mono   image
 Back

 あの時の声が聞こえている。
 ずっと、ずっと。

目を閉じれば白雪の、

 またアナグラで会いましょう。
 そう言う声が、ずっと聞こえている。否、耳に残っていると言うべきか。少々鋭敏すぎる己の耳に槍の如く飛び込んできた柔らかな声音は四日経った今でもソーマの中で確かな響きを持って木霊していた。目を閉じれば、陽光に照らされた粉雪がささやかに煌くような淡い微笑みすら思い出せる。
 座り込んだベテラン区画の、冷えたエレベーターロビーの硬いベンチ。買ったままプルタブに手を掛ける気にすらならない缶を手の内で転がしながら零すのは溜め息だけだ。身体の力を奪う疲労はここ数日の捜索任務よりも、アナグラの雰囲気の所為だろう。
 その雰囲気を明確に表現するならば、コウタの言う通り、ギスギスという言葉がしっくりくる。部隊内で最も安定していなければならない筈のサブリーダーであるサクヤは安定を欠いていて、アリサは心神喪失で入院。ツバキも動揺を隠そうと必死になっている。コウタは懸命に自己を保とうとしているが、やり場の無い感情は彼を確実に蝕んでいた。残る己は、といえば、やはりコウタの言う通り「いつも通りに見える」のだろう。元より、あまり感情を表に出さない性分であるから表立って動揺しているようには見えないとはいえ、それでも「いつも通りに見える」だけなのだ。彼が意識してその言葉を選んだかは定かではないにしろ、それは今の状況を表すのにこれ以上無い程、似合いの表現だった。
 己を呪いたくなるのはこういう時だ。エリックも、リンドウも、センカも、決して浅慮な行動をした訳ではない。その時の最善を尽くして、それでも帰って来なかった。それだけの話だ。だが、だからこそ、既に呪われていると言っても過言ではない己が身を更に呪いたくなる。例えば、その場に自分がいなければ、或いは、彼らがいなければ、少しでも未来は変わったのだろうか?唇を噛んで巡らせる思考は最早、意味の無いものばかりだ。
 目を閉じて、息をつき、彼はまた同じ場面を脳裏に描いた。映るのは、大気に散る銀の燐光。
「…馬鹿が」
「おや、私に向かってそれは少々失礼ではないかい?」
 つい、口をついて出た呟きに返るものなど無いと高を括っていた所為か、思いがけず返ってきた声音に青年の肩は飛び跳ねて驚いた。瞬間、硬直した手から滑り落ちた缶が高い音を奏でて弾み、転がった先で足袋に包まれた爪先に辿り着くのを呆然と見送ってしまったソーマの目の前で、ごろろと鈍く身を動かした缶を日焼けとは縁の遠い手が拾い上げる。
 ぽん、と拾ったそれを手の内で放って見せて、目の前に佇んだ彼はいつものように微笑んだ。人を食ったようなその笑みに、自然、鋭くなる海の色が白金の隙間から針を飛ばす。
「……おっさん…何でアンタがこんなとこにいるんだ…」
 声の主、ペイラー・榊の拠点はベテラン区画ではなく、ラボラトリの筈だ。他の階を訪れる事はそうそう無く、あるとすれば、養子だという新人区画のセンカの部屋を訪れる事くらいのもの。この区画にはセンカと同じく消息を絶ったリンドウの部屋もあるが、それが目的だとは考え難い。
 訝しげな目で姿勢を正したソーマの視線を受け、サカキの双眸はゆるりと細まった。
「少し散歩をしようと思い立ってね。君は考え事かい、ソーマ?」
「……別に」
