mono   image
 Back

 大海原に果てがある事を知っているだろうか?
 その海原は他でもない、己の中に広がっている。

悲しみは海に非ず

 退院したアリサが戦線に復帰するのに、そう時間はかからなかった。それは一重に彼女の努力によるものが大きいが、その努力を支えていた第一部隊の仲間達の力も決して小さくは無い。
 感覚を取り戻すまでの間、アラガミの咆哮を前に震え、竦むアリサを連れて毎日のように任務に出る姿は滑稽にすら見えただろう。実践に赴けば、碌に攻撃も出来ず、足を引っ張る小娘に成り下がった少女は死と隣り合わせの現場では邪魔以外の何者でもない。しかし、それでも、彼女の強さを信じる彼らが死亡率を高めるだけの危険な行為を止める事は無く、やがて、その想いは奇跡を呼んだ。――――アリサ・イリーニチナ・アミエーラの前線復帰である。殊、ヴァジュラ種へのトラウマを克服した事は回復に尽力した第一部隊を喜ばせた。
 アリサの変化はそれだけではない。一度、崩れ落ちた事が影響したのか、元来の素直さを取り戻した彼女の軟化した態度は他の面々との関係も改善に向かわせている。今では頑なに理解を示さなかった防衛任務にも向かうくらいだ。
 変われば変わるもの。これには鬼のツバキも仏に変じた。
 しかし、それで全てが終わったかといえば、無論、否である。知らない者にはまだ失踪したリンドウとセンカの落とした影が残り、知っている者にはそれに加えて暴かねばならない違和感があった。
 ミッション「蒼穹の月」。その異質さ。アリサにかけられた暗示。その後ろで糸を引く何か。犠牲になった彼らの為にも、それらをつきとめなければならない。
「貴方と一緒にロシアから来たオオグルマ先生……言われて気がついた時にはもう極東支部から異動になってたわ」
「…異動?」
 聞いていない。訪れたサクヤの部屋で聞かされた事実に、アリサはコーヒーが湯気を昇らせるカップを両手で包んで顔を顰めた。
「その後の足取りも追ったんだけど……ロシアに戻る途中にアラガミに襲われて戦死したって報告しか残ってないのよ」
 続く言葉に、空の色が見開く。そんな、と詰めた息と共に吐き出した言葉は確かに驚愕に押されて飛び出したものだったのだろうが、すぐに細められた目は驚愕よりも強い疑いを持ってその意味を探っているようだった。――――きっと、彼女も気付いているのだ。この話の展開の異様さに。そうして細かな違和感が積み重なる程、見逃せなくなっていく。
「……残念だけど…やっぱり、腑に落ちないわよね…」
 項垂れたサクヤに向けられる視線は強く、揺ぎ無い。放っておいても彼女は自らの意思で真相を探り出そうとするかもしれない。己の罪に向き合うその行為は彼女の強さだ。しかし、それは同時にリンドウと同じ道を歩む事でもある。
 いつか来る日を今日にするべきか、サクヤは迷っていた。
 リンドウの遺したディスクを解析し始めて数日経つが、やはり彼の腕輪が無ければ話にならないらしい。隊長格でもないサクヤに許された権限ではノルンのデータベースですら、閲覧出来るものに制限があるのだ。正当にアクセスする為にはそれなりの物が必要になる。その唯一の鍵が、今はどこにあるかも分からないリンドウの腕輪だ。探そうにも神機使いが外に出るのは任務以外ではほとんど許されていない。一人では途方も無い時間がかかり、その間にも他の誰かに奪われてしまうかもしれない。
 秘密裏に、且つ、迅速に捜索を進めるには動ける人数は多い方がいい。更に、その人物は絶対の信頼をおける者でなくてはならない。条件を突き詰める程、話を出来る人間は限られて行き、ついには第一部隊のみに絞られていた。その中でも協力を仰げそうな者は、たった一人、目の前のアリサだけだ。
