mono   image
 Back

 眠りから覚めるその時には、もう。

それは葬送歌のように

 もう一週間になる。――――緩やかに目を閉じて褥に横たわる秀麗な顔を前に、彼は密かに息をついた。心配げに喉を鳴らした幼子を一瞥し、食料を調達すべく、小さな籠を手に薄暗い部屋を後にする。
 ぱたり。少々立て付けの悪い扉を閉めて、また溜め息を一つ。緑の木々の合間から降り注ぐ柔らかな陽光に晒されて、白磁の肌に少しの影を落とす彼…センカの顔色はレンギョウが心配するくらいには芳しくなかった。揺れる髪からふわりと散る銀の燐光に縁取られた頬は見方によっては青褪めてすら見えたかもしれない。原因は言うまでも無く、あの日、望みを叶えてやり、けれど、未だに褥に臥したまま目覚める気配の無い男の所為だ。
 もう一週間になる。瀕死の重傷を負い、それでも尚、生きたいと叫んだ雨宮リンドウを助けてから。
 助かる見込みは全く無かったと言って良い。それでもまだ命を繋いでいるのは体内に投与されたP53偏食因子と施された手当ての方法が人間に対するそれとかけ離れていたからだ。
 センカにとってもそれは紛れも無く分の悪い賭けだった。人間であるリンドウに――――レンギョウと同じ方法を用いるなど。
 アラガミであるレンギョウにならまだしも、人間に対してなど正気の沙汰ではない。更にはそこから「力」を使い、内側から傷を治そうというのだから、一つ間違えば彼を彼ではないモノに変えてしまう危険も伴っていた。無論、センカとて幼子にそれを施した事が無ければそれをしようとは思わなかっただろう。そうでなくとも、人間には人間である事を保つ為に人間の方法で手当てをしなければならないと固く信じている。
 だが、あの時の状況がそれを許さなかった。
 思い出すだけで眉間に皺が寄る、血の香り。抉られた腹から見え隠れする内臓の蠢き。広がる赤い池。彼の口から湧き出す真紅は恰も出の悪い噴水のようだったと思う。――――助からない。一目見て抱いた感想は直感というよりも確信だった。自然の理通りにこのまま終わらせてやろうと思いながら、けれど、あの黒いヴァジュラ種を追い払ってしまったのは、湧き上がった言い知れない感情に突き動かされたからかもしれない。それが憤りだったのか、或いは、悲しみだったのか理解する事は難しいが、兎に角、あのままリンドウを死の淵から突き落とす真似だけは出来なかった。
 再度、溜め息を吐き、歩き出した足の下で枯れ落ちた葉がかしょりと割れる。見回す、ここ数日で見慣れた辺りの風景。色は、廃れてしまったこの世界では珍しい緑ばかりだ。所々に赤や薄桃、紫、黄色、白の彩りを添える花々が暖かく眩しい光の中、愛らしく揺れている。
 センカが以前、特務の合間に見つけた温室。それが、今の彼等の住処である。
 一通り、リンドウの手当てを済ませたは良いものの、そのまま救助を待ち、生還を喜ぶ声が飛び交うアナグラに帰れるかと言えば、答えは明らかに否だった。センカはまだしも、殺す筈だったリンドウが生きて帰る事をシックザールが許す筈が無い。どうするべきか。間違っても意識を失ったままのリンドウをフェンリルに渡す訳にはいかない。
 考えた挙句に思い至ったのが以前、見つけたこの温室の小屋だ。管理の手を離れ、奔放に生い茂る植物に囲まれた此処は場所を知られていない事もあり、身を隠すには都合が良い。広い区画には最早、野生種に成り果てた果樹がたわわに実を実らせ、加えて、少し直せば発電設備も浄水設備も働いたものだから生活にも困らなかった。
 まさか、自分が水道工事まがいの事をする羽目になるとは思わなかったが、暇潰し程度で習得した知識も役に立つのだな、と美しく水を噴き上げる噴水の前を横切りながら考える。まあ、でも、本職の工事屋ではないから、この水を浪費しているとしか考えられない噴水を止める方法など、これが噴出してこの方、全く分からないのだけれど。これが初めて噴出した時は珍しくレンギョウと二人で驚き、止めようとして、一緒にずぶ濡れになってしまったものだ。
 硝子張りの天井から降り注ぐ太陽を煌きで受け止める水場を過ぎて少し。辿り着いた果樹園――其処はもう果樹園というよりも果樹のある林か森のようだ――の平穏さは相変わらず外界の殺伐した雰囲気からは想像もつかないと思いつつ、視線で物色しながら食べ頃の物を選ぶ。苺に林檎、オレンジ、ブルーベリー。木苺は、まだ少し酸っぱそうだ。見回りを兼ねた行きの道で目星をつけ、帰りの道で手際良く籠に摘んで行くのはもう慣れたもの。籠の半分程まで詰めて、センカは来た道を戻り始めた。
 リンドウを寝かせているのは園内で唯一の褥がある部屋だ。初日こそ掃除で大変だったものの、一度、綺麗にしてしまえばアナグラの部屋と変わらない。雨風を凌げるだけでも儲けものの状況の中、少々草臥れているとはいえ、暖かな褥があるのは幸福な事だろう。しかし、その幸福にかまけている訳でも無いだろうに、未だ目を覚まさないリンドウは真にセンカの気を落とさせていた。
 もう、一週間。一度もあの麹塵を見ていない。あの日、最初に含んだ血を飲ませる瞬間の、あの微笑が最後だ。
 今思えば、あんな瞬間ですら身体に響く声でこの胸を乱す言葉を吐いて見せたあの男の想いにはある種、頭が下がる。――――冷たいドアノブを握り、思い出す血の匂い。
「……そっくりだなんて、当たり前でしょう…同じ生き物なんですから」
 噛んだ下唇が痛い。籠を持つ手に力を込め、ゆっくりと扉を開いたセンカは、部屋に爪先を滑り込ませるなり響いてきた幼子の忙しない吼え声に顔を上げた。
「…レンギョウ?どうした、何かあったのか?」
「ぎゃあああうう!がぁああ!!」
 聞こえる、穏やかなあの仔には珍しい、喉の奥まで使った咆哮。部屋の造りの所為でよく伺えないが、異常な事だけは分かる。よもや、リンドウの傷が開いたなどという事ではあるまいに。そうでなければ、此処には寄り付こうとしない筈の、他のアラガミが襲撃したのか。否。それなら壁なり何なり壊されて酷い事になっている筈だ。
 咆哮の合間、微かに人の声を聞いた気がして、センカは入り口で止まっていた足を駆けさせた。
「先輩…!?」
 小ぢんまりとした部屋の中で、褥に飛びついて泣きそうな声を上げる幼子の傍らに右腕を抱えた男が蹲っている。
「…ぐ、ぅぉ……がぁあああ…っ」
 鼓膜に触れる、確かに焦がれた筈の男の声。

