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 それでも、きっと、まだその光は見つけられる。

ホーム・アローンは星を掴んだ

 信じられない。その一言だ。まさかあのリンドウが、センカが、MIAになるなど。寧ろ、それはあってはならない事だとサクヤは思う。
 十年以上も神機使いをしているリンドウがそこらのアラガミにそう簡単に負けるような弱い男ではないのは周知の事実だ。その強さは歴代の神機使いに名を連ねる程であり、他の支部でもその名を知らぬ者はいないとまで噂されている。
 対するセンカは他支部に知られる程ではないにしろ、この極東支部では知らない者がいない程の強さを持つ新型神機使い。朧月が人型を取ったような儚い印象が強い彼も一度、戦場に立てば修羅の舞で獣を狩る。ひらりと空を舞う銀の燐光と風を裂いて繰り出される剣戟は見る者に溜息をつかせる美しさがあり、サクヤ自身も初めはその光景にみっともなく口を開けて見惚れたものだった。
 その二人が、MIA。否、生体反応も消えたという事は事実上のKIAだろう。ノルンのデータベースでも二人とも既に二階級特進している。年齢欄の前に冷たく居座っているのは見たくも無い享年の文字。
「嘘よ、そんなの…」
 だって、彼等はもっと生きていなければならない人達なのに。膝を抱えて蹲った褥の上。口の中で呟いた言葉が沈黙に埋もれる。
 やっとリンドウが自覚して、センカも少しずつ氷の壁を溶かすようになって、そう、これから…これからだった。きっと、もう少し先で幸せな笑顔が見られた筈だったのに。どうして、何処で間違って、こんな事になってしまったのだろう。――――否、多分、何処も間違っていないのだろう。そして、自分も何処かでそれを確かに理解している。あの時はああするより他無かったのだと。
 絶望的な状況だった。全てが瓦解していて、けれど、たった二人の正気が全てを支えていた。それをあの場で犠牲にしなければならなかったのは――薄情な言い方をすれば――当然であり、必然であったと思う。何より、四体以上のプリティヴィ・マータを相手に出来る人間は限られていた。不運にも、それがリンドウとセンカであったと、それだけの事なのだ。
 今でも、耳に響く彼等の声が胸を裂く。鼓膜の奥にこびりついて離れない、命令だ、と言うリンドウの声と、来たら殺す、と言うセンカの声。聞こえる度に、私にどうしろと言うのだ、と虚空に叫びたくなる自分を必死に押し留めて唇を噛み締めている。
 襲い来る後悔は確実に己の未熟さの所為だ。結局、己が担うべき役目を忘れてしまった自分はあの時、彼等が望む事を何一つしてやれなかった。何とかセンカのもとへ走らずに離脱出来たのも、ソーマがセンカを置いて行くという意志を曲げないでいてくれたからに過ぎない。自分がそう判断したか、或いは、出来たかと言えば、答えは完璧な否だった。
 思い出すのは濛々と埃を巻き上げる瓦礫と斜陽の中で風を纏った冷たい華奢な後姿。彼等が反論の隙を与えない用意の周到さで道を作ってくれたから、今、自分は此処にいる。