 事件について確かに違和感を感じていて、必ず渦中に飛び込んでくるだろう彼女を、けれど、本当に引き込んでも良いものか。その日はもっと、出来るだけ遠くても良いのではないか。悩みながら、今日という決断の日を迎えている。
 俯いた視界で揺れるコーヒーの苦い湯気が揺らめく様が、己の心情を示すようだ。
 密かに唇を引き結んだサクヤを見つめ、同じく口を噤んだアリサがゆるりと瞬く。時計が奏でる僅かな音が沈黙に沈む様は陰鬱では無くとも、明るくは無い。これを口にすれば双方共に後には退けないと分かっているからだ。事態を動かす一言は重く、鉛のようで。恐らく、同じ事を考えているのだろう、と互いに思いながら、秒針は歩を進め、やがて薄氷が壊される時を待つ。
 動いたのは――――少女が先。
「…サクヤさん、私にも手伝わせてくれませんか」
「…アリサ…」
 引き結んだ唇が、その双眸が語る意思の強さは彼女の美点の一つだ。真っ直ぐにサクヤを見つめたまま、彼女は続ける。
「最近、一人で何か調べてますよね…ずっと部屋に籠ってるの、おかしいと思ってたんです。それで、きっと、何か掴んだんじゃないかって、思って…」
 或いは、何か、手がかりになるようなものを。そう思うくらいには、此処最近のサクヤの行動は異質だった。
 普段の彼女であれば、任務後に雲隠れするように部屋に戻るなどという行動には出ない。一時はリンドウとセンカの失踪による不安定さが齎すものだろうと思っていたが、彼女の纏う気配は悲哀ではなく決意染みた何かだ。時折、考えに耽っていたかと思えば、悔しそうに下唇を噛んでいる姿も見かける。何か気付いたように瞬いた時には部屋に駆け戻る事もあった。
 ある程度、事情を知っている者ならば、それで何か掴んだのではないかと勘付かない者は無いだろう。
「お願いです。私にも手伝わせて下さい!…せめて何か一つでも罪滅ぼしが出来、れば…」
 不意に詰まり、語尾に混じる涙声。まだあの事件はアリサの中に深い傷を残している。カップを包む手に、爪が白くなる程力を込めて切実な目を向けてくる少女を、誰が無碍に出来るというのか。
 微かな嗚咽に気付きつつもあえてそれに触れなかったサクヤは、胸に広がるおかしな安堵に自嘲の言葉を呟く。口元に浮かぶのは諦めの微笑。
「…ううん。貴方にこれ以上償ってもらう事なんか無い…今回の件にはきっと何か裏がある。でも…そうね。貴方自身にも関わる事だものね…」
 己が同じ立場に立ったとして、同じ事を言われて引き下がれるかといわれれば答えは無論、否だ。己が出来ない事を、どうして他者に強制出来るのだろう。今、此処で引き下がったとしても陰で探り始めるのは目に見えている。それならば、共に行動した方が効率が良い。こちらにとっても協力者がいるのは心強い事だ。
 賽は投げられた。昔の言葉を使うのであれば、そう言うのかも知れない。
 一度、目を閉じ、ゆっくりと開けて世界を映したサクヤは、徐に腰ポケットに手を入れ、その行動を見守る彼女に此処最近の行動の理由を示して見せた。――――長い指で掲げられるのは、銀のデータディスク。遺された真相へのひとかけら。
「実はね、リンドウの置手紙が開けられなくて困ってるの。これが最後の手がかり…でも、この手紙を読む為には彼の腕輪が必要みたいなの」
 かしゃり。小さな音で角度を変えられれば、漆黒と共に消えた銀色を思わせる中の円盤が綺麗に光る。
 それを眩しそうに見つめるアリサも同じ事を思ったのだろうか。刹那、目を細めてから、改めてサクヤに目をやった。かち合い、絡む視線。互いに伝えるのは決意だけだ。
 笑ったのは、どちらが先だったか。

