太陽が暖かく照らしてすら、その世界は酷く寒かったのだろう。
垣間見たのは世界の極寒
どうやらこの侵喰された身体は片腕だけが変異した微妙な状態で危うい安定を保っているらしい。リンドウがそう気付いたのは昨日の事だ。
自我を内側から崩壊させられるような衝動や発作も、センカがこの身に触れ、少し「力」を使うだけで比較的、楽に制御出来ている事からも、その判断は間違っていないだろう。無論、一時しのぎのものにしかならないが、それが無くとも、数分、耐えるだけでやり過ごす事も出来た。人としての意識が薄れる事も、今の時点では感じられない。そういう点では、侵喰の速度を緩やかにしたこの身体は確かに不完全ながら安定してはいるのだろう。
侵喰という代償を払い、死の淵から甦ったリンドウが目覚めてから二日。数度の発作を経て、二人は改めて今の状況を確認すべく緑が埋め尽くす広場で顔を突き合わせていた。
さあさあと耳を撫でる飛沫の音が大気に潤いを与える噴水の縁に並んで座り、覗き込むのは変容した男の右腕だ。色は漆黒。深淵の闇の色。それに白い指先を添わせたセンカは透明な天井から降り注ぐ暖かな陽光の中、そっといつものように力を使う。ふわり、硬質な黒を包む淡い光。
「…今日は、比較的安定しているようですね」
「まあ、昨日、あれだけ暴れればな…」
昨夜は酷かった。胸中でそう呟いて、センカの赤黒く腫れた頬に目をやったリンドウは苦虫を噛んだように顔を顰めた。
新雪の如き白皙に再び痛々しい痕をつけてしまったのは誰あろう、リンドウ本人である。
原因はいつものような相互不理解による喧嘩ではなく、昨日の夜、突如、襲った発作だ。並々ならぬ苦しみで自制がきかなかったとはいえ、愛しい人の、よりにもよって頬を殴り飛ばすとは何事か。衝動のまま振った腕に加減も無しに張り飛ばされ、強かに壁に叩きつけられた彼の身体が床に崩れる様は今も脳裏に焼きついて離れない。刹那、弛緩した細い身体に、よもや殺してしまったのではないかと冷や汗すらかいた。生々しい音で漸く我に返った自分に、彼は柔らかな指先で触れて癒してくれたものの、その間にもみるみる腫れ上がった痛々しい痕が消える訳でもなし。朝になれば殊更、目に付く傷跡は後悔と自責を煽って顔を歪ませた。
だが、不謹慎な考えというものはいつでもあるもの。殊、恋に落ちた男程そういったものを抱くもので、顔を歪めつつ、不純な想いが無いかと言われれば途端に答えに窮してしまう所が何とも情けない。――――本音を言えば、彼がこうして傍によって来てくれる事が嬉しくて堪らないのである。誤解の無いように言うが、勿論、反省はしている。しているが、しかし、今まで会話をする事すら難しかった想い人が傍に寄り添い、白魚の指先で優しく触れ、甲斐甲斐しく世話をし、癒してくれるこの状況で至福を感じない男がいるだろうか。答えは即答出来る。絶対的に、否だ。これで舞い上がらない男がいたなら、そいつは男を名乗るに相応しくないとすら思う。
そういった経緯を経て、朝になっても心痛に呻いてみせるリンドウの姿は最早、ふりの部分が多かった。隠す気の無い喜悦の表情にあえて澄ました態度で応ずるセンカが気付いていない訳は無く、今ではもうちょっとした化かし合いのような具合になっているものだから、何とも妙な話である。
「……何にしろ、今はまだ極東支部へはお返しできません」
ほう、と一つ息をつき、一通りの処置と容態の確認を終えた手があっさりと離れれば、それを待っていたかのようにセンカを挟んでリンドウとは反対側に座していたレンギョウがその手にじゃれ付いた。手の下に頭を潜り込ませ、伸び上がり、ころり、転げて一回転。
膝にまで乗ってごろごろと擦り寄る幼子に少しばかり嫉妬しながら、リンドウはよく整えられた毛に覆われた頭を軽く小突く。