 目を閉じれば、恰も明滅する光の如く浮かんでは消える橙色の情景に頭まで抱えて彼女は身を丸めた。
 任務時間を待っている間、エントランスでいつでも聞こえていた控えめな、静かな足音を聞けない。部屋に籠もっていても配給ビールを強請りにくる足音が聞こえない。それが酷く寂しい。今にも扉を開けてビールと引き換えにする配給チケットをひらつかせて言いそうなのに。――――なあ、サクヤ、配給ビール残ってるか?
「……あれ?…」
 そこで、ふと、思い出した。上げた顔が、ゆっくりとまだ飲みきれていない配給ビールが入った冷蔵庫を向く。
 そういえば、少し前だろうか。勝手に冷蔵庫を開けて配給ビールを物色しようとしたリンドウを酷く怒った事があった。いつもは勝手に入室してくるものの、そんな事まではしない癖に、突然、思い出したようにやるものだから、こちらも度肝を抜かれて少し放置してしまったのだ。そう、あれは確か蒼穹の月の二日前の話で、そんな事だからセンカに警戒されるのだ、としこたま怒鳴った覚えがある。
 腰に手を当てて凄んで見せたこちらに対して飄々とした態度を崩さなかった彼だが、もしも、その「いつもとは違う行動」に何かしらの意味があったとしたら。そして、それが彼等が消えてしまった違和感を暴くものであったとしたら?
 ぎしりと褥を軋ませ、すらりと伸びた脚が靴を鳴らして部屋を横切る。見詰めるのは低く唸る冷蔵庫。
 これは単なる推測だ。希望論。妄想に近いかもしれない。その日はたまたまリンドウに魔が差してしまっただけだという可能性も十分ある。けれど、決して零ではない可能性を諦められる程自分も素直に出来てはいない。そうでなければ誰が何年も最も黄泉に近い最前線たるフェンリルに勤めるものか。
 生きる。どんな形でも生き残る。決して諦めない。静かに終わりを待つより、最後まで抗ってみせる。全ては生き残る為に。それが同郷の姉代わり、兄代わりである、雨宮ツバキと雨宮リンドウの教えだ。
 細い指先を引っ掛けて、張り付いた硬い粘着物が剥がれるような音と共に開けた冷蔵庫の中身は記憶に違わず閑散としていて、数本のジュースと水、そして配給ビールが並んでいた。ビールの数は三本。これも記憶と変わらない。どうやら新しいものを入れた訳では無いようだ。とりあえず、全て取り出して検分してみるより無いだろう。
 指が張り付く程よく冷えた缶を一本、二本、取り出して、三本目。――――かしゃん。
「あった」
 乾いた音に、思わず言葉が漏れた。床に落ちたそれを指先で拾い上げる。
 半透明のケースに銀の円盤が煌く、シンプルな記憶ディスク。丁度、缶の底ぴったりの大きさのそれは、だからこそ今日まで幾度と無くそこを開け閉めしていたサクヤに気付かれなかったのだろう。長い間、冷蔵庫に潜んでいた証の如く、ビール缶と同じ温度がサクヤの指先を冷やして行く。
 無論、サクヤ自身がこれを仕込んだ覚えは微塵も無い。だとすれば、犯人は一人しかおらず、それは、つまり。

