君を探している。出会った時からずっと、ずっと、ずっと。夢の中でさえ。
何処にいますか、愛しい人
痛い、苦しい、辛い、気持悪い。何度、言葉を繰り返しただろう。体内を火掻き棒でかき混ぜられるような感覚に喉を潰す己の声で目が覚めた。身体の全てをもって搾り出したその声は、ぐおおお、と、まるで獣の咆哮のようだったと思う。否。それは確かに獣の声だったのだろう。耳元で聞こえる聞き覚えのある吼え声に導かれ、漸く瞼を上げられた視界の中で、夢にまで見た愛しい銀色があり得ない生物でも見るように目を見開いてこちらを見ていた。
唇は、動くだろうか。まだ視界が霞んで焦点が合わない。乾いた唇を潤す考えも浮かばず、ただ彼の名前を紡ぐ為だけに口を開く。
「…センカ?」
酷く疲れた、掠れた声音にびくりと震える細い身体。彼が、ひゅ、と息を詰まらせた音が聞こえた。朦朧とした頭でもう一度、呼びかけようとする前にその姿が凍りついた表情のまま一歩後ずさり、風よりも速く踵を返して遠退いて行く。何かを蹴り飛ばしでもしたのか、鈍い音で飛んだ赤い何かが壁にぶつかって虚しく転がる情景に続く、鉄板に体当たりをするような音。部屋を出て行ったのだろう、と気付いたのは二度、呼吸をし、緩く瞬いてからだ。動かない身体にふつふつと憤りが湧き上がる。
嗚呼、行かせては駄目だ。追いかけないと。そう思いながら、未だ、ぼやける頭を軽く振って身体に力を入れるべく息を詰め、何とか白いシーツに手をついて身を起こしたリンドウは、しかし、己の視界に映った妙なものに動きを止めた。
「何だ、これ」
色は、黒だ。己の髪と同じ、黒。それは人体標本の如く筋繊維を晒して蠢く腕の所々を艶やかにすら見える硬い表皮で覆い、まるで人の手のように伸びている。だが、無論、人間の手にこのような色などあろう筈も無い。何より、人間の柔らかい指とは程遠い指先の、竜の如く鋭い爪と抉られたように窪んだ手の甲が、それが人間の手である事を否定していた。
これは、何だ。見慣れた己の手と並んでシーツに沈む黒い手。絡まり揺れる、どこから伸びているのかも分からない、重々しい鎖。見覚えが無い。思いながら、けれど、己に向かって伸びているそれが辿り着く先は予想がついていて、暫く、それを眺めていたリンドウは呆然と呟いた。
何時の間にか明瞭になっていた視界の中、試しに動かそうと意識してみた己の右手と黒い手の動きが重なる。これは、つまり。
「…これは、俺の腕、か…?」
黒い表皮が覆う手は明らかに己の物だ。褥に腰掛け、こつこつと叩いてみれば、確かに感覚がある。見るに、どうやら肩まで覆っているらしい。視界の端に微かに見える肩の方は、これよりももう少し派手になっているようだが。
「まあ、予想の範疇内、だな」
侵喰によるアラガミ化だろう。腕輪が外れてしまったのだから、こうなる事は予測済みだった。ただ、己がこうして再度、人間の意識を持って覚醒する事は想定外だったといえる。あのまま、意識まで死んでしまうと思っていたから、これは喜ばしいのか否か、判断に迷う所だ。
見回す己の身体はそれ以外には別段変わっているようにも見えなかった。強いて言うならばインナーが脱がされ、外套を直接、着せられている事くらいか。晒された胸部から腹部にかけて、丁寧に清潔な包帯が巻いてある。身体が埃に塗れている感覚も無いから、毎日、拭いてくれていたのだろう。身を起こしたシーツもかび臭い気配は微塵も無い。改めて見る薄暗い部屋の中は吸い込む空気から綺麗に保たれていて、きっと細心の注意を払って看病してくれていたのだろう、と予想がつく。
ぽすり。膝に少しの重みを感じて視線を落とせば、尻尾と耳を垂れさせた幼子が前足をかけて小さく啼いていた。夢ではない、現実の重さ。ゆっくりと左手を伸ばして触れた毛並みは酷く手触りが良くて、掌に滲む温度は己のそれよりも暖かかった。
「…心配かけて悪かったな。お前が此処にいるって事は、さっきのアレはセンカで間違いないんだろう?」
「きゅ……がう」
笑って言った自分に少し言い淀んで返事を返したのは、飛び出していった彼をどう見ているのか心配しているからだろう。