 薄暗い、けれど、ものを見るには不自由の無いその場所で、彼は「それ」を見た。

 ばらばらと、手から滑り落ちた籠から音を立てて色とりどりの果物が逃げて行く。
「…あ…ぁ…ああ…」
 声が出ない。言葉が出ない。思考が止まっている。焼け付くような光景を、ただ映す事しか出来ない白藍が痛い程見開き、ただ「それ」を眺める。
 少し、黒くなっていたのには気付いていた。腕輪が壊れ、奪われてしまった後の後遺症、或いは、神機使いが偏食因子を投与されたその日から負う最悪の可能性について知らない訳では無かったが、まさか、こんなに早く。そんな馬鹿な。
 苦しみに固く握られた、人のものとは言い難い、手。黒く、鋭い爪。指先。最早、右腕から肩までを覆い、着せていたフェンリルの外套を破っている硬質な漆黒の表皮。戒めるように纏わりつく鎖の鳴る音。暗い眼窩の如く手の甲に影を落とす核の窪み。
 その症状が示すものを、センカは知っていた。

「…侵、喰…」

 属に侵喰と呼ばれるそれはつまりは投与された偏食因子による人間のアラガミ化だ。
 厳密に言えば、偏食因子を投与された神機使い達は既にアラガミ化していると言っても良い。それを腕輪で制御しているのだ。リンクエイドとは違う意味での命綱。それがあのちっぽけな腕輪だ。腕輪の制御を無くした因子は主の身体を侵喰し、造り変え、或いはそのまま捕喰し始める。そうして死に至れなかった個体は人間であった頃の全てを忘れて理性を無くし、ただの獣に成り果てた挙句に、かつて仲間であった者達に屠られてオラクル細胞に還っていくのだ。哀れなそれらを、センカも幾度か屠った事があった。その現象が、今、目の前のこの人に起こっている。
 嘘だ嘘だ嘘だ。何故、どうして、こんなに早く。彼の体内に入れた自分の血で侵喰を抑えていた筈なのに。どうして。考えられるのは、一つしかない。――――血を与えたその時に、何らかの原因で彼の中の偏食因子と己のそれが変化を起こし、結果、彼を人ならざるものへ変わる時間を早めてしまった、と。原因が何かなど分からない。だが、目の前で起こっている変化は紛れもない事実だ。因子は己の支配から逃れ、彼の身体を造り変えている。どうして、どうして。本当なら、全快した後、センカの持つ因子は体外に出され、彼は人間のままでいられる筈だったのに。
 他でもない、人間のままでいさせたいと思ったセンカが、リンドウをアラガミにしてしまった。
「……っ、ひ……ぁ…っ」
 喉が引き攣り、息が詰まる。怖い。目を覚ました彼にどんな目で見られるだろう。きっと罵られ、憎まれる。だって、雨宮リンドウは人間で、だからこそ、雨宮リンドウなのだ。人間でない雨宮リンドウは雨宮リンドウではない。人間の、フェンリル極東支部第一部隊隊長が、雨宮リンドウだ。アラガミの雨宮リンドウは雨宮リンドウじゃない。人間のリンドウは、リンドウは。
 それを理解した瞬間、震え出す身体。指先が戦慄き、世界が回る。遠く聞こえる幼子の声。ぎゃあぎゃあ啼く声が苦しみに呻く彼の意識を呼び戻して、ゆるりとこちらを向いた漆黒の間から薄らと見えたのは――――綺麗な麹塵の色。
「…センカ…?」

 記憶と違わぬ声音で呼ばれた刹那、銀色は床に落ちた林檎を蹴り飛ばして薄暗い部屋を飛び出した。




やっと帰ってきました、新型&毛玉。リンドウさんを助けた新型さんは温室に逃げ込みましたとさ、というオチです(…オチ?)リンドウさん殉職の回で途中から毛玉が静かだったのはお母さんが迎えに来たからだった訳ですよ。そして、リンドウさんはあの瞬間最後の最後まで新型さん本人が迎えに来たんだと思わなかった旦那志望者にしてはあるまじき大間違いを犯していたという事実が判明。
しかし、そんなことよりも、やっとこ温室に帰って来れたのが安心事項です。その為の52話だったんですよ、ええ。毛玉の救出(41話)もリンドウさん救出の伏線だったりしました よ 。やっと回収です。まあ、バレバレだと分かってますがね!
色々あとがきを書くには今回は中途半端なので…あと二、三話後くらいに回します(笑)

2011/08/18