mono   image
 Back

「僕を殺しにいらっしゃったのですか」
 それは断定だった。

不在の二人

 貴方を思う程、自分が浅ましく、醜くて仕方が無い、と、そう思っている事など、彼は知りもしないのだろう。
 この世に欠片でも存在した瞬間から異質である自分が他者に受け入れられるなどと驕った事は少しも無いと思っている。けれど、こうして現実を突きつけられた時、どうしても己の内側が荒れ狂うのは、やはりどこかで驕っていたからなのかもしれない。
 己が吐いた言葉に唇を引き結び、振り向く事も出来ないまま、近付いてくる男の気配を背に感じるセンカは少しだけ拳に力を込めた。疑問系に出来なかった言葉に小さく笑いを返す彼の声で距離を測る。もう、手の届く近さ。
「どうしてそう思う?」
「それ以外に無いでしょう」
 どうしてそんな愚問を投げるのだろう。この身が人間ではないと、分かっている癖に。今にもその変容した右手を振り上げてこの薄い胸を貫くに違いないのだ。そうして、この浅ましく醜い身体の血も肉も彼の糧となり、やがて黒い霞となって世界に融けて行く。自然の理のように。

「だって、僕はアラガミですから」

 言葉と共に、広がる銀光。細い背に輝く眩い光の羽。鳥にも似ず、蝶にも似ない異質な光。人間ではない、確固たる証である、それ。
「人間はアラガミを殺すでしょう」
 この声は、彼にどう聞こえているだろうか。人の言葉として聞こえているだろうか。或いは、獣の咆哮のように聞こえているだろうか。心ばかりが人のような己の、嗚呼、この身体こそが人からかけ離れている。それをこんなに疎ましく思った事があっただろうか。疎ましい、と思うその感情自体、抱いた事すら無かったかもしれない。
 例えば、この身が人であったなら。思えど、此処にある「センカ」という生き物は事実、アラガミでしかない。
 早く、早く、世界の終わりが来ればいいのに。胸中で小さく囁く銀色の耳朶を、響きの良い声音が穏やかに撫でる。
「こんな綺麗なアラガミは見た事が無いな。何より、俺には愛するセンカにしか見えない」
「っ、馬鹿ですか、貴方は!!」
 この期に及んで何を愚かな事を言っているのだろう、この男は。自分が置かれた状況を全く理解していない!
 瞬時に湧き上がった激情のまま弾かれたように振り向けば、目を焼く眩しい光の中、穏やかに笑う彼が酷く優しげにこちらを見つめていて、瞬間、息が詰まる。――――何故、こんな目をしているのだろう。どうして、殺気が欠片も無いのだろう。理解出来ない。彼はいつだって理解出来ない。理性が飲み込まれていく。我慢が出来ない。この人に関わると、いつもこうだ。けれど、嗚呼、どうして、嫌ではないのだろう。理解出来ない。だって、「コレ」は物なのだ。
 さやさやと木々が宥める声も聞かず、銀の羽を震わせたセンカの絞った喉が高く吼える。もう人間らしく振舞う余裕も無かった。
「『コレ』はアラガミだ!貴方とは違う!フェンリルにいる誰も『コレ』と同じじゃない!サカキもシックザールも、『ソーマ』だって!!彼等は人間で、『コレ』はアラガミで…!」
「ああ、辛かったよな。ごめんな、気付いてやれないで」
 錯乱したように叫ぶセンカは仲間がじゃれあう光景を見ながら、きっと傷付いていたに違いない。サクヤが話す度、コウタが話す度、ソーマが話す度、アリサが話す度、自分が彼等と同じものでは無い事を再認識しながら、見えない傷口が流す血に気付かないふりをしていたのだ。そして、それは保護者であるサカキとの時間ですらそうだったのだろう。思い思いに過ごす彼等の中で、自分だけが根本から違う。どんなに努力しても覆らない事実の中で流れて行く時間。それは計り知れない孤独を伴っている。
 泣きそうなくらい歪んだ顔があまりに儚くて、一歩、距離を詰めたリンドウに彼は首を振って光を撒いた。
「違う!!『コレ』は人間じゃないのに…なのに、貴方に何が判る!?違う個体を理解する事なんて出来ない!!『コレ』は人間じゃない!人間なんか理解出来ない!!お前が分かる訳が無い!!」

