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 教育は最初が肝心だという事をご存知ですか、先輩。

白雪と子犬のワルツ、時々、黒獣

 何でこうなった。センカは刹那、遠くを見た。
 何で尾行に気付いた時に彼女――見る限り、このアラガミは女性体を形成している――を追い払わなかったのか、とか、何であの時、アラガミに理解出来る響きで話しかけなかったのか、とか、後悔する事は山ほどある。しかし、どれ程過去を振り返ったとして、今、彼女がこの温室で目を輝かせている事実は変えようがないのだ。これはもう、少しばかり腹を括るしかない。なるべく、彼女をフェンリルの目から隠して…否、それは無理だ。サカキがその気になれば基本的に食欲に忠実なアラガミをおびき出す事など容易い。そうなれば、残される道は彼女がこの温室に出来るだけ住み着かないように――通うまではよしとする――するだけだ。見た所、話は出来そうな個体である。何とか分かって貰えるだろう。
 密かにこれからの方針を決めた彼を他所に、背後で上がる暢気な声が二つ。
「ああ、そういえば…腹減ったな…。なあ、レンギョウ?」
「がうっ」
 そんなのは当たり前でしょう。食べずに遊んで、挙句、濡れ鼠になった人達が何を言いますか。頭痛がしてきた米神をひくつかせて振り返ろうとしたセンカは、眉を再び吊り上げた所で聞こえた声に動きを止めた。
「……ハラ…ヘッ、タ……?」
 たどたどしい、飴玉のような高く丸い声音。ぱちり、瞬きをすれば、楽しそうな、けれど、不思議そうな金の瞳と合う。
 木陰に身を隠す必要を感じなくなったのか、ふかふかした下草の感触を楽しみながら姿を現した彼女の色は雪の真白。短く整えられた頭髪に似た部分は少し歪な部分があるから、人のそれを真似ているだけだろうが、それ以外は人と言って差し支えない完璧な形だ。すらりとした痩身。細い顎の筋に、小さな鼻と淡く色付いた唇。陽に透かした鼈甲よりも煌く大きな金色の瞳が酷く印象的に映る。
 頭の先から爪の伸びた手足の爪先まで、全てが一点の染みも無い雪色の肌を朽ちたフェンリルの旗で包んだ彼女は、真っ直ぐにリンドウとセンカを見つめ、また、ぱちりと瞬いて口を開いた。
「ハラヘッタ?」
 まずい。瞬時にセンカは理解した。これは、つまり、言葉を覚えようとする者が行う反復行動であり、ここで躓くと大変な事になる。大問題だ。
 先程、半歩広げた距離を一歩後退して縮め、彼は同じく呆然と彼女を見ているらしいリンドウに囁いた。
「先輩…大変です。言い換えて下さい」
「は?言い換える?」
「もっと綺麗な言葉にして下さい!」
 早く!彼女が覚えてしまう前に!言っている間にも、可愛らしい声でハラヘッターと繰り返す声が聞こえて、センカは本気で青褪める。
 元が何であれ、始めから崩れた言葉を覚えるのは好ましくない。自分でもこうして言葉を覚え、操るのに時間がかかった。それでも進化の早い偏食因子のおかげか、一、二週間程である程度は習得できたものの、講師がサカキでなければ、或いは、自分がその必要性を感じなければ、基礎を習得するのですらもっとかかったに違いない。けれど、彼女は今、自発的に人間の言葉を覚えようとしている。それはつまり、自分と同じように通常よりも速い速度で言葉を習得する可能性を示唆していて、そうであれば、始めには出来るだけ綺麗な言葉を覚えさせるべきだ。崩すのは後からいくらでも出来る。
 彼女が最初に手本にしたのがリンドウでなければ自分が訂正する所だが、こういう時は手本にした相手が訂正する方が功を奏す事をセンカは知っていた。
「あー……おなかへった、だ」
「オ、ナカ…ヘッタ…ダ…?」
 不合格ではないにしろ、最後のダが余計である。
 じとりと無言で更なる訂正を求めた銀色の視線に何となく冷や汗に似たものをかきつつ、リンドウは再度、口を開く。今度はもう少し、はっきりと、わかりやすく。
「おなかへった」
 同じ言葉を繰り返し、此処に来て漸くセンカの言わんとする所を理解し始めたらしい男の滑舌は素晴らしく良かった。小首を傾げる動作に併せて身体を左右に揺らす少女の目を見て、彼はもう一度、おなかへった、と紡ぐ。
 ゆらゆら揺れて、数度。理解をしたのか、していないのか。ふわり、白色が首を傾げてもう一度。
「オナカヘッタ?」
 復習の為にも、もう一回。
「おなかへった」
「オナカヘッタ!」
 合格だ。
 ほっ、と肩の力を抜いたセンカを見てそれが正しく言えたのだと理解した少女は満面の笑みを浮かべ、両腕を勢い良く振り上げながら飛び跳ねてはしゃいだが、彼女と相対していたリンドウは、といえば、少しばかり疲れた様相でがくりと銀色に背後から凭れて抱きついた。