 見え透いた嘘をよくもまあ、平然と言えるものだ。咄嗟についた悪態めいた溜め息が大気に沈む。思ったより重々しく零れてしまったそれに舌打ちするより早く、小さく含み笑いを漏らしたサカキは思い出したように廊下の向こうを眺めた。先にあるのは――――リンドウの部屋だ。
 思えば、サカキ自身も養子を失った事になる。何だかんだと言いながら、二人の距離は他の面々よりも近しいようであったから、彼も何か思うものがあるのかもしれない。例えば、寂しさだとか、悲しみだとか、そんなものか。現実主義の最たるもののような学者であるから夢物語に縋るような希望的観測はしないだろう。早々に感傷を切り上げて次の研究についての考えを巡らせているかもしれない。
 ぼんやりとその佇まいを眺めたソーマの耳に、漸く沈黙を破る声音が届く。
「…君は、センカと何か話をしたかい?」
 例えば、彼自身に関する事とか。静かに問い質してくる言葉は酷く柔らかで、けれど、常よりも硬い。
「話、か…」
 したと言えば、した。していないと言えば、まだしていない。する前に彼の方が何処かへ行ってしまった。色々なものが宙ぶらりになったまま、こんな状況が続いている。
 沈黙を何と取ったのか、サカキは視線をソーマへ戻し、手の内で一度、缶を転がした。
「思い出せないかな。なら、質問を変えよう。…あの子は何か言っていたかい?」
「しつこいな」
「私の大事な子供の事だからね」
 苦笑を浮かべて言う声音に、あまりに嘘臭い響きが無いものだから、それこそが嘘くさくて仕方ない。だが、そう、きっと、親というものは、血が繋がっていなくてもそういうものなのだろう。
 己の親というものを脳裏に呼び起こし、沸き起こった不快感を彼は再度、零した溜め息で捻じ伏せた。
 何か話したか。何か言っていたか。思い返そうと思えば、閉じずとも瞼に映るのはあの時の情景ばかりだ。沢山の咆哮と沢山の混乱の叫びと、たった一つの白雪の音。数日前の記憶を鮮明に色付かせたまま覚えていられるのは一重にその白雪の所為に他ならない。獣を見つめる横顔も、凍える殺気を纏った背も、別れる間際に見せた朧のような微笑も、全てが鮮やかに焼き付いている。無論、その時に交わした言葉も一言一句忘れてはいない。ただ、その中からあえて選べと言うのなら、伝えられる言葉はそう多くは無いのだろう。恐らく、サカキが聞きたいのは平々凡々に交わした言葉では無いのだろうから。
 目を閉じ、開き、腕を組む。視線は己の膝。
「……話をしよう、と言っていた」
 正確には、話を、しませんか、と。ぼんやり返すソーマの先を、静かな声音が促す。
「他には?」
「他に?」
「あっただろう?」
 更に促され――――迷った。
 これを言えば、無駄な希望を持たせる事になりはしないか。それはソーマが最も嫌悪し、苦手とするものだ。
 下手な期待はさせないに限る。同時にこちらも期待はしない。それが大前提の人間関係ばかりを築いてきた――築いていかざるを得なかったとも言うかもしれない――彼には、例えば、コウタやサクヤが望むような、一種、相互依存で成り立つ人間関係を望む事は酷く不快感を煽るものだった。それを嫌う筈の当の己が、果たして、それを助長させる行いをして良いものか。躊躇する所ではある。
 白金の下で迷い、彷徨う海の色。息を詰め、微かに吐き、また詰め、瞬き、けれど、サカキが再度、あっただろう、と念を押せば、ほぼ生きた年月と同じくらいの長い付き合いをしてきた学者に勝てる訳も無く、肺に詰めた息を全て吐き出したソーマはついに口を開いた。
 目を閉じて、辿る記憶の中で、確かに彼の艶やかな唇が笑みを浮かべ、こう紡ぐ。