「当たり前だろ」

 硬い響き。大気を裂く一矢の如く空間を割った沈黙が二人の間に風を生む。
「当たり前だろ。俺はお前じゃない」
 任務中のような、厳しい声音だったと思う。身体を縫い止めるそれは酷く耳に響いて、センカの喉を詰まらせた。
 瞬きすら忘れた白藍を捉えるのは、鋭く細められた麹塵の双眸。静かに凪いだその瞳が真っ直ぐに銀色を捉え、放さない。
「普通に考えて、他人を完璧に理解する事なんか不可能だろう。長い付き合いの奴だって考えを違える事がある。全員が全員、共通思考で理解しあうなんてのは気味の悪い妄想だ。狂ってる。少なくとも、俺はそんなトチ狂った頭は持っちゃいない。人間とアラガミだから理解出来ない?そんなのは言い訳で、怖がってるお前がただ逃げているだけだろ!」
 自分がアラガミだという変えられない事実が、彼を硬い殻に閉じ込めている。自分は物だという妄信が、彼の意識を生き物である感覚から遠ざけている。けれど、彼の心は確かに人の感覚を持っていて、そして、彼自身はアラガミであろうと、何であろうと、この世界に生きる生き物である事は間違いなく、彼は彼としてそこに存在している。それは、嘆くべき事では決して無い。意思を持って生まれ、こうして、言葉を交わせるのなら、人はどこまでも繋がって行く事が出来る。己の思いを伝え、時には衝突しながら、ああではなかった、こうではなかった、こうかもしれない、と理解する努力をするのが人だ。だから、人は絶えず言葉を交わす。今、こうして伝えているように、己の想いを誰かに理解してもらう為に。
「理解出来なくても、理解しようとする事は出来る」
 同じ種族ですら殺し合うこの世界で、種族の違い云々が相互不理解の理由にはならない。
「お前は人だ。物じゃない」
 物ではなく、人として、生きている。その感覚はとても曖昧で、自分ですら身体の半分が侵喰されてしまっているけれど、確かに、自分達は生きていて、言葉を交わす事が出来る。それだけで十分な理由になると思うのは、少々、傲慢過ぎるだろうか。
 言葉を切った男に、呆然と身体の力を抜いた銀色がゆっくりと白い両手で己の顔を覆って隠した。小さな小さな姿が更に小さく消え失せてしまいそうで、リンドウの足がまた数歩、進む。もう触れられる。抱き締められる距離までは、あと一歩。
 不意に洩らされたか細い声がさざめきを縫って漸く男へ辿り着く。
「でも、だって…『コレ』は貴方を殺してしまった…」
 人間の貴方を、殺してしまった。ここまで近付いても掠れて消えてしまう声音で呟き、顔を伏せてしまったセンカの肩に触れようと右手を伸ばして、視界に映った黒色に男は動きを止めた。鋭い爪が細い肩を突く寸前で止まっている。
「……俺は生きてるだろう」
 それは己に向けた言葉だったかもしれない。あれだけの傷を負いながら、アラガミ化してでも生き残った自分。確かに、最早、人間ではないかもしれない。だが、これを選んだのは自分だ。あの時、残されていた選択肢の中で、自分は最も相応しいものを選んだと思っている。
 震える肩に触れられないまま、男は黒い手を握って眺めた。
 確かに生きている。五体満足といえば、五体満足だ。それなのに、こんなにも心に雨が降っているのは、彼が声も涙も無く泣いているからだろう。只管に、殺してしまった、殺してしまった、と、人間の雨宮リンドウを惜しんで嘆いてくれる。見ているだけで苦しくて、哀しくて、虚しくて、これ以上無い程、嬉しい。なんて不謹慎で、浅ましい感情だろう。どんな形でも良い、彼の中を己で一杯にしたい自分がいる。その欲望は際限が無い。こんなに汚い感情を持って生き残っている自分を、零れる声音すら美しい彼は知っているのだろうか?
 贖罪のようにこの漆黒の手での終焉を望む銀色が、抱き潰してしまいたい程愛しくて、リンドウは自嘲の笑みを刷いた。いつかのアリサのように、ごめんなさい、ごめんなさい、と囁く声がする。
 嗚呼、それなら、それ程己を惜しんでくれるのなら。
「なあ、それなら、お前が肯定してくれ」
 ぴたり。止まる囁き。ゆるりと俯けていた顔が上がり、漸く見える、青褪めても綺麗な面。
 触れたいと疼く右手を押さえ、言葉を紡ぐ。
「アラガミだろうが、人間だろうが、お前はお前だ。俺の愛して止まない烏羽センカだ。それはどうあっても変わらないし、変えられない。俺が証明して、肯定する。だけど、その俺が死んじまって、何処にもいなくなっちまったって言うなら、俺が俺として此処に生きている事を…俺の存在を、お前が肯定してくれ」
 その、覆せない目の前の事実を、肯定して欲しい。そう言ってまた美しいばかりの微笑を浮かべるリンドウが少しだけ哀しみの影を帯びていて、困ったようなそれを見てしまったセンカは距離の近さにそのまま黙してしまった。綺麗な笑みだと、ぼんやりと思う。
 生きている、とは、呼吸をし、鼓動を奏で、生きている温度がある状態だ。それに当て嵌めるならば、雨宮リンドウは確かに生きている。生きているが、しかし…。
「それとも、」
 思考を遮る、声音。それは微かに罅割れて。

