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 初めて見た、同じ形。

彼は言った、それは鏡像よりも残酷だったと

「あれが、特異点…か」
 ぽつり。遠ざかり、闇に消えていく白い背を温室の入り口で見送りながら男が呟いた言葉に、隣に並んで同じく見送っていたセンカは酷く驚いた。
 心境を言葉にするなら、今更それを聞くか、それに尽きる。夕飯も兼ねた食事を摂るべく訪れた果樹園で、あれは喰えるのか、これはまだ喰えない、幹を齧るな、花を食べるな、と予想に違わない大騒ぎをしている間にもそれを問う時間はあっただろうに、彼はそれを探る片鱗すら見せず、ただ、賑やかな食事風景に笑うばかりだった。穏やかな麹塵が刹那でも鋭く細められるのを見た記憶は欠片も無い。一通り騒いで漸く満足した彼女が家路に着き、決めた覚悟の緊張が無駄になったと密かに一息ついたところで、まさかの時間差攻撃。二人の間で一度も話した事さえ無い話題を突然、出されるのは、覚悟していたとはいえ、細胞が飛び跳ねる思いだ。
 全く、リンドウという男は本当に計ったように、人間を理解し切れない出来損ないこの胸の内を揺さぶってくるから恐ろしい。勿論、今回のこれは揶揄する事が目的ではないとは重々承知しているけれど。
「……ご存知だったのですか…」
 咄嗟に見上げた先で、今になって漸く鋭く細められた麹塵が月の薄明かりに煌いている。瞬いて、開く薄い唇。
「見たのは初めてだ」
 シックザールが特殊なモノを探させる特務をソーマやリンドウ、更にはセンカにまで下していたのは、未だその話題に触れた事は無くとも双方、暗黙の内に理解していた事だ。だが、それを「特異点」と呼ぶものと認識していたかどうか、というのはまた別の話である。
 リンドウがあえて「見たのは初めてだ」と返したのは「言葉は知っていた」という意味に留めているに相違無い。いつ、どこで、誰からその言葉を知ったのか。もしもシックザールから知らされていたのであれば、その時点でリンドウは捨て駒として見られていた事になる。そして、もしもそれがサカキからであったのであれば、彼は計画の抑止力として利用されていたと考えて良い。大まかな立場としてはセンカとそう変わりはしないだろう。捨て駒か、利用されているか。内容的には変わらない、雰囲気だけが微妙な差を生む、些細な違いだ。
 刃が細く唸るように啼いた風が殊の外、冷えていて、月光に煌く長い睫毛を伏せる銀色の細い背に手を添えたリンドウはそっと彼を室内へ促した。からり。足の下で儚く悲鳴を上げる割れた硝子。触れた掌に滲むのは体温。
 昼間、降り注ぐ陽光に生命の息吹を漲らせる温室は夜になればまた違う顔を見せる。肌を包む闇。冷え始める空気。囁き方を変える木々。何より、暖かく眩いほどのそれから静かな朧月のそれへと変わった光が天井を覆う影と化した木の葉の隙間から柱の如く細く注ぎ、割れた石畳の道を導くように照らし出す様は廃教会の夜にも負けぬ壮麗さで、毎夜、二人の目を楽しませてくれた。現世の黄泉路の如く陰鬱な雰囲気すらある闇に覆われた地上に注ぐ銀の光はまるでお前が纏うそれのようだ、と言ったリンドウにセンカが微妙な顔で数歩遠ざかったのも一度や二度ではない。
 以前、良く整備されていた所為か否か。入り口から噴水の広場までの道に無粋な樹木は無く、ただ、淡い光がぼんやり道を照らしている。連れ立って歩く長身の黒獣と銀の白雪は揃いの朧を纏い、その後ろを半歩遅れて尾を撓らせる幼子が追いかけた。
「…そろそろ、支部長が動き出してもおかしくないな…」
 センカがいる事を差し引いたとしても、特異点がここまで来ている――人間と関わる事に興味を覚えている――という事はフェンリルに接触する日もそう遠い話ではないだろう。そうなれば彼女を血眼になって探しているシックザールが動かない訳が無く、どんな手段を講じてでも手中に収めるべく狩りを始めるに違いない。彼女があの男の手に渡れば全ては仕舞いだ。何としてでも、せめて、接触するのがシックザールの息のかかった者以外でなくてはならない。
「連絡を、入れるべきでしょうか…」
 せめて、サカキにだけでも。噴水の縁に腰を下ろし、膝に飛び乗ってきたレンギョウの頭を撫でながら浮かぬ顔で言ったセンカに、しかし、リンドウは首を振った。
「いや、必要ないだろう。時期的にもあいつがアレを見つけてる頃だろうし…圧倒的な後手に回る事は無い筈だ」
「アレ?」
 ふわり。纏った銀光を散らして首を傾げる彼には、正直、少し言い辛い、と思う。
 人間との相互理解を否定しながら、どこかで極東支部の面々を仲間と認めているセンカが、彼ら――リンドウを含む――に刃を向けられると想像するだけで酷く安定を欠くのはリンドウ自身、幾度かの接触で経験済みだ。聡い彼の事、いつもの表情で問いながらも何をしてきたか薄々勘付いているのだろうが、だからといって、無闇に傷つけるような真似をする気は毛頭無かった。
 もとより、アラガミである事に引け目を感じているのだ。不安にさせて、支部に帰りづらくさせても可哀相だろう。何より、彼は自分よりも先に支部に帰らねばならない身。怖れや不安は少ない方が良い。
 曖昧に呻き、数拍。迷った男はやはり茶を濁すに留めた。
「あー…いや、ちょっとした置手紙だ。お前が心配する事じゃない」