深く考えるまでもなく、これ程までに落ち着いた様相のレンギョウが此処にいるという事はこの仔が絶対の信頼を置くセンカが此処にいるという事であり、且つ、センカが此処にいるという事は廃教会で見た銀色の羽根のアラガミ――果たしてそれがアラガミと言っていいものであったかは分からないが――は彼だという事だ。そうでなければ、何故、自分は此処にいるのか。
あの後、救助に来て自分を見つけてくれたなら、フェンリルに連れ帰っている筈で、けれど、この部屋がフェンリルの一室だとは考え難い。少なくとも自分はこんな部屋は見た事が無い。それはつまり、連れて帰る事が出来なかったからに他なく、こうして身を隠すのはシックザールの思惑を知っている彼なら打つだろう手の一つだと予想がつく。そもそも、暗殺されかけた人間を再度、悪魔の牙の前に置く愚行を彼は犯さないだろう。
意識が落ちる寸前に見た愛しい人。よく知る、少し大きめのフェンリルの制服を着て、華奢な身体と比べ矢鱈と大きく見える神機を携え、銀色の燐光を散らしながら瞬く白藍の色は忘れよう筈も無い。何より、虫の息で喚いた自分に吐息が触れる程近く身を寄せたその人がはためかせた銀の羽根。あれ程に儚く美しい光をどうやって忘れられようか。――――あれはセンカだ。本気で惚れた相手を見間違える程自分は落ちていない。
つまり、彼は人間のふりをしてフェンリルにいた事になる。しかも、神機使いとして。何がどうしてそうなったのかは本人に訊かねば分からないが、彼の後見であるサカキは知っていたに違いない。彼に特務を担わせていたシックザールも知っていただろう。知らなかったのは、それ以外の全員か。恐らく、ツバキも知らない筈だ。
思い、ふむ、と顎を擦る。
何にしても、この考察はただの推測でしかない。確信があるとはいえ、実際に彼の口から真実を聞かなくては想像の域を出ずに終わる。
目覚める瞬間を待っていてくれなかった訳でもないだろうに。己の正体を隠していたらしいセンカの心情を理解しながらも、少しばかり悲しい気分になりながら、リンドウはもう一度、縋る幼子を撫でて立ち上がった。しっかりと地を踏んだ足に、嬉しそうに喉を鳴らして獣がすりりと頭を擦る。
「センカの居場所は分かるか?出来れば案内して欲しいんだが」
話がしたいんだ。そう言えば、明るい返事一つで尻尾を撓らせたレンギョウが足取りも軽く光が差し込む戸口へと進み始めた。歩調が緩めなのは未だ、傷の塞がりきらない自分を気遣っての事だろう。本当に良く出来た幼子である。
「しっかし、盛大にぶちまけたな…拾うのが大変そうだ」
見回すまで気付かなかったが、部屋は転がった果物だらけだ。ばら撒かれた苺などは哀れな姿になってしまっているものもある。一歩、歩を進めて、うっかり足の下でぶちりと音を立てたブルーベリーには後で謝っておくしかない。辛うじて無事なのは固い表皮のオレンジだろうか。
新たな犠牲を出さないように慎重に歩み、漸く中途半端に開いたままの扉に近付いたリンドウはふと、そこに転がる赤い林檎の実に視線を落とした。
少し割れている赤色の隙間から、薄黄色の美味しそうな果肉が覗いている。――――彼が飛び出す時に響いた音はこれだろう。思い切り蹴って、鋼鉄の扉にぶつかったそれが割れたのだ。
割れた林檎には悪いが、踏んで転ぶなどという笑えない事態にならなくて本当に良かったと思いながら扉を押し開けたリンドウは次の瞬間、広がった光景に閉口した。
緑。それが第一印象だ。
空まで覆う緑色に呼吸が止まる。どこからか吹き込む風に、さやや、と囁く葉ずれの音。それが、波の如く頬を撫で、髪を揺らして過ぎて行く。
こんな場所があると、誰が想像するだろう。アーコロジーでも此処まで素晴らしい景観は無い。差し込む陽光に透ける緑の葉、腕を伸ばす木々、咲き誇る花の鮮やかな色。土の匂い。瑞々しい空気の味。鬱蒼と生い茂った木々の合間に見える輝く空。ささくれ立った心まで宥め、癒すようなそれは現代の人間がデータベースでしか知らない、完全な自然の姿だ。
「こ、りゃ…凄いな…」
この一言以外に持てる言葉など在ろうか。語彙がいくらあろうと、きっと一言紡げれば上出来だ。どうせ吐けたとして、凄い、か、綺麗、のどちらかだろう。
改めて感嘆しながら見回し、天を見たリンドウは見上げたそこに見慣れない骨組みを見つけて動きを止めた。――――天井、だろうか。随分、高い。僅かに空が割れた部分があるから、恐らく硝子でも嵌っているのかもしれない。
