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 こっそり、こそこそ、でも、わかってるよね。きづいてるよね。おんなじだもん。
 ね、こっちむいて。

だるまさん、ころんだ

 すたすたすた、くるり。すたすたすた、くるり。ちろ、と後ろを見回して、すたすたすた、くるり。――――誰もいない。だが、実際には誰もいないように見えるだけだ。
 極東支部の任務エリアの様子を一通り探り、帰途についたセンカは廃寺辺りから後ろをついて来る気配にもう数時間もしつこく眼光を送っていた。すたすたすた、くるり、ささっ。振り向くと同時にドラム缶に隠れる白い影。こちらもしつこいが、あちらも十分、しつこい。笑い話にするにも数時間は長すぎるとは思わないのだろうか。まあ、本能しか無いといっても過言ではないアラガミに他者を慮るという芸当が出来ていたなら、人類はこれ程まで生き残りに躍起になってはいなかっただろう。
 すたすたすた。とことことこ。くるり、ささっ。歩いて、振り向いて、隠れて、また後をつけて。どうやら、このやり取りに楽しさまで覚えてきてしまっているらしい「それ」は飽く事無く、まだ後をついて来るつもりらしい。
 振り返る度に、ちらりと見える、人間にしては白すぎる肌と物陰から覗く琥珀の瞳。――――廃寺から何時間も後をつけてきているのは、アラガミだ。それも、人型の。細く伸びた手足と、その先の五本指、見間違えようの無い人頭はサカキとシックザールが見れば、それぞれ違う意味で狂喜乱舞しただろう。数度目のやり取りでその姿形に気付いたセンカも少しばかり硬直して目を瞬いたくらいだ。存在を知っていたとはいえ、机上の話と実物とでは訳が違う。
 しかし、そろそろ、いい加減にして欲しい。ただただ、興味深げな気配を漂わせるだけで、近付きもせず、遠退きもせず、微妙な距離を保ちながら、ついて来ていただけだったから好きなようにさせていたものの、既に視界を過ぎる景色は舞い落ちる六花を厚く積もらせた家屋から、崩れたコンクリート群に変わっている。時間は昼過ぎ。あともう少し歩けば温室だ。これ以上、ついて来られるのは、正直、困る。
 すたすたすた。とことことこ。くるり、ささっ。
「……いい加減にしろ。もう気は済んだだろう」
 言ってから、人間の響きで理解出来るだろうか、と思う。
 蒼穹の月でプリティヴィ・マータと黒いヴァジュラを退けた時はアラガミにも伝わるよう、オラクル細胞を介して声を放った。つまりは、彼らの理解出来る言葉で話した、という事だ。何も知らない人間には通常の人間の言葉に聞こえただろうが、例えば、ソーマ辺りには少し違う響きで聞こえたかもしれない。恐らく、彼が密かな威嚇に気付いたのも、それが一つの要因としてあるだろう。
 さて、これで引き返してくれれば問題無い。サカキとシックザールが水面下で血眼になって探しているこのアラガミが自分達の住処へやってくる事は大変、好ましくないのだ。
 見つめる先で、そそそ、と白い手が陰から這い出し、続いて、白い頭を半分程出して、金の双眸が覗く。真っ直ぐに放たれる視線には一分の敵意も無く、溢れ出す好奇心だけが映っていて、センカは小さく息をついた。――――この瞳は知っている。飛びついて来る直前のレンギョウそっくりだ。
「…僕が向かう場所はお前にとって良い場所じゃない。日が暮れる前に、お前はお前の住処に帰れ…」
 温室には同族であるレンギョウは勿論、侵食された元人間のリンドウもいる。更に、自分達はフェンリルから身を隠している立場にあり、出来るならば、外界との接触は最低限にして置きたい。あちらにしても人間と必要以上に関わる事は良いとは言えないだろう。そうなれば、取り得る最善はこの個体がこのまま己の住処へ帰り、二度と関わらない事だ。
 人間の響きで届けた言葉を、理解しているのか、いないのか。依然、じぃ、と見つめてくる大きな金の瞳にまた溜め息をつき、折角、見つけた「己と同じ形のモノ」を拒絶する痛みに蓋をしたセンカは踵を返す。きっと意味を捉えかねているアラガミも同じだろう。瞬いた瞳が気落ちしたように刹那、地面を見た。
 白藍が見上げる空は既に昼下がり。朝から出掛けてしまったから、置いて来た一人と一匹はお腹を空かせているかもしれない。果樹園の場所は初日に教えておいたから、そこへ行っている可能性もあるが、長年のフェンリルでの配給食生活の所為か、リンドウは樹になる果実の見分けが驚く程、不得手だった。何でも器用にこなす印象のある彼が、たかが果実の見分けが出来ないなど誰が思おうか。全く意外な事もあるものである。
 嗚呼、早く帰ってやらねば。――――荒れた街に響く足音。今度は一つきり。