「またアナグラで会いましょう」

 またアナグラで会いましょう。何度でも繰り返す、あの時の言葉。何度も繰り返して、この身を現実に引き止める。
 音にしてしまった少しの後悔に顔を顰めたソーマは、ゆるりと開けた瞼が安い蛍光灯の光に焼かれる中、己の予想を見事に裏切り、確かに嬉しそうに笑うサカキを見た。
 ただでさえ細い目を更に細く細め、深く弧を描いた唇が緩んだ頬を僅かに持ち上げている。
「…本当に、そう言ったんだね?」
 蛍光灯に照らされて影を帯びる姿から紡がれた声音はやはり酷く嬉しそうで、彼は目を見開いた。力の抜けた拳が開き、強張っていた膝が、肩が弛緩していく。サカキの手にある缶が彼の手に戻されていたなら、また床で高い音を響かせていただろう。気の抜けた表情で笑う男を見上げる彼にはその顔にすらいつもの筋肉の緊張が無かった。
 呆然と、ああ、と呟いた声音は独り言であったか、或いは、単なる感嘆符であったかもしれない。嗚呼、あんたでもそんな安堵したような顔をするんだ、と。
「それなら、安心だ」
 柔らかく言ったサカキにぴくり、ソーマの眉が動く。
「安心?」
「そう、安心だ。あの子は嘘をつかないからね」
 少なくとも、誰かを悪戯に謀るような嘘は絶対につかない。確かな確信を持って音にされる言葉に、彼はぽかんと口を開け、再び身体の力を抜いた。ぴくりとも動かなくなってしまったその隣に、最早、持てないだろう未開封の缶を置いて、じゃあ、私はこれで、と言い置いて去っていくサカキの足音すら、今のソーマには聞こえているかも定かではない。見開いた海の色を白金の糸の間から覗かせ、ただ虚空を見詰めている。
 足取りも軽くラボラトリへ戻る学者を乗せたエレベーターが区画を去れば、残されるのは静寂とソーマと未開封の缶。
 嘘を、つかない。そう。嘘をつかない。妙な重さで身体の奥へ落ちて行く言葉を己の声で辿りながら思い返せば、確かに彼が嘘をついた事は、少なくとも己との間では一度も無かった。
 世渡りが壊滅的な程下手なセンカは馬鹿正直というよりも、恐らく、嘘のつき方を知らないのだろう。繕う事も知らないから、その口から紡がれる言葉は彼の見た目や声音の透明さからは考えもつかないような刃を持つ時がある。最近でこそ、その頻度は少なくなってきてはいたものの、根本的な性格が変わる訳でも無し。殊、リンドウに対してはいつもにも増して容赦が無いものだから、よく逞しい肩を落とす情けない男に皆が生ぬるい視線を向けていたものだ。
 思い出した穏やかで馬鹿馬鹿しい記憶に、口端が持ち上がる。
「…またアナグラで会いましょう、か…」
 壁に背を預け、見上げた天井が矢鱈と瞼を焼いて仕方が無い。眩しくて、目を閉じて、また、あの微笑を思い描いた。
 まるで曇りの一つも無い、透明な氷のようなセンカ。肝心な事は何一つ言わないくせに、嘘だけはつけない。不器用さに関しては己の上を行くかもしれない彼は、自分からは言わないだけで聞けばきっと応えてくれるのだろう。応えられなくても、待ってくれ、と。いつでも彼は言っていた。だから、多分、話をしようと言ったその時は、随分と色々なものを振り絞ったのかもしれない。――――ならば、己もそれに応えなければならない。彼の言う通り、此処で犬死するのが役目ではないのだから。他者を信じられない己に出来るのは、それに応える事だけだ。
 少なくとも、いつか来るその日までは、生き残る。誰にとも無く、そう囁き、思い出したように一瞥した傍らの缶のラベルを見たソーマは微苦笑を浮かべて、張り付いたように座っていたベンチから腰を上げた。後ろに落としていたフードを被り直し、袖の埃を払ってエレベーターのボタンを押す。程なく聞こえてくる、動き出す機械の音。
 爪先が三度、床を叩く頃、漸く開いた扉にするりと身を滑らせた影が消える瞬間、低い声が置き土産のように笑い混じりでこう呟いた。
「……全く…冷やしカレードリンクなんざ、誰が飲むんだ…」

 青い影が去って残されたのは、ベンチの上の缶が一つ。



ソーマさんとサカキ博士が立ち直ろうぜ!と言い合う回(違)
意味深な言葉を残して消えた新型さんを思うソーマさんは自分が思うより動揺している事を思い知ればいい(ぇえ)
動揺という意味では博士も同じで、新型の本当の部分を知っているだけに高を括っていた節があったのだと思います。立場上、新型の力量を一番知っているのは博士ですからね。「え、そんな、嘘でしょ」みたいな衝撃。だから、散歩してみようぜ、みたいな(何)…でも、戸惑う一方、やっぱり彼を良く知っているので大丈夫だと暢気に構えている部分もあります。その為の、最後の会話確認。新型が戻ってくる意思表示があったかどうかを密かに探っている感じです。
同時に、博士はソーマさんの事も良く知っているので、一種、発破をかけにきた意味もあったかもしれませんね。多分。

何にしても…うっかり冷やしカレードリンクなんてものを買ってしまうソーマさんは動揺しすぎです(ぇ)

2011/07/31