、どうにでもなるのだ。
声を紡ごうとした唇から音を潰して命の赤が溢れ出る。苦しい。身動ぎに、降る鈴の音。
「生きたいですか?」
そんなの、決まり切っている。例え、その先にあるものが地獄だったとしても、俺が俺のまま「彼」のいる世界で生きていられるのなら。
「……きた、い………っ…生きたい…!」
それはどれ程、無様な姿だっただろう。腹に大穴を開け、濁った眼で口からごぽごぽと血を吐きながら吐息が揺らがぬように歯を食い縛り、僅かに痙攣する指で己の左胸の服の布を握り締めて、途切れ途切れの掠れた声で足掻く姿。己が垂れ流した血に沈み、それでも、潔く死ぬ事も出来ずに生にしがみ付く。泣きそうな位の衝動に歪んだかもしれない顔は、静かに言葉を待っていた「それ」の目にどう映ったのか。でも、死にたくない。そうだ、嗚呼、そうだ、死にたくない。生きたい。生きていたい。生きて、帰りたい。
慟哭するような一瞬を経て、ひゅーひゅーと隙間風のような細い呼吸が唯一の音になり、少し。――――そっと膝を床に着き、服を握る血まみれの手に柔らかく手を重ねた「それ」が吐息が触れる距離まで近づいた。
「わかりました」
微かに頬に触れる風。唇の艶までわかる程近くなった距離に、漸く「それ」の顔が見える。
ちらり、光る燐光が目を惹く、星と月の光を映した銀の髪。瞳は空よりも淡い白藍の色。伏せがちの、長い銀の睫毛。肌は真白く、雪の如く。その白にほわりと春を乗せた薄桃色の瑞々しい唇と、少し開いたそこから覗く小さな小雀のような舌。尚も近付いてくるそれが、そのまま己に触れてくれれば、と淡い期待を抱けば、こんな時でも胸が高鳴る。
「ああ、お前…」
こんな奇跡があるのなら、もし、この奇跡が迎えの死神か天使でも構わないと、心にも無い事を思う愚かな自分は意外と余裕なのかもしれないと思いながら、「それ」の唇と血に濡れた己のそれが触れる瞬間、彼は血みどろの顔で酷く愛しげに笑った。
嗚呼、そう、お前、
「俺の愛する天使にそっくりだ」
黄泉からの迎えはまだいらない。生き残る。生きて、帰ってみせるから、待っていてくれ。――――センカ。
不思議な程、明瞭に紡げた言葉を最後に、口腔に注がれた何かを嚥下したリンドウの意識は深淵に落ちた。
長かった…リンドウさん殉職の回。捏造なのでお助け要員は子犬ではないですよー。
重視したのは勿論、死に際(?)のリンドウさんの描写。いくら覚悟を持っている人でもやっぱり死にたくないだろうなあ、という、書き手の偏見でカッコイイ人デストロイヤースキル発動です(何それ)
仲間を守る為にもリンドウさんは間違っても死ねない訳で…でも、死にそうなのも確かな訳で…どうしようもないので、格好悪く足掻いてみる事だってあるよね。という話なんですが、要は、死ぬしかない状況になっても生きる事に執着するリンドウさんが書きたかった訳です。元々、「死ぬな」という命令を下すような人ですし、生きる事に対する執着というのは少なからずあるだろうと。勿論、そういう意味では神機使い皆がそうだとは思いますが、殊、雨宮姉弟に関しては意識が強くあると思います。
そんな訳で、漸くリンドウさん殉職です。
助けた人は……まあ、誰なのか言わなくても描写だけで特徴が云々云々。
2011/07/15 |