「おかえり。助けてくれ」
「只今帰りました。…これはどういう事ですか」
 帰って早々、噴水の広場で出迎えた同居人は何故か泉の中でずぶ濡れていた。途方に暮れた淡い笑みで口元を歪ませながら濡れて艶を増した漆黒の前髪を頬に張り付かせ、頭にはこれまたずぶ濡れの幼子をしがみつかせている様は少し前の威厳ある隊長殿とは思えぬ情けなさだ。噴水の飛沫に打たれるままにしているのは、もうどうしようもないくらい濡れてしまっているからだろう。諦められるくらいの盛大な濡れ具合である。
 何を如何したらこんな状態になるのか。両腕を伸ばして、引っ張り出してくれ、と言わんばかりの姿勢に最早、驚くよりも呆れる。
「助け出す前に、現状についての説明を要求します」
 リンドウの頭にしがみついたレンギョウがぶいぶい尻尾を振って喜んでいる様が何とも滑稽だが、そのきらきら輝く金の瞳が既に何があったかを伝えている気がして、センカは再度、溜め息をついて歩を進めた。
 どんな理由があったにしろ、リンドウは病み上がりだ。このまま濡れ鼠にさせている訳にはいかない。熱でも出したら大事になる。
 はあ。ただただ笑って返す男を眺め、溜め息をもう一つ。
「…何があったかは何となく想像がつきますが…病み上がりだという自覚がおありですか?」
「分かってはいるんだが、動けるのに動かないでいるのは性に合わなくてな」
 近付き、伸ばされた手に触れれば、それは程よく冷えて、センカの熱を奪っていく。一体、どれ位、こうして水の中に居座っていたのだろう。この分では予想に違う事無く、食事など取っていないに違いない。限られた食料で英気を養えというのも無理な話だと理解はしているものの、そもそも食べずに遊び呆けて状態を悪化させるのは最早、論外。ただの阿呆である。
 リンドウの方はさっさと身体を拭いて包帯を代え、褥に引き篭もってもらうとして、レンギョウも今回ばかりは少し仕置きをしなくては。どちらにしろ、二人とも軽くお説教だ。
 彼の悪戯心が頭を擡げて泉に引っ張り込まれない内に手を引き、ばしゃばしゃと飛沫を散らして泉から出てくる男とその頭に未だにしがみついて尻尾を振る濡れ毛玉を眺める銀色の目線は稀に見る程、不機嫌だった。
 ぎゅ、と絞れば焦げ茶に色を変えた衣から滝が生まれる、見るに耐えないその濡れ様。何より身体の回復を優先させるべき今、この状態は到底、許せるべきものではない。水滴を頬に滑らせた美丈夫の、誤魔化すような艶美な甘い微笑もセンカにとっては視界の端で小石が転がるに等しい瑣末事だ。
「先輩」
 響く、絶対零度。泉よりも遥かに冷えた声音に、途端に二人が肩を飛び上がらせる。――――寒い。とても、寒い。暖かな温室では今まで微塵も感じなかった寒さが心臓までをも凍らせる。こんな寒さはあの雪が吹雪く廃寺でですら無いだろう。
 リンドウの頭から華麗に降り立った毛玉が忍び足で場を後にしようとするのを、雪の女王と化した銀色は、レンギョウ、お前もだ、と言って引き止めた。その声音があくまで囁きだというのがまた恐ろしい。
「…お、落ち着け…ちょっと手足が滑ったんだ…レンギョウだって俺が本当に動けないようなら遊びは…」
「お黙りなさい」
「はい」
 初めて見る様子に戸惑いつつ、こうなれば出来るのは直立か正座だ。辛うじて正座は免れた二十六歳は直立不動のまま、十も年下の想い人を前に少しばかり項垂れた。
 貴方の傷がどれだけ深いかご存知ですか。その傷の治癒が人間にとって本来、どれ程困難かご理解頂いていますか。泉の水は浄水器を透しているとはいえ、注意すべきです。そもそもお食事はなされたのですか。此処にあるもので栄養をつけろというのは無理だとは承知していますが、食べないのは論外です。せめてもう少し傷が塞がるまで大人しくしているべきです。発熱でもしたらどうなさるおつもりですか。健康管理は重要な事だとご存知の筈、云々云々。
 静かに、いつものように、けれど、反論も出来ない強さで眉間に一つ皺を作り、滔々と言葉を並べ立てる姿はアナグラでは一度も見た事がない。否、隣でちょこんと座り、同じように項垂れるレンギョウの態度を見る限り、躾の為に幾度かこうして怒った事があるのかもしれないが、少なくとも、リンドウ自身は温室に来るまで一度も目にした事がなかった。寧ろ、ここまで饒舌に喋る事すら想像もしない。
