きっとそう。忘れていた。忘れてはいけない、一番大事な事。
月下美人の記憶
ぼさり。寝乱れたままのベッドに漸く任務後の火照りが冷めた神機を放り投げ、コウタはソファに崩れた。
何とか任務時間に間に合った面々で向かった任務は滞り無く終了。心配だったサクヤも任務前後の不安定さが嘘のように常時の射撃を見せてくれたものだから、嗚呼、やはりベテランは凄い、と少しばかり的外れな射撃が多かったコウタは、公私を割り切れる彼等に改めて畏敬の念を抱いたものだ。あくまで「いつも通りに見えていた」ソーマも、集合した時にはどうやら安定していたようだから、彼に関してはもう心配は無用だろう。
そうして、思う。中途半端に不安定なのは、きっと自分だけなのだろう、と。
サクヤのように目に見えて不安定になる事も出来ず、けれど、ソーマのように割り切ってしまう事も出来ない。中途半端でどっちつかずな自分。多少の嫌気すら差してくるのは悩むのがあまり得意ではない性格の所為かもしれない。
だらりとソファに座り、仰向けた顔でぼんやり天井を見る。
この部屋の、隣も、向かいも、今は空き部屋同然だ。アリサの部屋は入った事は無いが、センカの部屋はどうなってしまっているだろう?自炊をしていた彼の事、冷蔵庫の食料は少し大変な事になっているかもしれない。美味しかったスープやスパゲッティやパン、ご飯の材料が台無しだ。綺麗にしていた床や棚には埃だって積もっているに違いない。彼が帰ってきたら掃除の手伝いでもしてあげようか。床で寝る癖のある彼だから塵一つ残さないように綺麗にしてやらないと。それで、それで、それから。
「……何考えてんだよ…あいつ、いないのに…」
ちくしょう。思わず、悪態が漏れた。
ちくしょう。ちくしょう。ちくしょう。本当は納得なんかしていない。あの時、残れるなら残って一緒に戦いたかった。今だって、討伐なんかより捜索がしたい。きっとその辺の瓦礫の中からリンドウとセンカが二人揃って出てきて、その後ろからレンギョウが嬉しそうに飛び出してくるに違いないと思っている。だが、その反面、自分の現実的な部分はそれが全て夢想であり、不可能である事も理解しているのだ。
サクヤも同じだろう。冷静な自分は今の現状を仕方の無い、最善のものだと理解していて、けれど、それを受け入れられずにいる。彼女があれ程までに安定を欠いているのは後者の思いが強すぎる所為だ。そして、それを分析できる分、コウタの方がまだ冷静で現実的だと言えた。無論、胸の内で渦巻くものは別にしてだが。
腰ポケットを探り、取り出した端末の液晶画面に落とした茶色の瞳が、泣きそうに揺れている。蛍光灯に照らされ、明るい筈の部屋がまるで薄闇の中のようだ。
流れて行く文字。メールの打ち方も知らなかったセンカとの短いやり取り。いつでもコウタから送るそれは、端末の使い方を教えてからは必ず返事が返ってきて、その度ににやにやしながら送り返していたものだ。その様をソーマが半眼で見ては、気色悪いと言っていて、サクヤが、微笑ましいわ、なんて言っていたのを良く覚えている。アリサは何だかうずうずしていて、嗚呼、そう、リンドウからはとてつもなく寒くて痛い視線を貰っていた。そんな分かりやすい嫉妬をしないでくれ、なんて思いながらメールを打ったのも一度や二度ではなかったと思う。
他よりも比較的頻度の多かったらしい彼と自分のメールの内容なんて、実はあって無いようなもので…今日何した?寝てました。くらいのくだらないやり取りなんてしょっちゅうだった。勿論、任務の件について話す事はあったけれど、そんな堅苦しい仕事の事よりも、普通の友人としてのやり取りの方が多かったと思う。
和やかな光景を思い出しながら、声まで聞こえてきそうな慰めにもならない文字群をつらつらと追っていく。
今日何した?任務でした。食堂行かない?申し訳ありませんが、遠慮させて頂きます。飯食った?頂きました。明日の任務、何時だっけ?一四〇〇です。今何処?ラボラトリにいます。やばい!Oアンプル補充すんの忘れた!余分に持っていますので、宜しければどうぞ。今日、何作るの?リゾットです。俺も行って良い?あまり良い物はお出しできませんが、どうぞ。床で寝るなよ!?今日はベッドで就寝します。ところでさ、今日の飯なんだけど…カレーとか出来る?可能です。オムライス食いたい!わかりました。この間の美味かった!ありがとうございます。なあなあ、俺、今日センカの作ったハンバーグ食いたい!