「ねえ、サクヤさん!」
「きゃあっ!」

 扉が開く音と同時に飛び込んで来た声音に口から心臓が飛び出る程、身を弾ませて、けれど、彼女は咄嗟に手の内にそれを隠した。
 振り向けば、目を瞬かせて佇む茶色い彼を見つける。
「コ、コウタ…びっくりさせないでよ…」
 そもそもノックくらいはしてちょうだい。何時かの誰かとの会話のようだ、と思いながら、いつものように手を腰に当てて言った彼女に、少しばかりばつが悪そうな顔をしたコウタは口を尖らせた。
「だって、何度もノックしたけど、全然返事無いんだもん。あのまま外に居たら俺、じーちゃんになっちゃうよ!」
 大袈裟に声を上げ、自分こそ不本意だったと体現してみせる彼の明るさに、こちらまで自然と笑みが浮かんでくる。
 思えば、彼にも随分と負担をかけてしまっているかもしれない。常の調子の良さとは別に意外な勘の良さを持っている彼の事。自分がうじうじと落ち込んでいるのを、整理がつくまで見守っていてくれたのだろう。他が暗くならないように、一生懸命、深い悲しみとやり場の無い思いを閉じ込めて、自己を保ちながら。本当は、その役目は彼ではなく自分でなければならなかったのに、未熟過ぎて己を支えきれない自分の代わりに彼が皆の背を押していた。それはまだ歳若い彼にとってどんなに重い役目だっただろう。申し訳なくて、有難くて、感謝してもし切れない。
 何時かに、リンドウに対して、大人の威厳は形無しどころか宇宙の藻屑だと思った事を己に当て嵌めて、サクヤは小さく苦笑を漏らした。
 ここ数日、つかず離れず、絶妙な距離を保って見守ってくれていた彼がこうしてこの部屋を訪ねるという事は、きっと、もう、色々な意味で潮時という事だ。丁度、自分も悩み疲れた所で、願っても無い、気合を入れるには良い機会。
「で、どうしたの?新しい任務?」
 手振りでソファを薦めたサクヤに手を上げて辞退を示したコウタは少しだけ言い難そうな面持ちで頬を掻いた。
「えっと、ちょっと違うんだけどさ。……リンドウさんとセンカの事で」
「…リンドウと、センカの?」
 返す言葉は、震えずにいられただろうか。妙に空いてしまった間が不自然にならないように体勢を変えるふりをして明るめの声を出す。それを何気無いように探る目で見てくるコウタは反応如何で先を続けるべきか迷っているようだった。
 こういう時、彼はとても優秀だと思う。センカの事が最たる例だが、彼は人との距離を測りながら近付くのがとても上手い。どうすれば相手と折り合えるか。無神経なようでいて、よく見ていて、配慮する所にはきちんと配慮している。それは簡単な事ではない。自然にそれをこなしてしまう彼だからこそ、こんな損な役が回ってきてしまったのだろうけれど、今はそれに少しだけ感謝している。
 逡巡をして、少し唸り、今度は頭を掻いて、茶色の瞳が、ちらり、一瞥。
「あの、さ。俺、思い出した事があって、それをサクヤさんにも伝えようと思って来たんだ」
 顔を上げ、真っ直ぐに見つめてくる強い双眸に、嗚呼、負けそうだ。
 ディスクを隠し持つ手が震える。
「さっきまで色々考えてて、それで思い出したんだけど、リンドウさんもセンカも、」
 まだ名を聞くだけで身体が震えるこの身に、きっとコウタは気付いたに違いない。それでも言葉を続けたのは――――どうしてもそれを伝えたかったからだ。
 そしてそれはサクヤが自分以外の誰かから聞きたかった言葉でもあった。
 聞こえる、揺ぎ無い声。