 まさかこんな形で役に立つ日が来るとは…思っていなかったといえば嘘になるからこそ残してきたのだが、何と無く複雑な心境だ。うっかり口に出してしまった、置手紙、という皮肉にも冗談にもならない比喩に反応したセンカもまた、同じ事を思っているようだった。茫洋とした白藍の中に、淡い感情の色が揺れている。
 ゆっくりと瞼を伏せた銀色の隣に座り、手を伸ばせば、さらり、指の間を滑る星の色。――――彼は、確実に気付いている。支部に残してきた仲間に宛てた置手紙が何であったのかを。気にしているのは、「何処まで」を詳らかにしたものなのか、だろう。
「大丈夫だ。本当にお前が気にかける物じゃないんだ。不安にさせたなら悪かった」
「……理解、しかねます」
「嘘つけ。今にも泣きそうな顔してたぞ?」
 笑いながら頭を撫でて来るリンドウに些か棘のある視線を向けるも、返るものは酷く愛しげな眼差し。居心地の悪さに身を縮めるしかない。
 実に不本意な話だが、これも此処最近でよく見られる光景だった。どうやって察知するのか、最近のリンドウと言えば他人の、否、センカの機微に矢鱈と聡い。以前から、隊長職に就く者らしく、周りへの気配りはサクヤに張るものがあったが、センカの過去を知ってからというもの、どんな進化を遂げたのか、距離の測り方まで上手くなった。
 つかず、離れず、けれど、愛しさを隠しもせずに触れられる距離を保つリンドウ。それはセンカにとって悪いものではなかったが、だからこそ、怖れる対象という認識をどうにも変えられない。――――いつか、絡め捕られて溺れてしまいそうな気が、している。そして、彼はそれを待っているのだろう。怖ろしい人だ。本当に。
「……そういえば、お前はどう思った?」
「…え?」
 不意に変えられた話題について行けず、ただ、小首を傾げる。揺れた髪から散る銀の燐光を眩しく見送り、男は朗らかに笑った。その瞳が、少しだけ心配げに見える。
「人型のアラガミ…お前に似た奴と会ったのは、多分、初めてだっただろう?」
 言われて、瞬き、俯く白藍。
 確かに、初めてだった。己と同じ人型の、けれど、形成から全く違うアラガミ。同属ではなく、しかし、同族である存在。近しくも遠いそれは果たして、己にどういう感覚を齎していたのだろう。――――捕喰欲、ではない事は確かだ。渇きは一切覚えなかった。羨望、は少しあったかもしれない。純粋な存在をいつでも何処かで羨んでいたから。憎悪や嫌悪などは欠片も無かったと思う。驚愕は確かにあった。それは初めて見たからだ。一つ一つ思い返せば、所謂、負の感情というものは無かったように思える。彼女はあまりに無垢で、ある意味、個として確立していた。だからこそ一度は離れ、会わぬ事が最善と考えたものの、接触してしまえば彼女の行動一つ一つに気を配らなくてはならず、自分はそれを放っておく事が出来なかった。具体的なものに当て嵌めるなら、それはレンギョウに対するものと酷く似たようなものだ。つまり、人間でいう所の、
「庇護欲、でしょうか」
「ん…?なんだって?」
 細い頤に指先を当てて思案するセンカの、薄く開いた唇が月明かりに艶めく様をぼんやり眺めていたリンドウは聞き逃した言葉に意識を移した。
 ゆるりと瞬いた白藍が、膝の上で夢の国へ旅立った幼子を映して、また瞬く。
「接触して、放っては置けないと思いました。全体的には、レンギョウに対するものと似ているかもしれません。始めは、ただ、あのアラガミがそれらしく生きられるような環境にいられたなら良い、と考えて…だから、本当は此処に辿り着く前に一度、追い返したんです」
 レンギョウを助けた時、根底にあったものも同じ思考だ。彼女が彼女らしく生きられる環境にいられるのなら構わない。その為には自分達と関わる事は決して好ましいとは言えない。そう思ったからこそ追い返した。
 彼女が背負うものはあの身体の小ささに反してとてつもなく大きく重いのだ。いつかその日が来るまでに、彼女が彼女でいられる時間が長くあれば。そう思う。彼女の個を尊重する事に比べれば、自分の錯覚染みた感傷など取るに足らないものだと、それだけは今も変わらず確信している。
「でも…あの子は此処まで来てしまって…貴方に示された時、酷く、驚きました…ですが、その…本当は、嫌では無かったのだと、思います」
 ぽつり、ぽつり、懺悔の如く僅かな痛みを孕んで紡がれる鈴の音。じっと聞き入る男は口を噤み、代わりにさわわと木々が囁く。
 実の所、リンドウの指先が指す先に彼女の爛々と光る金色を見つけた時、自分は喜んでいたのかもしれない。醜く、浅ましく、愚かな、己惚れた自分が胸の奥で騒ぎ立てていたような気がする。
 初めて見た同じ形。それだけで嬉しくて、嬉しくて、自分だけではないのだと手放しで喜んで、それから、そんな手前勝手な己に絶望した。
「……彼女に、謝らなければいけません…」
 目を背けて、突き放した事を。彼女との出会いを喜んでしまった不謹慎さを。こうして接触する事で彼女の時間を縮めてしまうかもしれない可能性を。そして、彼女を冒涜するこの自分という存在の浅ましさを。
「そうか」
「はい」
 注ぐ月明かりの中、いつものように抱き締めてきた男が心音に埋もれる程小さな声で囁いた言葉に、ゆるり、白藍が静かに一度、瞬く。――――嗚呼、やはり、この人はこの出来損ないの胸の内を掻き乱すのが上手くて困る。
 あの時、突きつけられたのは己という不完全な存在の醜さ。