「この状態では帰れない上に、帰ったら帰ったで支部長が俺を殺しに来るだろうからな…」
侵喰された者は殺すより他無いというのは周知の事実だ。そうでなくとも暗殺されかけた身の上。生きていたから帰りましょう、という安直な話には到底なれない。侵喰を理由には殺されなかったとして、シックザールが再度、暗殺を企てないとは限らないのだ。
まだその件について互いに正面から話した事は無いが、恐らくリンドウという男はシックザールが行おうとしている「計画」について知りすぎているとセンカは思っている。だからこその暗殺計画だ。完璧と安全を重んじるあの男が障害になるだろう者を野放しにして置くとは考え難く、あれだけの計画を立て、実行するくらいなのだから、随分前からリンドウの行動に気付いていたのだろう。そうして、その日が来るまでに、使えるだけは使う。あの男はそういう男だ。
一方のセンカの方もそう簡単に帰還出来る身とは言い難い。容態が安定しているとは言えないリンドウを一人にする訳にはいかないからだ。この力で侵喰を抑えられるならばそれを使わない手は無い。――――それだけが理由かと問われれば、胸に落ちる暗い影に知らぬふりを決め込むしかないのだけれど。
「このまま暫く様子を伺うのが得策でしょう」
「ああ、その事なんだけどな…それ、大丈夫なのか?」
一人にする訳にはいかない、と言っても支部の様子を伺うくらいの時間は取れるだろう。シックザールの次の一手を見極める為にも様子見に徹するのが良い。そう示したセンカの言葉尻を攫うようにリンドウの声が続いて、白藍が思わずそちらを仰ぎ見る。
まさに、思い立ったかの如く瞬いてこちらを見つめてくる切れ長の双眸は相も変わらず深い木の葉の色を映して美しく、それ見返し、そよ風に銀髪を揺らしたセンカはことりと首を傾げて応えた。――――それは大丈夫なのか。…さて、何の事を言っているのだろう。それ、とはつまり、自分が持っている何かの事だろうが、不安を抱かれるような物を所持している覚えは全く無い。
小首を傾げたまま、はたり、と銀の睫毛をはためかせる白雪を一瞬、蕩けるような瞳で眺めた男は直に苦笑を零して――その苦笑すら甘さを帯びている事に彼は気付いていない――、侵喰していない方の指で彼の細い手首を指した。
「それだ。それ」
「え?」
それ。指差す先にあるのは――――以前、リンドウが身に着けていた物と同型の赤い腕輪。成る程。わかった。
神機使いがP53因子を定期的に投与する為に身につける腕輪には支部に生体反応の有無と居場所を知らせるビーコンが埋め込まれている。つまり、これを嵌めている限り、支部の捜索隊は神機使いがどんな状態であれ、探し出す事が出来るという事だ。逃亡防止の枷にも似た機能はそれが真の狙いではなかったとしても、重々しい装丁がそう思わせていて、常々、その扱いの悪さと共に仕様の変更を神機使い達から要請されていた。だが、探し、管理する側には便利な機能でも今の自分達には決して好ましい機能ではない事はこれまでの話から明白である。色々な意味で、この場所が知られてしまっては困るのだ。
しかし、眉を顰めるリンドウを他所に、ぼんやりと己の細腕に嵌った腕輪を眺めた銀色は事も無げにまた小首を傾げて見せた。――――警戒心の強い彼にしては焦る様子も無いのは意外だ。茫洋としているようで抜け目無い彼の事、対策でもしてあるのかもしれない。
男がつられるように首を傾げかけたその時、彼の視線の先でたっぷり時間をかけて言葉を選んだ唇が漸く開く。
「ああ…問題ありません。これには部屋の開錠機能しかついていないので」
ふんわり。揺れる銀髪がとても可愛らしいのは相変わらずで、けれど、その花弁のような唇から零された言葉にリンドウは大口を開けて固まった。