「成る程。温室か」
何処で見つけたのだか、彼はこの世界の何処かにある奇跡のような温室に自分を運び入れたらしい。植物が好きだという彼には似合いの場所だが、だからこそ、此処に運ぶのは躊躇っただろうに。それでもこの身を案じて、彼が最も大切にしたいと思っているに違いない場所へ運んでくれた事が――不謹慎だが――嬉しくて堪らない。込み上げるこそばゆさに顔が緩む。
一通り、歓喜に震えた後に舗装された道の先を見やれば、尻尾を立てたレンギョウが待っていて、彼は、悪い、と笑って後を追った。
そうだ。こんな事をしている場合ではない。彼を捕まえなければ。これではまるで隠れ鬼だ、と何処かで思う。
センカが逃げてしまったのは以前、支部長室で会った後に見せた動揺とほぼ同じ理由だろう。アラガミである自分が人間だと嘘をついて仲間のふりをしていた、と。それを責められ、憎まれると思っている。
不意に思い出すのは初めて彼と言い合いをした時の言葉だ。――――違う個体を理解出来る訳がないだろう。そう言った。酷く、酷く、辛そうに。あの意味が、今なら理解出来る。レンギョウ助けた時に、自分と同じかと思ったと言った意味も、サクヤとの任務で、アラガミと自分の違い分からないと言った意味も。全てはきっと同じ所へ帰結していた。
つまりは、アラガミと人間が互いの感覚を理解出来るわけが無いだろう、と。そういう意味だったのだ。そもそも種族が違うのだから、根本的な考え方が違う。常識など言わずもがな。何処までアラガミの意識で動いていたかは分からないが、フェンリルの中で生きて行くのは大変だっただろうに、よく耐えていたものである。己の存在自体を疑問に思った事もあっただろう。同種を求めた事もあったかもしれない。だが、そうしてレンギョウを助けた時、己とは違うのだと理解した彼はある種、絶望したに違いない。
アラガミの自分が人間だと偽り、アラガミを屠っていて、けれど、完全に人間に溶け込む事など出来はしない。その矛盾がどれ程彼を苦しめただろう。完全な人間である、否、完全な人間であった自分には想像もつかない。
かさり。足の下で枯れ落ちた葉が音を立てる。辿り着いた、開けた場所。目の前に広がるのは惜しげもなく降り注ぐ白い光に煌く水を噴き上げる噴水とそれを彩る美しい緑。そして、俯き加減で静かに佇む、
「漸く見つけた」
恋焦がれて止まない、銀色。
華奢な身体に銀の燐光がふわりと舞う様が何より美しいと思う。その見た目に反して腕っ節だけは有り得ないくらい強い彼の中身は達観しているように見えて酷く幼くて、意地を張る癖に触れればすぐさま硝子のように壊れ、崩れてしまう。とてもとても弱くて、それまでもが堪らなく愛しい人。抱き締めたくて、逃げられて、服の裾だって掴めない。いつだって誰にも触れられないように己の殻に隠れて、子兎のように警戒している。その様も可愛くてどうしようもないくらいだけど、嗚呼、でも、そろそろ潮時じゃないか?だって、真実が分かっても、この想いは全く冷めてくれないどころか、熱を上げているんだ。
一歩、近付いて、眩しさに目を細める。
そろそろ、かくれんぼもお仕舞いにしようか。なあ、センカ?
ゲーム本編では意外と冷静な隊長にびっくりでした。
まあ、腕輪が外れた場合の副作用的なものに関しては知識として持っているでしょうし、不思議な事ではありません。なので、当家の隊長も冷静です。わーわーしてるのは新型さんだけという、いつもと反対の状況です。
補足をしておくと、原作と違い、リンドウさんを助けたのは新型という捏造設定上、手にコアは無い状態ですが、そこは不思議生物新型さんの不思議パワーで乗り切っている、というご都合主義で参りますよ!傷が治りきってないだけで元気一杯だ!(ぇええ)対して、もう逃げられない新型さんは色々、白状するしかないのでガタガタブルブルです。察しのいい毛玉は躾の良さが災いして傍観ポジション。「おかーさん、おとーさんとなかよくして!」みたいな(…)
…しかし、目覚めて早々、嫁に置いていかれ、毛玉と会話する隊長はまさに家族に干されてる家長みたいな…(ぶち壊しだよ!)
2011/08/22 |