「一緒に探してくれる?」

「はい!」

 明瞭な意思。もう後戻りは出来ない。二人で真相を掴むと、今、言った。口にして認め合ってしまえば、妙に胸がすいて、あとは穏やかな空気ばかりが部屋を暖める。苦味ばかりが際立って思えたコーヒーも、今は酸味とこくが判るほどだ。
 自分が思うより、随分、緊張していたらしい。少し温くなったそれを口に含みながら、サクヤは苦笑を洩らした。
「それにしても…死んだ後までこんなに振り回されるとは思ってなかったけどね…。流石、リンドウとセンカって所かしら」
 あのお騒がせカップル――早くくっつけ、という願いを込めて、サクヤの中では既にカップルだ――らしいといえばらしい話だ。
 支部内にいようとそうでなかろうと恋路云々、意思疎通云々、仕舞いには喧嘩云々で周りをやきもきさせたように、今度は事件の真相を探らせるべく皆を振り回している。何とも迷惑な話だが、おかげで悲観に暮れる間も惜しくなったと思えば、これ程、功を奏している叱咤激励も無いだろう。前を向き、進むきっかけをくれた一つであるこれには感謝もしているのだ。
 これが無ければ、今、こうして笑う事も難しかったに違いない。
 湯気を揺らして微笑んだのと、聞き慣れない響きで紡がれた言葉が耳に滑り込んだのは同時だったと思う。
「ゴーレ・ニェ・モーレ・ブイピエシ・ダ・ドゥナー」
「え?何?」
 生返事のように聞き返したのは、聞こえなかったからではない。日本語とも英語とも違う、流暢な異国の音に半ば、呆然としてしまったからだ。
 目を向けた先で、くすり、と笑ったアリサの吐息が天井まで届かない儚い湯気を揺らしていた。
「『悲しみは海にあらず、すっかり飲み干せる』……ロシアの古い諺です」
 涙がいつか枯れるように。明けない夜など無いように。海の如く際限無く広がる悲しみなどありはしない。いつか、それを全て飲み干し、乗り越える日が来る。――――誰もが両手に汲んでも足りない程のそれを確かに飲み干す事が出来、そして、どんな事にも、誰のもとにも、その日は必ずやって来るのだ。まるで自然の摂理のように。
「…そう……ありがとう、アリサ」
 頷き、穏やかに笑い合った二人に、やがて明るい色が差していく。

 万物の理の如く、この胸に宿る悲しみにも果てはあるのだ。



端折ろうと思って結局端折らなかった諺場面。やっぱりサクヤさんとアリサさん的には必要じゃないかと思った末の選択です。結果は…見ての通り見事玉砕というか…皆さんのアレルギーが出なければ万事問題無し。
おまけ的に挿入されている感の強い場面ですが実は結構、重要なんじゃないかと思う訳で。「悲しみは海に非ず」というのも深い気がします。
人の悲しみというのは中々に定義し難いもので、痛かったり、苦しかったり、重かったり、例えば灼熱が芯から噴き上がる衝撃のような怒りなどよりも随分と曖昧だと思っていたりなどします。解決の糸口を見つけたとして、完全には拭い去れないものは鈍く残ったりなどして、結局は終わりが見えなかったり。そう考えるとぐあーっとなった後にふしゅーっと沈静化する怒りや同じく沈静化という明確な終わりがある喜びとは随分と毛色が違う感情ではないかと。勿論、個人的な論ではありますが、そう考えると「悲しみは海に非ず」とは曖昧な感情に確かな完結を定義している言葉に思える……気がしなくも無い?(あれ、今、真面目だったよね?)
……ま、まあ兎に角、サクヤさんとアリサさんは男前な飲みっぷりを披露し合いつつ、二人で置手紙攻略を掲げた訳です。

しかし、最近見事にお兄ちゃんとか青パーカーさんが出てきません ね 。

2011/10/30