 漸くこれでお役御免だ。全く、只でさえ空腹だというのに、その上、自覚を促すように、腹が減ったと連呼させられては流石のリンドウも項垂れるというもの。
「…なあ、そろそろ本気でおなかへってきたぞ…」
「わかりました。お昼ご飯ですね」
 お昼といってももう太陽は傾きかけた頃。咎める者もいないのだから何時食べても構わないとはいえ、生活の調子が崩れるのは良いとは言えない。空腹がおさまる程度に食べて、夜にきちんと食事を取るべきだろう。
 そうは言いつつ、食事といっても、此処にある物といえば果物か野菜くらい。そろそろ蛋白質を摂れる様な物をどこかから調達してくる必要性があるかもしれない。出来れば肉類が好ましいが、この際、豆でも構わない。それくらいならばこの温室の何処かにある筈だ。周囲の偵察は今日行ったから、明日は豆類探しに一日を費やしてもいい。
 今更、襲ってくる強烈な空腹感に惨めな気分にでもなったのか、甘える獣よろしく首筋に擦り寄ってきた男をさりげなく手で押し退けつつ、センカはその光景をまじまじと見つめて瞳を輝かせる少女に目を向けた。
 きらきら、きらきら、輝く瞳。彼女の旺盛な好奇心は未だ熱を上げたまま冷め遣らぬらしい。
「…お前が好むような物は無いが…来るか?」
 自分達がこれから向かうのは果樹園だ。彼女が好むような食物は無いに等しいが、この瞳の輝き具合からして此処で満足して帰ってくれるとは考え難い。それならばもう好きなようにさせてやるのが上策だ。
 アラガミにも分かる響きで話しかけてやれば、案の定、彼女は更に目を輝かせて駆け寄ってきた。軽やかに跳ね、漆黒が抱き付く銀色に正面から飛び付く白。
「オナカヘッター!」
 どしーん。ぎゅ。そんな音が聞こえそうな加減の無い体当たりにも、身体を支えているのが屈強な身体の持ち主のリンドウであるが為に倒れる事も出来ず、センカはただ、ぐっ、と呻いた。その細身を背後から捕まえて逃がさないリンドウもしがみついて来た少女の発言に笑うだけ。
 だから、何でどうしてこうなった。センカはもう一度、冒頭の言葉を頭の中で繰り返す。
「おお、おなかへったなー」
「ナー!」
「…………いいから、離れて下さい…」
 このままでは昼どころか夕飯になりますよ。言いながら項垂れた銀色を慰めるようにリンドウがふわふわの銀糸を撫でてやれば、それに習って少女までが撫でて来るから怒りも出来ない。ぎゅうぎゅう黒と白に挟まれ、気分はさながらサンドイッチの具。足元で空腹を訴えて啼くレンギョウだけがどうやら味方らしい、と視線を落とした先で、当の幼子が暢気に後ろ足で顎を掻いている様を見て、センカは更に大きく息をついた。
 全く、ただの一人も緊張感がないとはどういう事か。
 リンドウが純真無垢を形にした彼女の重要性に気付いているかどうかは、後で訊くとして、彼女が此処に入り浸る事になるのなら、少し、警戒を強めなければならない。曲がりなりにもアラガミである彼女がそう簡単に人間に尾行されるとは思わないが、ソーマのような例もある。ある程度きちんと教えておかなければ容易に此処が知れてしまうのは想像に難くない。何せ、今の彼女には、秘密にする、という概念が無いのだ。それはフェンリルから身を隠そうとしている自分達にとって非常に危険であり、自分達と温室で会っている事を口外しないように口止めをしておかなくてはならない。
 思いがけない展開に、やる事が山ほど出来てしまったが、目下、最優先でやるべき事は知れている。――――食料の調達だ。
 仰ぎ見る空はもう夕刻間近。これはやはり昼を摂るより早めの夕飯を摂ってしまった方が良いのかもしれない。



アガラミ少女…と、いちいち言うのがそこはかとなく面倒くさいのでもうシオさんと言ってしまいますが、そんなシオさんが温室に乱入で温室家族の出来上がりです。
場面のモデルは勿論、バーストのリンドウさんのおなかへった発言。アレは可愛かった。どうしても書きたかった。だから書いた。もの凄く楽しかった。あと白黒コンビでサンドイッチがどうしても書きたかった(オイ)
新型としては頭の痛い状況に陥ってしまいましたが、もう腹を括って次の策を考えようとしています。が、本気出した博士にはかなわない事も十分わかっているのでそうなる前にどうにかしようと必死です。何としても旦那だけは隠さねば。気分はきっと父に隠れて結婚生活送ってる娘(ぇええ)
対する旦那リンドウさんは温室満喫モードなのでもう可愛い嫁と「おなかへった」しか頭にない春具合。…まあ、多分、一応、何か考えてはいると思いますが。
一番、何も考えていなさそうなのが毛玉ですね。暢気に顎かいかい。

2011/11/12