「…は?」
いや、だって、お前、P53因子がなけりゃ神機に食われてお仕舞いだろう。そんな事を思う彼の頭からは最早、目の前の白雪がアラガミであるという事実はすぽんと抜けてしまっている。
動きを止めた右腕をぺしぺしと幼子の肉球に叩かれながら、みっともなく口を開けたまま硬直するリンドウを一瞥し、センカはゆるりと瞬いた。
「これは博士が作った物で、一般の支給品ではありません。僕はアラガミですから、人間のように偏食因子を定期的に投与する必要が無いのです。…博士の趣味だとは思いますが、発信機等もついていません。ただの部屋の鍵です」
思えば、適合試験もただの恒例行事のようなものだったように思う。以前から使っていた神機を改めて仰々しい催し物を経て押し付ける事もないだろうに、余計な悪戯まで仕掛けていたとは趣味が悪いにも程がある。その悪戯のおかげで自分は昏倒してしまった訳だが、それを眺めていたシックザールといえば、多分、涼しい顔をしながら、腹の中では嘲り笑って転げていたのだろう。思い出して、腹の底が少し、燻る。
穏やかな光の中、何故か、むっつりとしてしまったセンカの隣でまだ口を半開きにしているのはリンドウだ。センカの膝から二人の間に移動したレンギョウが右腕に纏わりついた鎖で遊んでいる。
鎖がちりちりと鳴る音を背景音楽に、そうだ、とリンドウは思い出していた。センカは一応、アラガミで、そもそもアラガミはもとから偏食因子を持っているのだから態々外部から投与する必要などない。外から投与するなどという事をすれば、反対に良くないのかもしれない。発信機云々は意外だったが、彼を実の子のように思っているらしいサカキの事。実験体に枷をつけるような真似はしたくなかったのだろう。だが、しかし、
「それなら、お前、神機はどうしてるんだ?此処に来てから見てないが…ちゃんと適合してるんだろう?」
反対に、適合していなければ例えアラガミであろうと神機を使う事は出来ない。腕輪が形ばかりの物だというなら、腕輪の装着と共に行われる適合試験はどうやって通ったのか。そういえば、此処に来てから、肝心の彼の神機を見ていない。どんなに緊迫した空気の中でも両腕で大事に抱き締めて持ち歩いていた姿が初対面の頃から酷く印象に残っていたというのに、どうして今まで忘れていたのだろう。
今更、不審に思いながら問うたリンドウは次の瞬間、またしても大口を開ける羽目になった。
ことり。小首を傾げる仕草が少し恐ろしく見えてくる。
「適合、というには少し違います。あれは僕の一部です」
「……一、部…?」
呆然と辿った言葉に返るのは静かな首肯。
「僕の神機はアラガミから培養して作られた僕の一部をまた培養して作ったものです。通常の人間と神機の適合と違い、あれは僕以外の生き物が適合する事はありません。元々が同一個体なので体内に納める事が可能で…そうする事で捕喰したものを吸収出来ます」
つまり、彼の神機は彼の身体の一部を武器化したもので、今は鞘たる彼自身に納められている、と。そういう事を言っているのだろう。全く、とんでもない話だ。道理で、戦闘時の武器の操り方が尋常でなく上手い。稀に見る器用さで複雑な新型の神機を操っていたように見えたのも、彼にとってはただ手足を動かしているのと変わらなかったのだ。呼吸をしながら、素手で、或いは、己の口を開いて牙を剥くように戦っていた。いつでも両手で抱き締めるように刃を抱いていたのも、それが己の分身、否、自分自身だったからかもしれない。
飲み込んだ言葉を冷静に少しずつ昇華して理解したリンドウは、己が神機に抱くものとはあまりに違う彼の感覚に些か表情を曇らせた。