 半ば呆然としながら佇む男が口に出来る事といったら、はい、はい、すみません、はい、と只管に肯定、謝罪と偶の生返事。まるで母親に怒られているような錯覚さえあるのは、傍らのレンギョウと共に叱責されているからだろうか。
 それにしてもこれはある種、驚異的で酷く滑稽な光景だ、とリンドウはふと思う。
 あのセンカが怒っている。それも「人間の常識」を説きながら。今、この場にいるのが、正真正銘、アラガミだけ――リンドウは元人間だが――だという事を考えれば、これ程、おかしな光景もないだろう。しかも、片方は儚い花の顔を顰めた白雪、もう一方はずぶ濡れて地面に水溜りを作りながら項垂れる大の大人と小さな毛玉。――――客観的に見て、これは無い。
 思わず、ぷ、と零れた笑い声にぴくりと白雪の眉が吊りあがる。
「先輩…聴いておいでですか…?」
「…っくくくっ…き、聴いてる聴いてる…悪い、ちと可笑しくてな」
「何処も可笑しくありません!」
 これを言ったら十中八九、声を荒げて怒り出すに違いない。そう思って濁した言葉だったが、それがどうも不謹慎に映ったらしい。
 ついに拳を握って身を乗り出したセンカに降参を示す意味も兼ねて両掌を見せながら、込み上げる笑いを隠しもしなくなったリンドウは分の悪い話題から逃げ出すべく、先程から密かに気になっていた事を訊く事にした。
「あー、わかったわかった!俺が悪かった!もうしないから許してくれ。な?それより、訊きたい事があるんだが…」
「…っ……何ですか…」
 言葉を飲み込んだ不満げな表情に、嗚呼、和む、と思った自分は悪くない。同時に、きゅん、と胸が高鳴った自分も絶対に悪くない。
 納得など全くしていない様を示すように小さな鼻を、ふん、と鳴らして睨み上げてくる珍しい姿すら拗ねた様に見えて、酷く可愛らしいと思ってしまっている辺り、自分は反省など微塵もしていないのだろう。何と言っても、この可愛い銀色が自分の為に怒ってくれるのが嬉しくてならないのだ。泉に落ちてずぶ濡れたのを怒っているのも、まだ傷が治りきっていないのに必要以上に動き回ったのを怒っているのも、全てこの自分の為。嗚呼、愛しくて堪らない。今も引き結ばれた淡い色の唇を無理にでも抉じ開けにかかろうとするのを堪えているくらいだ。
 ごくり。上下した喉が飲み込んだのは頭を擡げた欲の欠片。
 その様に気付いたか否か。向けられた甘い微笑に、途端に顔を強張らせた銀色が半歩下がる。何とも勘が良いとしか言い様が無い。或いは、少し公には言えない意味で捕喰される気配でも感じ取ったのか。どちらにしろ、兎を捕まえ損ねたリンドウには残念な事だ。
 うっかり出た妖艶な牙を引っ込めて、また苦笑を浮かべた男を警戒も露に訝しげな目で見つめたセンカは、次の瞬間、気を取り直した彼が徐に指差した方向を見て硬直する羽目になった。
 ゆるりと虚空を指差すその先。
「あれは、お前の知り合いか?」
「…え?」

 彼の指差す先には、木の陰からきらきらと金の瞳を輝かせてこちらを見つめる白いアラガミ少女が一人。



お待たせしました、ついに子犬が登場です。まだ名前が無い頃なので扱いが「白い人型のアラガミ」ですが、そこは無理もない、という事で。
シオさんならば廃寺から旧市街地までてこてこついてくるくらいしてくれそうだな、というのでこういう登場の仕方になりました。元々、人間に多少の興味は抱いていたようですし、ハーフアラガミのソーマさんをひっそり伺ってみたりなどしていたので完璧にアラガミだけど人型の新型には相応の興味と共感、同属意識を持つんじゃないかと想像しています。
一方、ついてこられる新型さんの方は色々と中年どもが裏でやっている事を全て知っているので、それに関わらせたくないのと、自分達の安全も踏まえて、遠ざけようとしています。……結局はついてきてしまいましたが(遠い目)
予想できない。それが子供!

温室的な話をすると…とりあえず、リンドウさんは温室ライフを満喫中です。
今回の見所はなんといっても頭に毛玉を乗っけてずぶ濡れになってる二十六歳独身(ただいま嫁にアタック中)

2011/11/06