 辛かったな。彼は確かにそう言って、抱き込んだ月色の髪に口付けた。



リンドウさんと特異点云々辺りはマイ解釈の82話。
実際の所、リンドウさんの「別の飼い主」というのが博士であったかという点については最後まで明確には語られなかったのですが、支部長と対局にある人物であり、且つ、アーク計画について探りを入れようとする人物といえば博士くらいしかいないので、この長編ではこういう事になっています。
博士の少々狡い所というのはこういう所にも出ていると思う訳でして、要は、支部長と同じような使い方をしていると思うのですよ。支部長の場合は計画の存在を明かした時点で利用した末に口封じをする事は確実で、博士の場合は明かした時点で利用する気満々だけど必要であれば見て見ぬ振りを決め込む事もある、みたいな。そんな所の、微妙な差異じゃないかと思います。

新型的な話をすると、彼の場合、彼から見たシオは「生来からの歴としたアラガミ」という意味でとても眩しく畏怖するべき存在です。元より、アラガミを天然と人工に分けて、自分の身に引け目を感じている子なので例え、理性がなくとも、アラガミらしい生まれのアラガミというのは少しだけ羨ましいと思っている節があります。
なので、ヒト型であるシオはアラガミという「同族」ではあっても同系統の「同属」ではない、という解釈をしています。

どっちにしても改めてひとりぼっちを自覚させられた新型は旦那に慰めて貰わねばなりませんね(最後の最後で他力本願!)
でも、許可されているのはちょっとしたお触りまでです。

2011/11/25