リンドウは己の神機を相棒と位置づけている。共に死線を潜ってきた、戦友。兄弟。そんな所だ。どのような窮地でも共に有り、信頼できる相棒。共に敵と戦い、立ち向かう相手。その感覚は例え、過酷な単独任務の間ですら孤独だとは思わせない不思議な安堵感を齎していた。しかし、センカは違う。彼の相棒は彼自身だ。元々が同一個体であると明確に表現したように、手にした神機に抱く感情はそれが自分自身だというもの以外には無い。戦場に立つのは、真に己のみであり、それ以上の感覚も、それ以下の感覚もありはしないのだ。
ひとりぼっちの戦場は、小さな身体にはどれだけ広く、大きく思えたのだろう。
どれ程の回数、他のアラガミと巡り会おうと、自分と同じ形の同じ種族に会う事は無く、腕に自分自身を抱きながら、一人、荒野に立つ。世界にたった一人…人間に作られたアラガミという、ひとりぼっちの種族。同じ出生形態を持つ者すら無いその現実。身体は確かにアラガミでありながら、けれど、人間に近い思考を持つが為にどちらにもなれない。どちらにも受け入れられない。――――それは酷く冷たい孤独だ。心までをも凍らせる想いは日々、天を巡る暖かな太陽ですら包めなかったに違いない。
脳裏に広大な世界に一人佇む小さな銀色を思い描いた胸が軋む。感じるのは、抉るような痛みと鈍い寒さだ。
右腕にじゃれる事に飽きを覚えたレンギョウが再びセンカの膝に戻るのを見計らい、侵喰した腕を持ち上げたリンドウは傍らの細い肩を抱き寄せた。じわり、肌に滲む互いの体温。
此処二日ほどで癖になってしまった抱擁はその都度、不思議な顔をされるものの、最早、センカの中では警戒するようなものではなくなっているらしい。欲望のままの行為ではないと理解しているのだろう。生い立ちから、そういった気配には聡そうな彼の事だ。レンギョウが膝で転寝をするのと同じ行為だと思っているのかもしれない。
大した抵抗も無く男の腕の中に落ちた銀色が包帯に包まれた厚い胸に頬を寄せて暖かな気配を見上げれば、少しの痛みを孕んだ麹塵が太陽の淡い光を浴びて薄く微笑んでいた。
柔らかい膝の上では、くあ、と大口を開けた幼子があくびをしている。
「先輩?」
「いや、何でもない…少し、寒いだけだ」
暖かな光の中で唇を歪ませて言った言葉は、何ともお粗末な嘘だったと自覚していたが、彼は睫毛を伏せ、ただ、そうですか、と言っただけだった。
そうして、細い肩を抱く右手の鋭い爪が柔肌を傷つけぬように気をつけながら、胸を擽る柔らかな銀髪にいつものように頬を寄せたリンドウは目を閉じて密かに胸の内で思うのだ。――――その木漏れ日のような淡い優しさすら、ひとりぼっちの世界では誰も受け止めてくれなかったのだろう、と。
一方その頃的リン主。最早、ハグは日常茶飯事。色々無茶振り設定がまた出てきていますが、もう誰も驚かないって信じてる。
リンドウさんも慣れつつありますね。もう何でもありだよね、お前的な。でも、ただそう思うんじゃなくて、ちょっと考えてみたりもします。
単独任務といっても、実際には神機という生物と自分が出陣している訳で、厳密は単独ではないと考えています。そこに意志の疎通は無いですが、自分とは違う息遣いが確かにある訳で、それは「危険の中でも一人じゃない」と思わせてくれるものでもあるんじゃないかと思う訳です。ですが、新型さんの場合は確実に「自分だけ」が出陣しているので、完璧な単独任務。ついでに同じ種属が一匹もいないという現実があるので、完全にひとりぼっち。
十年以上同じ神機を使ってきたリンドウさんにはそんな所の差異を感じて欲しかったのでこんな感じになりました。
とりあえず、知らぬ間に駆け落ち(?)を手助けしている博士作の腕輪に乾杯(ぇ)
2011/09/28 |