「俺は醜いか?」

 乾いた白藍が瞬き、黒髪をそよ風に揺らす彼の麹塵を見る。
「なあ、センカ。答えてくれ。お前が触れたくないと、姿を見たくも無いと思う程、今の俺は醜いか?」
 なんて、酷い人だろう。そんな顔で、そんな声で、偏食因子に侵喰されて黒く染まった腕を隠しもせずにそんな事を言って、答えを出させようとする。何て残酷で、ずるい人だろう。喉が引き攣り、声が上手く出てこない。
 いつだってそうだった。大変に口の上手いこの人はこうして逃げられないように幾重にも真綿で罠をしかけて、ぽすりと獲物がかかると滅茶苦茶に蹂躙する。笑って好きだと言いながら、優しく触れて傷付ける。初めて会った時からそれは変わらなくて、今も緩く首を絞めてくるこの男が、嗚呼、そうだ。雨宮リンドウ以外の誰だというのだろう。
 少し痛んだ艶やかな黒髪の合間からこの身を捕らえて放さない切れ長の麹塵。逞しい体躯に似合う高い背。神機を操る大きな手。今は少し薄れてしまった煙草の香り。耳から身体の奥まで侵食するような低い声音で名を呼ばれる度、意味も無く身体が震えた。――――その全てが、目の前にある。此処にいる。その事実に、顔が歪む。
「…いいえ」
 一つ、踏み出し、包帯が巻かれた男の胸に手を置けば、確かに伝わる、鼓動。滲む体温。
「…っ、いいえ」
 醜いなど、どうしてそんな事がありましょうか。センカは思う。
 貴方はいつでも綺麗でした。煙草を咥えて笑う時、神機を構えて気を引き締める時、書類を見つめる横顔、我を忘れて激昂するその時でさえ。醜い時がいつあったというのでしょうか。
 貴方を見る度に己の醜さに絶望していた事を、貴方は知らないでしょう。綺麗な貴方が怖くて、けれど、とても羨ましかった事を貴方は知らないでしょう。そして、その綺麗な貴方が侵喰された姿を見て、悍ましい筈の右腕すら美しいと思ってしまった事を、貴方は知らないのでしょう。同時に、そんな自分の醜さに気が狂いそうになった事も知らないのでしょう。
 いつの時代にもこの世界に美しい空があるように、狼よりも気高く綺麗な貴方は、例えどんな姿形になろうとも、失われるものでは決して無いのです。
 だから、そんな事を言わないで。

「綺麗な人」

 胸に渦巻くばかりのこの想いを音にする事は出来ないけれど、嗚呼、貴方は僕がこうして傍にいる事すら罪になるような、とてもとても綺麗な人なのです――――雨宮リンドウ。


 何時の間にか背を包んだ腕にそっと身体を引き寄せられ、声も無く頬を寄せた暖かな胸で白雪は確かな生きている音を聞いた。
 その一瞬すら、罪であるかのように思いながら。



新型さんがついに種明かし。要は人間離れしてたのは本当に人間じゃなかったんですよ、という話。ついでにアラガミなのでアラガミの毛玉を助ける事も出来たんだよ、という話です。あと、更についでにP53因子が体内に残留していたリンドウ氏も助けられたんだよ、と。
GEでは書いて見たい、或いは、書いておきたいシーンがいくつかあるのですが、今回もその一つです。
アラガミ化したリンドウさんの、やっぱり少し戸惑っている様子とか、新型さんが実はリンドウさんをどう思っていたのか、とか。リンドウさんがどういう姿勢で新型さんに接近しようとしていたのか、とか。色々詰め込んだ結果がこれですが、自分なりに良く纏まったんじゃないかと。稀過ぎる纏まり具合!(笑)
リンドウさんについては、神機使いである以上、アラガミ化のリスクはどうやっても拭えない訳で、結果が分かっていたとしても現実を突きつけられるとやはり戸惑うんじゃないかと思います。体細胞の構造が根本から変わる訳ですし、「人間」という括りから外れる事は一種、恐怖もあるかと。「生きている」というのも、人間の括りから外れた今、果たして「どういう形で生きているのか」と思ってみたり、「アラガミ化しながら人間の意識を保ち、けれど、確かに人間ではない自分は何であるのか」とも思ってみたり。他人から存在を証明されようと思っても、人間としての雨宮リンドウは死んでいる訳ですから、人間として生きている訳ではない訳で、ならば、「人間ではない雨宮リンドウを肯定する存在は在るのか」という問題もあったり。
諸々考えていると、新型さんの「貴方を殺してしまった」は人間としてずっと生きてきたリンドウさんの心に結構突き刺さる言葉だったんじゃないかと思います。所謂、人間の雨宮リンドウを全否定する言い回しですからね。
新型さんについては作中で考察されていますからあまり語る事は無いのですが、あえて言うなら、もうリンドウさんから逃げる口実が無くなってしまった、という所でしょうか。種族の違いも、個体の違いも、理由にしていた全てがぶち壊されてしまった訳ですから、拒む理由がどこにも無い状態です。なので、もう素直になるしかない、と。

で、「人間である」という定義を失ったリンドウさんと「人間である」という周囲の思い込みによる結果としての嘘を取り払われた新型さんの妥協点が、「『人』である事」だった、というオチ(…オチ?)

2011/08/27