「嘘ついた事、無いんだ」

 嗚呼、嗚呼、泣きそうだ。目に力を入れて、微かに滲んだ視界に強い茶色の双眸を見る。
「リンドウさんは隠し事はしてたけど、変な嘘なんかはあんまりつかなかったし。センカも隠し事多くて、肝心な事は何一つ言わなかったけど、でもさ、嘘なんか一回だってついた事無いんだよ」
 つん、と痛む鼻。引き攣る喉から嗚咽を漏らす訳にはいかなくて、彼女は密かに歯を食いしばった。
 そうだ。一度だって彼等は任務で嘘をついた事は無かった。リンドウは帰って来ると言えば必ず帰ってきたし、センカに至っては冗談ですら嘘を言った事が無い。
「だからさ、安心してよ、なんて無責任な事言えないけど、信じて良いと思うんだ」
 言ってから、彼は、それに、と片目を瞑って不敵な笑みを浮かべて見せた。
「二人が戻って来た時、俺、あの時みたいなちょー怖いセンカに怒られたくないからね!」
 ぽかん、と口が開いてしまったのは、致し方の無い事だったと思う。涙も嗚咽も痛んだ胸すら何処かへ吹き飛ばして、丸く見開いた目を瞬き――――サクヤは、ぷっ、と噴出した。
 堪えきれない笑いが久しく使っていなかった横隔膜を痛い程痙攣させて、目尻から先程とは違う涙が溢れ出す。
「…ふふっ、そう…そうね。あれは怖かったわね!」
「でしょー?あんな怖いセンカに怒られるなんて、もうゴメンだよー!」
 あれは確かに怖かった。空気がとても冷えていて、本気で苛つき、憤っている気配が刃となって身を切り裂く。あんな思いをするのはもう御免だ。こんな腑抜けた面子を見たら、怒り出すのは目に見えているというのに、今まで自分は何をうじうじ塞ぎ込んで迷惑をかけていたのだろう。きっと今の第一部隊の顔を見たら彼はまた、此処で犬死するのがお前の役目か、と冷たく言うに違いない。今度は凶悪な弾丸――毎度、あれはどうやってモジュールを組み合わせているのだろうと首を傾げる――を吐き出す銃口まで向けてくるかもしれない。
 そんな事をされるのは惨め担当のリンドウだけで十分で、自分達は謹んで遠慮したいものである、と常々、言っていたというのに、嗚呼、そんな事まで忘れてしまっていたなんて。
「そうね。そうだわ。帰って来るって、言ったもの」
 嘘は言わない。それは、一条の光に似ている。
 染み渡る己の言葉が、初めて明瞭に聞こえた気がして思わず浮かべた苦笑をコウタに向ければ、彼はやはり力強く頷いてくれた。部屋に入ってきた頃よりも顔の緊張が解けているのは錯覚ではないだろう。それがまた申し訳なくて、深く息を吸う。
 ソーマは随分と立ち直っているように見えた。コウタも、彼なりに見つけた答えを知らせに来てくれたから大丈夫だろう。あとは、一人。一番苦しんでいるだろう人がいる。
 最後に別れた時、自分以上に不安定だった彼女を思い出して、つきりと胸が痛んだ。
「ねえ、コウタ。アリサの傍に居てくれる?歳も近いし…私だと、きっとまだ逆効果だと思うから」
「うん。わかった」
 じゃあ、行ってくる!二つ返事で踵を返したコウタが来た時と同じくらい騒がしく飛び出して行くのを見送って、隠していたディスクに目を落とす。
 これが起死回生の鍵になるのか否か、全く見当もつかないが、自分が抱く違和感の答えを導き出してくれる唯一の物である事は確かだ。それが、自分自身を危険の渦中に落とす事になるかもしれない。それでもこれを捨てようと思わないのは、一重に自分の自己満足の為だ。
 あの日、出来なかった沢山の事。言えなかった事も沢山ある。瓦礫の向こうの人に、そして、獣を引き受けて立ったあの銀色に―――――ごめんなさい。ありがとう。気をつけて。待ってる。また後で。
 彼女は少し行儀悪く鼻をすすりながら、滲んだ視界を腕で拭った。
「その前に、このみっともない顔をどうにかしないとね」
 こんな腑抜けた顔を見られたら、リンドウに大笑いされた挙句、本当にセンカにお説教されてしまう。何より、そんな気合の入らない生半可な気持ちでこの置き土産に挑みたくは無い。
 冷水で顔を洗うべく浴室へ向かう道すがら、ツバキとリンドウと自分の三人が写った大事な写真の横に手にしたそれを置けば、銀の円盤が殊更、綺麗な虹色に輝いて、サクヤは口元を穏やかに緩めた。
 きっと四人で写る日が来る。いつの日か。いつの日か。それまで諦めない。


「ぎゃう」
「?どうした?」
 尻尾を振って虚空を見た仔につられ、彼は足を止めた。
 見上げ、耳を澄まして少し。何も聞こえない。あるのは微かな大気の唸り。
「…風、か」
 早く行こう、と囁いた彼の後を高く啼いて従った仔の目に、緑の世界で光を放つ銀の燐光が煌いていた。



サクヤさんも立ち直ろうぜ、の回。
イベント的にちょっとごっちゃになっている部分がありますが、展開上、この辺りでこうしておかないと具合が悪いのでこうなりました。更に、新型ポジションが何故かコウタさん。…何せ、新型が支部にいませんからね…代わりを出来るのはこの人くらいです。一生懸命正気を保っているコウタさんに拍手!
原作でもここはうじうじサクヤさんがちょっと立ち直る場面ですが、もっと強い感じにしたかったのでこんな事に。当家のサクヤさんは原作とは違い、リンドウ隊長を兄貴として見ているので男前度が違います(何)兄貴とその嫁(!)の為なら何でもするぜ!な心意気。仇を討つ気満々。ですが、まだアリサさんとは向き合う勇気が無いようです。
コウタさんもそれは分かるので、立ち直った事を確認してからアリサさんのもとへ全力疾走。

で、お気づきのように、ついに次であの二人と一匹が舞台に帰ってきます。

2011/08/11