「…あ…」
ボタンを押す手が、止まった。画面に映る一文がコウタの目を釘付けにする。
すみません、少し気分が優れないので、肉類をご一緒するのは無理そうです。
記されていたのは、顔文字も、何も無い、控えめな断り。
それは確か、センカの自炊が発覚し、コウタがそれにあやかり始めて少し経った頃の事だったと思う。
その日、いつものようにセンカを食事に誘おうと思って、ふとハンバーグが食べたくなったのだ。連日の任務で少しカロリーの高い、重いものが食べたかったのかもしれない。手持ちの配給チケットでは食べたいものは望めず、だから、任務が終わった午後一番で早速メールをした。大抵のものには否を言わないセンカであったから、今回も冷蔵庫の中身を見て応の返事をくれるだろうと思い、意気揚々と返事を待っていたのだが、返って来たのは珍しい断りの文言。気分が優れないという言葉に喀血の場面を想像して、扉を破る勢いでセンカの部屋に飛び込んだのは中々、鮮烈な記憶としてコウタの中に残っている。
あの時は床に臥せって――よりにもよって何故毎回、床なのか理解出来ない――端末をぽちぽち弄るセンカを火事場の馬鹿力よろしく抱え上げて褥に放り投げ、己の髪が逆立つくらい激しく叱り付けた。何せ、あの日のセンカは易しくは無い任務を二つもこなして、なのに、見つけた時の彼の顔といったら月も青褪めるような酷い顔色だったのだ。
気分が悪いなら休め。任務に出るな。そもそも床で寝るな。どこが少しなんだ。そんな顔色じゃ肉類以前の問題だろう。おかゆか何か持ってきてやるから薬飲んでちゃんとあったかくしてろ。ハンバーグ云々も空の彼方に追いやり、それはもう凄まじい形相でまくしたてるコウタに、褥で丸まったセンカはただただ小さく謝るだけだった。
思い出して、ぷっ、と苦笑が漏れる。
「…あー…そっか…そうだったなー…」
再び、ぽちぽちボタンを押し、メールを読み進めれば、深くなる苦笑と共に湧き上がるくすぐったい感覚。
明日の任務一緒に来て!わかりました。報告書手伝ってくれー!申し訳ありませんが、無理です。悪い!部屋の掃除手伝って!わかりました。明日の任務リンドウさんとなんだけど、一緒に来ない?お断りします。ソーマとの任務代わって!!わかりました。
短いやり取りの中の、沢山の諾と否。
「あいつ、出来ない事を出来る、って言った事無いんだよなぁ」
そんなくだらない嘘は終ぞついた事が無い。出来ない事は出来ない。出来る事は出来る。有言実行に近いその性質は、だからこそ、あの時、自分達を動かせたのかもしれない。
そうだ。いつも肝心な事は言わないセンカでも、自分達に向けて、嘘だけは一度もついた事が無いのだ。リンドウだってそうだ。飄々としていながら、縁起の悪い嘘だけは決して言わなかった。レンギョウなど、嘘という言葉すら知らなかったかもしれない。
ぱちん。端末を閉じ、彼は弾みをつけて立ち上がった。
「うん。だって、言ったもんな…アナグラで会おうって!」
信じろ。信じろ。言い聞かせる言葉が、漸く真実味を持って身体に染み渡っていく。第一部隊の中では誰よりも彼の事を知っていると自負していた筈なのに、何故、自分はあの時、おう、待ってるぜ、と、それすら返せなかったのだろう。思いながら、握り締める、大事な端末。リンドウからのメールも、センカからのメールも詰まった最早、お守り代わりになりつつある大事な物。目を落とし、長い瞬きをして、前を向く。
改めて見た自分の部屋は相変わらずゴミだらけで汚くて――――とても明るかった。
「こうしちゃいられないよな!俺がしっかりしなきゃ!」
皆がばらばらなら、纏まるようにすればいい。そして、それはきっと自分の役目なのだ。悩むより動かなければ何も始まらない。いつだって、そうやってやってきたじゃないか。センカの事にしても、何にしても。此処で動かなければムードメーカーの名が廃る!
「まずは兎に角、サクヤさんとアリサだよな。どうにかしなきゃまたセンカが角出しちゃうや。リンドウさんだって怒るだろうし…」
端末を持つ手と反対の手を握り、確かめて。大丈夫。間違ってない。まずは此処から。
腑抜けた二人――表現が少々、失礼だが――を引き摺りあげて、自分の足で歩かせなければきっとリンドウとセンカは大層呆れて怒り出すに違いない。二人が帰って来た時に胸を張って出迎えられるように…信じていたと、おかえりなさい、と笑って言えるようにしなければ第一部隊の面目丸潰れだ。
纏わりつく重い何かを落とすように軽く飛び跳ねた彼は、よし、と力強く息を吐き、部屋を飛び出した。
前回に引き続き、それぞれ立ち直ろうぜ、の回。コウタさん編。
コウタさんは隊内で唯一、自分で立てる人だと思います。そこに家族の影響が強いのは確かですが、仲間に頼らず、自分で何かしらの答えを見つけられる彼は実は隊内で一番強いんじゃないかと。原作の後半でも周りの状況に戸惑いながら、ちゃんと「自分で」考えて答えを出していましたし。悩む時間も機会も多くても、自分で選べるコウタさんは結構凄い人なんじゃないかと思います。
そんなコウタさんですが……メールのやりとりをしている間はリンドウさんの殺人嫉妬ビームの対象になっていたようです…。「お前…俺でもまだ一通目(初任務後のメール)の返事貰ってねぇのに…!」とか…そんな不憫なリンドウ隊長。誰か、慰めるか窘めてあげて…(…)
2011/08/05 |